彼は、投降(降伏)しに行くのだ。袁紹の遺した最後の骨が、今、完全に圧し折られたのだよ
「将軍、追ってはなりません!」
私は全身の力を振り絞って前へと突撃し、文丑の戦馬のたづなを力任せに鷲掴みにした。滾る(たぎる)ような馬の汗と、文丑の放つ凄まじい殺意の眼光を真っ向から受け止めながら、私は大声を張り上げた。「曹操軍は敗退したのではありません。彼らはすでに天大の果実(勝利)を手に入れ、ここで私たちと泥仕合を演じる価値がないと見限っただけです! これ以上追えば、私たちは烏巢の壮絶な陪葬品(巻き添え)になるだけですわ!」
文丑は激しく荒い息を吐き出しながら、周囲を満たす無数の火光と、洪水の如くに潰敗していく袁紹の大軍を眺め、力なく手中の大刀を垂れ下げて、苦痛に満ちた表情でその眼を閉じた。
私たちがこの数千の残部を引き連れて後方へと撤退を開始しようとしたまさにその瞬間、戦場を焼き尽くす烈火の隙間を縫って、私は遥か彼方にある軍勢のもう一辺の動線を視界に捉えた。
それは、袁紹軍が誇るもう一人の名将、張郃の軍勢であった。
この河北の名将は、年齢は三十七歳、面持ちは瘦削(引き締まり)ながらもその身体は鉄の如くに挺破(真っ直ぐに)としていた。七、八日前、彼が手中の鉄槍を縦横に振り回し、曹操陣営の張遼や徐晃らと互角に渡り合い、辛うじて袁紹軍の面目を保っていた姿を私はこの目で確認していた。
いまや漫天の大火が広がるなか、張郃は自らの麾下にある数万の主力を率い、黒圧圧(黒い塊)となって曹操の中軍大営の方向へと神速で馬を駆り立てていた。張郃の距離はさほど遠くはなく、私からは彼の髭の細部まで視認できるほどであった。しかしながら、彼は文丑のいるこちらの方角へはただの一瞥もくれず、ただひたすらに兵士たちを付き従わせて前進することだけに集中していた。
最前線から逃げ惑う袁紹軍の雑兵たちは、「張将軍が曹操の陣営を夜襲しに行くぞ」と口々に泣き叫んでいたが、前世において無数の倒産企業(破産企業)を渡り歩き、最期の関頭(瞬間)において経営幹部たちが集団で競うように泥舟から飛び降りる様(転職・離反)を嫌というほど見届けてきた私の眼は、騙されなかった。張郃が率いるあの異常なまでに整然とした、しかも攻城のための重い兵器をほとんど携帯していない行軍の隊列のなかに、私は、極めて奇妙(詭異)な静けさを看取(察知)していた。
「伍長、いや中隊副様、張郃将軍はこれから曹操と死に物狂いで命を懸けた決戦を挑みに行くのですかね?」老陳が傍らで生唾を飲み込み、声を潜めて呟いた。
「――いや、彼は命を懸けに行くのではない」
私は火光の深みへと徐々に消滅していく張郃の後ろ姿を見つめながら、冷徹な声で静かに囁いた。
「あの隊列の足取りは、断じて衝鋒(突撃)を仕掛ける者のそれではない。……彼は、投降(降伏)しに行くのだ。袁紹の遺した最後の骨が、今、完全に圧し折られたのだよ」
戦馬の上にまたがる文丑の耳にも、私の静かな呟きは届いていた。彼は一言も発せず、かつて戦場を共にした旧日の袍澤(戦友)であり、自分と同じく河北の四庭柱と称えられた名将の後ろ姿を、ただ黙って、静かに見つめ続けていた。




