80.残されてきた物たち。
それから街道を歩くこと、しばし。
「……あれかな?」
恒一が足を止めた。
道の右手。背の低い草が広がる向こうに、小さな林が見えている。
街道からそれほど離れてはいない。けれど、そのまま歩いていればわざわざ近付こうとは思わなかっただろう。
オルビスもそちらへ目を向け、先程見たフィールドサインの向きを思い返すように周囲を見回した。
「ああ。恐らくあそこだな」
「オルビスも来たことないの?」
「ない。この辺りを通ったことは何度かあるが、街道から外れる理由もなかったからな」
「じゃあ、本当にあの印だけで分かったのか」
「そのためのものだからな」
「そりゃそうか」
ロイドが納得したように頷く。
三人は街道を外れ、草を踏みながら林の方へ向かった。
近付いてみれば、思っていたよりもしっかりした林だった。森と呼ぶほどではないものの、何種類もの木が枝葉を広げ、その下には低木や草が生えている。
そして、そのすぐ脇。
「……ん?」
低い木々の間から、灰色のものが覗いていた。
「何だろう、あれ」
三人で近付いていくと、そこにあったのは数メートル四方ほどの石造りの遺構だった。
いや、もはや建物と呼ぶには、あまりにも残っているものが少ない。
地面には平らな石が敷き詰められ、その四隅らしき場所には折れた太い石柱が立っている。その柱も一番高いもので人の背丈ほどしかなく、床石にも大きな亀裂が何本も走っていた。
屋根はない。壁もない。辛うじて柱と床だけが、かつてここに何かが建っていたことを伝えている。
「遺跡?」
「というほど大層なものでもなさそうだが……古い建物の跡ではあるな」
オルビスが柱の一つへ近付き、表面を見る。
恒一も横から覗いてみたが、文字らしいものはない。何か彫られていたのかもしれないが、長い年月の間に角は丸く削れ、今では石の模様なのか人工的なものなのかさえ判然としなかった。
「何に使ってたんだろう」
「さてな。俺にも分からん」
「オルビスでも知らないのか」
「まぁ、俺は学者や歴史家ではないからな」
「それもそうか」
あっさり言われて、恒一は笑った。
昔の旅人が休むための場所だったのかもしれないし、街道に関係する何かだったのかもしれない。あるいは、今とはまったく違う用途の建物だった可能性もある。けれど、今となっては誰にも分からない。
ただ一つ、確かなのは。
「ああ……なるほど」
遺構の中へ入ったロイドが、納得したように声を上げた。
「確かに休むにはちょうどいいわ」
頭上では、林から伸びた太い枝が大きく葉を広げていた。屋根こそ失われているが、それが天然の日除けになっているのだ。床石も所々割れてはいるものの、少し座って休む分には何の問題もない。草地へ直接腰を下ろすより、ずっと具合が良さそうだ。
恒一も適当な床石へ腰を下ろしてみる。
「お」
ひんやりとしていて気持ちが良い。
日向を歩いてきた身体へ、林を抜ける風が心地良く当たった。
「これは確かに良い休憩場所だな」
「だろ?」
笑いながら荷物を下ろす。
まだ本格的に休憩するほど歩いてはいないが、せっかくなので水くらい飲んでいくことにした。
水筒の水で喉を潤し、恒一は改めて周囲を見る。
古びた石柱。
木漏れ日の落ちる床。
風が吹くたび、頭上で葉がさらさらと揺れる。
街道からほんの少し外れただけなのに、随分静かだった。
「こういう場所があるって知ってるだけでも違うんだろうなぁ」
「ああ。急な雨なら林で多少は凌げる。日差しが強い時期にも使えるだろうな」
オルビスも石柱へ背を預ける。
「だから誰かが印を残したのか」
「恐らくな」
先程までは単に意味を教わっただけの物であった記号と、目の前の場所が実際に繋がった。なるほど、これは確かに次に通る誰かへ教えておいてもいい場所だ。
「ん?」
そんなことを考えていると、オルビスがふと林の方へ顔を向けた。何かを見つけたらしい。
「どうした?」
「いや……。ふむ、ちょっと来てみろ」
そう言って立ち上がり、林の縁へ歩いていく。恒一とロイドも後を追った。
オルビスがしゃがみ込んだ先に生えていたのは、膝ほどの高さまで伸びた草だった。
赤みを帯びた茎から、少し細長い柔らかそうな黄緑色の葉が何枚も伸びている。周囲の草に紛れてはいるものの、一度赤い茎へ気付けば意外と見分けやすい。
「これも覚えておくといい」
「もしかして、薬草の類い?」
「ああ、良くわかったな」
オルビスが小さく笑う。
「紅茎草――見た通り、赤みを帯びた茎が特徴だ。傷薬の材料のひとつとしてよく使われるもので、王都の薬屋でも普通に売っている。珍しいものではない」
「へえ……これが」
恒一もしゃがみ込み、葉を眺める。
言われなければ、まず間違いなくただの雑草として通り過ぎていただろう。だが、名前と特徴を一緒に教えられれば覚えやすい。赤い茎を目印にすれば、次に見掛けた時にも気付けそうだった。
「使うのは、この葉?」
「ああ。もし応急処置なら、汚れを落とした葉をよく揉んでから傷へ当てる。ただし、あくまで浅い切り傷や擦り傷程度だ。街へ戻れるなら、きちんと処置を受けた方がいい」
説明を聞きながら、ロイドも横から葉を覗き込む。
「採っていってもいいのか?」
「少しなら構わんだろう。ただ――」
オルビスは辺りへ目を向けた。
同じ草は一株だけではない。木陰を中心に、ぽつぽつと何株も生えている。
「必要な分だけな。それと、根まで抜く必要もない」
「ああ、葉だけで使えるなら、そりゃそうだよな」
心得たと言うように、ロイドが頷く。
「こういう場所は、俺達だけが使うわけではない。全部採ってしまえば、次に来た者が困る。それに根を残しておけば、また育つ」
「なるほど、確かに次の事も考えなきゃだよな」
恒一は一株から状態の良い葉を二枚だけ選び、極力傷めないよう葉の根元近くからそっと摘み取った。ロイドも同じように数枚だけ。今は怪我もしていないし薬に困っているわけではないので、本当に試しに持っていく程度で十分だ。
「きちんと効果を知ってたら、これもちゃんと素材に見えるもんなんだな」
手の中の葉を眺めながら、恒一は呟いた。
先程の岩跳兎と同じである。
知らなければ、ただの兎。
知らなければ、ただの草。
けれど知識が一つ増えれば、それまで背景だったものに意味が生まれるのだ。
「さて。こちらは食えるぞ」
「んぁ、食い物もあるのか?」
少し先から聞こえたオルビスの声に、恒一とロイドが顔を上げる。見れば、別の低木を指していた。
細い枝の先には、小指の先ほどの赤紫色の実がいくつも房になって垂れている。
「リルベリーの実だ。この時期なら、丁度熟している頃だな」
「そのまま食べれる?」
「ああ。ただし、よく似た実で腹を壊すものもある。見分けがつかないうちは勝手に食わない方がいいぞ」
手を伸ばしかけていたロイドが、ぴたりと止まった。
「お前な……」
「安心しろ、今回はこれで間違いない。赤紫から濃い紫になったものが食べ頃だ。が、赤いものはまだ酸味が強いから気を付けろ」
オルビスが摘んだのを確認してから、二人も熟した実をいくつか選ぶ。
恒一は一粒だけ指先で摘まみ、口へ入れてみた。
「……ん」
ぷつりと薄い皮が弾ける。
最初に感じたのは、きゅっと舌を刺激する酸味。それを追いかけるように、控えめな甘さが広がった。
「結構酸っぱいね」
「ああ、でも美味いな。歩いてる時にちょうど良さそうだ」
「水分もあるしな」
ロイドがもう一粒摘まむ。
恒一もつられて手を伸ばしかけ――ふと止めた。
枝には、まだたくさん実が残っている。
その向こうでは小鳥が一羽、こちらの様子を窺っていた。
「……これくらいにしとこうか」
「ああ」
ロイドも気付いたらしく、手を引っ込める。
自分達のためだけに生えているわけではない。
次にここへ来る旅人もいるだろうし、何よりこの辺りで暮らす動物達にとっては、大事な食料なのかもしれない。
「必要な分だけ、か」
「そういうことだ」
オルビスが小さく笑って頷く。
結局、三人が持っていくことにしたのは薬草の葉が数枚と、道中摘まめる程度の量の果実だけ。荷物が増えたとも言えないような量だ。
それでも恒一には、来た時より少しだけ手荷物が豊かになったように感じられた。
知らなければ通り過ぎていた場所。
知らなければ見向きもしなかった草。
知らなければ食べられるとも思わなかった木の実。
街道からほんの少し外れただけで、それだけのものに出会えたのだ。
「さて、そろそろ行くか」
「ああ。次の目印も探しながら行こうぜ」
「随分楽しそうだな、ロイド」
「そりゃ、意味が分かるようになると探したくなるだろ」
「はは、分かる」
恒一も笑って荷物を背負う。
最後にもう一度、古い遺構を振り返った。
何のために造られた場所だったのかは、もう分からない。それでも今は、旅人が足を休める場所として使われ、誰かがその存在を次の誰かへ伝えている。
そう考えると、役目を失ったはずの古い建物が、今もどこか誇らしげに佇んでいるように見えた。




