延津の泥濘、生と死の帳簿
それは、気の遠くなるような苦労の末にようやく手に入れた、誰にも邪魔されることのない自由な時間のはずだった。
前世の私は、現代の職場における虫唾の走るような権力闘争や、理不尽に押し付けられる泥を被る役回りに、とうの昔に辟易していた。ブラック企業の残務を処理し、破産に追い込まれた組織の底辺にある醜態を嫌というほど見届けてきた「首席清算人」として、人事部とそれこそ身を削るような艱難の交渉を重ねた末、私はある程度の退職引当金を毟り取り、さっぱり会社を去ったのだ。
残りの人生、私は独り静かに防波堤に腰掛け、釣り糸を垂らし、誰にも奪われることのない絶対の孤独と自由を享受するはずだった。
しかし、そんな悠然としたある午後のこと。暴雨が降り頻る直前の野河で、斑紋の鮮やかな鱖魚を釣り上げ、高く竿を跳ね上げたその刹那、天辺を覆い尽くさんばかりに湧き上がった積乱雲の奥底から、紫色の雷光が激射した。刹那の間に世界全体が呑み込まれていく――それが、私の前世の最後の記憶だった。
「おい! 起きろ! 死んだふりをしてんじゃねえ、この役立たずが!」
耳元を刺すような怒号が響き、それと同時に肋骨を容赦なく踏み付けられる激痛が走り、私は猛然と意識を取り戻した。
私の顔は、粘り気のある冷たい爛泥(泥沼)の中に死に物狂いに押し付けられていた。口内には強烈な鉄錆の味が満ち、周囲には嗅覚を麻痺させんばかりの、天を衝くような腐臭が充満している。
眼を開けた。そこは、私が平穏な日々を過ごしていたあの小都市などでは断じてなかった。
見渡す限り、視界を埋め尽くしていたのは、暴雨が激しく蹂躙した後の泥濘、鮮血、引きちぎられた軍旗、そして無数に転がる古代の甲冑を纏った兵士たちの死屍だった。残肢断臂(引きちぎられた手足)が山を成し、汚血が小川のように集まって流れている。
一本の皮鞭を手に提げ、横肉(肉の塊)を顔面に張り付かせた小隊長の黄皮という男が、私に向かって破口大罵(怒声を浴びせて)していた。
「何をまごまごしていやがる! 曹操軍の追撃が来ねえうちに、早く死人の身体から使える武器や鎧を剥ぎ取りやがれ!」
奇妙なことに、彼の身分も名前も、彼が喋っている古代の土着の言葉も、私の脳内では瞬時に何一つ不都合なく、完璧な意味へと無縫に変換されていた。
西暦二〇〇年。官渡の戦いの前哨戦――延津の戦場。
あろうことか、私は転生していたのだ。王侯将相(高貴な身分)に生まれるわけでもなく、富甲天下(天下無双の富)を誇りながらも最後には自滅する運命にある袁紹軍の最底辺。戦場を片付ける収屍兵(死体回収兵)、それも最も身分の賤しい一介の列兵として。
頭痛が激しく割れそうだった。しかし、前世のブラック企業で揉まれ、最底辺の泥をすすりながら泥沼の残務を処理してきたあの頭脳だけが、この時、肉体の恐怖を力任せに押さえつけていた。
私の眼は戦場を鋭く掃射し、冷静なロジックを以て、即座に目の前の戦況を分析し始めた。
泥水の中に倒れ伏した死屍の傷口、血痕が激しく噴き出した方向、遺棄された軍旗の朝向(向き)。
(……違う。これは、尋常の戦敗なんかじゃない。傷口がすべて正面と側肋(脇腹)に集中している。しかも、倒れているのはほぼ袁紹軍の兵だ。これは、敵の巧妙な誘引によって深く引きずり込まれ、包囲殲滅された死に方だ)
袁紹軍の指揮官は、相手の戦術を完全に看軽(過小評価)していたのだ。これは、前世でよく見かけた、現場の状況を一切見ようともせず、くだらない自尊心だけで無脳の衝鋒(突撃命令)を下し、最終的に底辺の人間を身代わりにする空降高管(天下り役員)のやり口と、何一つ変わりはしなかった。
使い捨ての棋子(駒)として扱われ、この冷たい泥濘の中で凄惨に犬死にしろと言うのか?
ふざけるな。
前世の私は、ブラック企業が清算(倒産)する間際であっても、自身の懐に十分な補償金を回収してみせたのだ。この確実に沈没する泥舟のなかで、私は断じて死ぬわけにはいかない。
この地獄の最底辺から生きて這い上がるため、三国の乱世に転生し、最も地位の低賤な私が、この世界に降り立って最初に行う「泥を被る残務処理」が、今、厳かに幕を開けた。




