8.少し不思議なことがありました。
倉庫の中は、外の陽射しとは別世界のようにひんやりとしていた。壁際には、麻袋がきれいに積み上げられている。
天井近くには小さな換気窓が二つ。棚には木箱や籠が並び、乾燥した香草らしき束も吊るされていた。
決して散らかっているわけではない。むしろ、掃除も行き届いていて、きちんと整理されている印象だった。
「そこへ積んでもらえますか」
ガロンが壁際を指差す。恒一は抱えていた小麦粉を慎重に降ろし、小さく息を吐いた。
「ふぅ……」
「大丈夫か?」
アステルが笑いながら振り返る。
「思ったより重いだろ」
「いやぁ……本当に重いね」
腕を軽く振ると、じんわりと筋肉が張っているのが分かる。
一袋三十キロ。
普段デスクワーク中心だった恒一にとっては、なかなかの重労働だ。
一方で、双子は何事もないように複数運び込んだ袋を降ろし、次を運びに踵を返した。一緒に手伝っている荷馬車の護衛の冒険者達も、すれ違いざまに唖然としている。
(やっぱり、この二人がおかしいんだよな……?)
そんなことを考えながら、恒一は双子の後を追ったのだった。
「よし、これで最後かな」
アステルが最後の袋を積むと、ガロンが少し申し訳なさそうに頭を下げた。
「助かりました。本当なら私達だけで運ぶ予定だったんですが」
「気にしないで。こういうのは人数がいた方が早いし」
「それに、少し話も聞いてみたかったしな」
オルビスが倉庫の中を見回す。
「職人の仕事を見る機会は、意外と少ない。ましてや店の裏側なんて尚更な」
「そうなんですか?」
ガロンが少し意外そうな顔をした。
「冒険者の皆さんは、色々な町へ行かれるでしょう?」
「行くが、依頼が終わればすぐ次へ向かうことも多い」
「なるほど」
ガロンは照れくさそうに笑った。
「うちは本当に普通のパン屋ですよ。朝早くから仕込みをして、生地をこねて、焼いて、売って……毎日その繰り返しです」
「その"毎日"が大変なんだろ?」
アステルが言うと、ガロンは「まあ、それはそうですね」と苦笑した。
「パンは毎日焼かないといけませんから。粉がなければ始まりませんし」
そう言って、小麦粉の袋へ手を置く。
「だから本当は、一度にもっと多く仕入れたいんです」
「でも、そうしていないってことは理由があるんですよね?」
恒一が尋ねると、ガロンは困ったように頷いた。
「ええ」
少し考えるように倉庫を見回し、それから静かに続ける。
「この時期になると、粉が湿気を吸いやすくなるんですよ」
「湿気?」
「はい」
ガロンは一つの麻袋を軽く叩いた。
「小麦粉は思っている以上に湿気に弱いんです。作る時に水を入れるのに、と思われがちなんですがね。粉の時点で少しでも水分を含むと、生地の状態が変わる。パンの膨らみも、食感も、何より香りが変わってしまいます」
「そんなに違うものなんだ」
恒一は感心したように袋を眺めた。
日本では、袋入りの小麦粉を買っても使い切るまで特に気にしたことはない。けれど、ここには何十袋という量が積まれている。勿論ビニールパックでも無いし、事情は全く違うのだろう。
「この倉庫も、冬場はそうそう問題ないんですが……」
ガロンは天井近くの窓を見上げる。
「春を過ぎて湿気が増えてくると、どうしても空気が重くなるんです」
「だから、まとめて置いておけないんだ」
「ええ」
ガロンは苦笑した。
「湿気る前に使い切れる量しか仕入れられません」
「でも、それだと何度も運ばないといけないよね」
「そうなんです」
今度はマーゴが話に加わった。
「保管庫まで馬車を出して、積み込んで戻ってきて……それだけでも半日仕事なんですよ」
「今日はリックも一緒だったしなぁ」
ガロンは息子を見て苦笑する。
「今日は結果的に大騒ぎになっちまいましたが」
「もう、一人では連れて行かせません」
マーゴがぴしゃりと言う。
「反省してます……」
リックがしゅんと肩を落とした。
その様子に皆が思わず笑う。
和やかな空気が流れたあと、ガロンはもう一度倉庫を見渡した。
「仕方がないことだと分かってはいるんです。建物を建て替えるなんて、簡単にはできませんしね。だから毎年、小まめに仕入れるしかない」
「職人っていうのは、こういう苦労も多いんですね……」
恒一がぽつりと呟く。するとガロンは、少し嬉しそうに笑った。
「ええ。でも、美味しいって言ってもらえると、それだけで頑張れます」
「……それ、ダンさんも似たようなこと言いそうだな」
「もしかして、木工職人さんのですか?」
「はい。昨日から働かせてもらってます」
「ああ、では《赤樫亭》の方なのですね」
ガロンはすぐに納得したように頷いた。
「あそこも昔から良い仕事をする工房ですよ」
「職人同士、知り合いなんですね」
「この辺りじゃ、横の繋がりは結構ありますから」
そう言って笑うガロンの横顔を見ながら、恒一はもう一度、倉庫の中へ視線を巡らせた。
整然と積まれた小麦粉。
年季の入った木造の壁。
小さな換気窓。
床板。
そして、どこか重く感じる空気。
(……何だろう)
胸の奥に、小さな違和感が残った。散らかっているわけでもない。掃除もされている。管理が悪いようには見えない。
それなのに。
(何かが、惜しい……)
理由は分からない。けれど、ものづくりを趣味にしてきた経験が、小さく警鐘を鳴らしていた。
――この倉庫は、どこかが違う。
その違和感だけが、不思議なほど頭から離れなかった。
◇◇◇
パン屋を後にした頃には、空がほんのりと赤くなり始めていた。
住宅街を抜け、三人と一匹は王都の大通りへ向かって歩く。
リックは店先で何度も手を振り、最後にはクロムへ向かっても「またね!」と笑顔を向けていた。
そのたびにクロムが「わふ」と短く返事をするものだから、恒一は思わず笑ってしまう。
「すっかり仲良くなったな」
「子供は動物と仲良くなるのが早いから」
アステルが振り返って笑う。
「クロも子供は好きなんだよ」
「そうなのか」
「子どもの頃からそうだった」
「……今はもう子どもじゃないけどな」
恒一が見上げると、クロムは何事もないように歩いている。
横を歩くだけで存在感がある。なのに、どこか穏やかで安心感まであるのだから不思議だった。
住宅街を抜ける頃には、話題も自然と今日の出来事へ移っていた。
「しかし、本当によかったよ」
恒一が言う。
「リックを見つけられたのは、二人のおかげだな」
「俺達だけでもないさ」
アステルは肩を竦める。
「コーイチが一緒にいてくれたから、リックもすぐに安心できたんだと思う」
「そうか?」
「子供って意外と分かるもんだからね」
そう言って笑うと、オルビスも小さく頷いた。
「知らない大人ばかりでは警戒するものだ。だが、コーイチは最初から、接し方が柔らかかった」
「そういうものかな」
「そういうものだ」
短いやり取りだったが、恒一は少し照れくさくなった。
人を安心させる。そんなことを意識した覚えはない。ただ、相手が子供だったから自然とそうなっただけだ。
「何ていうのかな、そこに居るだけで安定させるタイプの人。あぁ、そういえばそういう所はちょっとうちのリーダーに似てるな」
「リーダーって、二人の所属してるっていうパーティーの?」
「うん、そう。ルークっていうんだ」
「へぇ……。というか、ガロンさんも知ってたし、本当に有名なパーティーなんだね」
「うーん……こっちでは、知ってる人はって位じゃないかな?」
恒一が言うと、アステルは少し考え込んだ。補足をするように、オルビスが話し始める。
「ミストリアでは『冒険者』という存在自体があまり目立った職業では無い。だが、冒険者ギルドなら各国の支部でそれなりに連携してるから、多少名前は知られているのかもしれん」
「護衛の依頼なんかは、よっぽど馴染みの冒険者になら直接する人もいるけど……大抵の人は、ギルドを通して出すからな」
「なるほどなぁ」
冒険者というものは、良くも悪くも自由な存在だ。どんな仕事をするかや、どの程度を活動範囲とするかも人それぞれである。それ故に、個人間での迂闊な依頼はトラブルを招きかねないのだと、二人は言った。
「だから今は、そういうのを纏めるギルドがあるってわけか。なら、利用しそうな職人さん達が知ってるのも納得だ」
「そういうこと。ギルドを通しているだけで、最初からある程度は信用して貰えるしな。人間としても、勿論実力も」
冒険者ギルド。漫画や小説の中でなら何度でも聞いた組織の名前だが、よもや実際に存在する世界に来ようとは。
「……それにしても」
恒一はふと、先程の光景を思い出しながら空を見上げる。
「魔法って、本当に凄いなぁ」
リックの足の傷は、跡形もなく治っていた。日本では考えられない光景だった。
「あれくらいなら、治癒師なら普通だよ」
「普通なのか」
「もちろん、何でも治せるわけじゃないけどね」
アステルは歩きながら一緒になって空を仰ぐ。
「骨が折れてたり、大怪我だったりすると難しくなるし、助けが間に合わない事もある。使う人によって得意不得意もあるし、魔法も万能じゃないよ」
「へぇ……」
この世界にはこの世界の常識がある。当たり前の事なのだろう。
そんな事を思いながら歩いていると、不意に頭の中へ別の光景が浮かんだ。
――あの倉庫だ。
「……ん?」
恒一は思わず足を止める。
「コーイチ?」
アステルが振り返る。しかし、その声はほとんど恒一の耳へ入らなかった。
目の前の街並みが、一瞬だけ遠ざかる。
代わりに。
ほんの数分前まで立っていたパン屋の倉庫が、驚くほど鮮明に頭の中へ浮かび上がった。
(何だ……これ)
まるで、その場へ戻ったようだった。
壁。
床。
棚。
積み上げられた小麦粉。
窓から差し込む光。
細かな木目まで見える。
記憶を思い出しているというより、一枚の写真を目の前へ広げられたような感覚だった。
そして、次の瞬間。
その景色の中へ、違和感が生まれる。
――いや、違う。違和感ではなく、言うなれば『強調』だ。今まで何気なく見過ごしていた場所が、不自然なほど強く意識へ飛び込んできた。
壁際。
床との隙間。
積み上げられた袋。
換気窓。
天井付近。
まるで図面へ赤い印を付けるように。
"ここを見る"
そう示されているようだった。
(……え?)
恒一は息を呑む。誰かが説明してくれるわけではない、答えが浮かぶわけでもない。ただ。
頭の中で、一つひとつの場所が自然と比較されていく。
(袋が壁へ近すぎる……?)
(いや、違う)
(窓が小さい?)
(それだけでもない)
考えようとした、その瞬間。映像はふっと霧が晴れるように消えた。
目の前へ、王都の街並みが戻る。
「コーイチ!」
アステルがすぐ近くまで戻ってきていた。その瞳には心配と、少しだけ動揺が見て取れた。
「大丈夫か?」
「あ……ああ」
恒一は額へ手を当てる。
痛みはない、気分も悪くない。ただ、鼓動だけが少し早くなっていた。
「急に立ち止まったから驚いたぞ」
オルビスも様子を窺っている。
「……何か見えたのか?」
その言葉に、恒一は少し考えた。
見えた。
確かに見えた。
だが、自分でも何を見たのか説明できない。
「……いや」
小さく首を振る。
「倉庫のことを、考えてたんだ」
「倉庫?」
「ああ」
恒一はゆっくりと言葉を紡ぐ。、
「何となくなんだけど……」
「うん」
「直せる気がする」
その言葉に、アステルとオルビスは同時に顔を見合わせた。
「直すって?」
「湿気のこと」
恒一は苦笑した。
「まだ何も分かってないんだ。本当に何となくなんだけど」
言葉を探しながら続ける。
「倉庫を見た時、何か引っ掛かったんだよ。でも、それが何なのか分からない」
ふぅ、と一つ息を吐いた。
「さっき急に、その景色が頭へ浮かんできて……でも、そこまでしか分からないんだ」
アステルは恒一の言葉を黙って聞いていた。やがて、ふっと優しく笑う。
「……そっか」
「?」
「コーイチって、やっぱり面白い人だな」
「またそれ?」
「うん」
アステルは楽しそうに頷いた。
「普通なら『そっか、困ってるんだな』で終わる話なんだよ。でもコーイチは『何とかできるかもしれない』って考え始めてる。そういう人、俺は結構好きだよ?」
恒一は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「まだ何も思い付いてないんだけどな」
「今はそれで十分」
アステルは笑う。
「思い付いたら、その時また考えればいい」
その隣で、オルビスが静かに口を開いた。
「考えることを止めない人間は、いずれ答えへ辿り着く」
短い一言だった。けれど、その言葉は不思議なくらい自然に胸へ落ちてきた。
恒一はもう一度だけ、パン屋のあった方角を振り返る。
あの倉庫。
あの重たい空気。
そして、頭の中へ鮮明に浮かんだ景色。
(……もう一度、見てみたいな)
その小さな興味こそが。
後に【工作】というありふれたスキルを、誰も見たことのない能力へと導く、最初の一歩になることを。
まだ、この時の恒一は知る由もなかった。




