72.初めての旅路。
王都を出てから、しばらく経った。
最初こそクロムが速度を上げるたびに身体を強張らせていたロイドも、一定の速さで走り続けるその背に、少しずつ慣れてきたらしい。
少なくとも、恒一の鳩尾を締め上げていた腕からは、いつの間にか余計な力が抜けていた。
「……慣れるもんだな」
「だろ? クロ、走る時あんまり揺れないから」
「いや、これを基準に慣れていいのかは分かんねえけど」
そんな会話が出来るくらいには余裕も戻っている。
王都から伸びる街道は、早朝でもそれなりに人通りが多い。
荷を積んだ馬車に、荷馬を引く商人。籠を背負って歩く旅人や、王都へ向かうらしい冒険者らしき一団とも何度かすれ違う。
そして当然ながら、遠くからやたらでかい影が走ってくれば、向こうも警戒するもので。
「クロ、前に馬車だ。ちょっと落とそう」
「わふ」
前方を見ていたアステルが声を掛けると、クロムはすぐさま速度を緩めた。
かなり手前から駆け足をやめ、相手の馬を刺激しない程度の速さまで落とす。そのうえでアステルが片手を高く上げた。
「おーい! 驚かせたら悪い! 横通るぞー!」
先に人の声を聞き、さらにその背に何人も乗っているのが見えたことで、御者の表情から露骨な緊張が多少なりとも抜ける。
だが、それにしたって迫り来るのは馬ではなく巨大な狼だ。先手を打っての声掛けによりパニックにこそ陥らないものの、大半の顔は驚愕を浮かべて固まっていた。
だからこそだろう、クロムは更に馬車へ極力寄らず、街道の端まで大きく距離を取って通り過ぎていた。
相手の馬の方も、多少は落ち着かなさそうにしていたものの、暴れるほどではない。
「こういうのも気を付けてるんだな」
馬車が十分に離れてから、ロイドがぽつりと言った。
「そりゃそうだろ。クロが悪い奴じゃないって俺達は知ってるけど、向こうは知らないんだから」
「わぅ」
「な?」
「おう……クロが同意してるのは何となく分かったわ……」
おや、ロイドももうそこまで慣れたか。と、恒一が変な所に感心している間に、クロムは再び滑らかに速度を上げていった。
それからも街道上では何度か同じように速度を落としたが、人の姿が途切れたところでは一転して遠慮がなくなる。
ある分かれ道を前にした時など、アステルが周囲を見渡したかと思えば、
「クロ、この辺なら外れても平気そうだな」
「わふっ!」
次の瞬間には街道を逸れ、そのまま広い草原へ飛び出していた。
「うぉっと……道じゃねえけど?」
「うん」
「うんじゃねえよ」
後ろから聞こえた声に、恒一は振り返らないまま答える。
「でも、クロなら関係ないんじゃない?」
「……それもそうか」
半ば諦めを滲ませつつも、納得してしまったらしい。
実際、クロムの足取りに迷いはない。
街道ではない、見渡す限りの草地だ。人も馬車もいないそこを、クロムは緩やかな起伏をものともせず駆け抜けていく。
むしろ障害物が無いのなら、直進すれば良いだけ。道に沿って迂回する必要すらないのである。
やがて遠くで街道と再び交わった時には、どうやらかなりの距離を短縮していたらしい。
(……馬車で二日掛かる場所でも、そりゃ一日で着くわけだ)
恒一は改めて納得する。ただ速いだけではない。道そのものに縛られないのだ。
それでも人里が近付けば街道へ戻り、馬や人を驚かせないよう速度を落とす。
その切り替えには、いちいち相談する様子すらなかった。
アステルが前を見てほんの一声、クロムが即座にそれに応じる。たまに必要ならオルビスが後ろから一言添える。ほんのそれだけで意志疎通が成り立っている。何度も旅を重ねてきた彼らにとっては、それが普段通りなのだろう。
やがて太陽が頭上近くまで昇った頃、アステルが空を見上げた。
「んー……そろそろちょっと休憩するか?」
「賛成」
乗り心地が抜群とはいえ、朝からずっとクロムの背に揺られていた恒一にも異論はない。
ではどこか休めそうな場所を探すのか……と思えば。
「わふっ!」
クロムが妙に元気のいい声を上げ、そのまま街道とは違う方向へ進路を変えた。
「おっ?」
「どうした?」
「この先に丁度良い丘があるってさ」
「……クロ、知ってるの?」
「前に来たことあるみたいだぞ」
アステルが何でもないことのように答える。
街道を離れてしばらく進むと、確かに前方に緩やかな丘が見えてきた。
周囲より少しだけ高くなったそこには大きな木が一本立ち、枝を広げてちょうど良い日陰を作っている。
クロムは迷うことなく木の下まで進むと、そこでゆっくりと身体を伏せた。
「ここ、クロのお気に入りなんだって」
「お気に入り」
恒一は思わず、ここまで来た道を振り返った。
当然ながら、王都の門などもう見えない。
「ほら、クロ、たまに一人で走りに行ってるだろ?」
「行ってるけど……こんな遠くまで走りに来てるのかぁ」
運動不足解消に時々出かけているのはいつものこと。だが大抵、小一時間で帰ってくる。
その『ちょっと走ってくる』の範囲を、どうやら自分は随分と狭く見積もっていたらしい。
「わふ?」
「いや、何でもないよ」
当のクロムは不思議そうに首を傾げただけだった。
荷を下ろして木陰へ腰を落ち着けると、丘の上を吹き抜ける風が薄く汗ばんだ肌に心地いい。
周囲には背の低い草が広がり、遠くには先ほどまで走っていた街道が細い線のように続いている。
遥か彼方に白く霞んでいるのが、王都の街並みだろうか。
そして進行方向へ目を向ければ、街道の更に先。青空の下に、これまでとは明らかに違う険しい稜線が霞んでいた。
「あれがグラナード山地?」
「ああ。まだ結構あるけどな」
アステルの答えに、恒一はしばらくその山並みを眺める。
王都にいた時には、地図の上の名前だった場所。
そこへ今、自分の意思で向かっている。
目的は勇者として魔王を倒すことでも、国同士の戦争に加わることでもない。
椅子を作る、そのための木を探しに行くのだ。
(……改めて考えると、すごい理由でこんなところまで来てるな)
思わず小さく笑ったところで、横からごそごそと布の擦れる音がした。
「ほいコーイチ、パス」
「はいはい」
アステルが取り出したのは、朝にハンナから持たされた大きな包みだ。包み布の結び目を解いて広げてみれば、中には厚切りのパンに肉や野菜を挟んだサンドウィッチや、茹で卵にチーズ、食べやすい大きさに切られた果物までぎっしりと詰められていた。
「……やっぱ多くねえか?」
ロイドが呟く。
「まぁ、オルビスとアステルもいるから、って言ってたし」
「それ込みでも多い気がするんだけどなぁ」
慣れ親しんだ実母の弁当ではあるが、見慣れぬボリュームに目をしばたたくロイドである。
「……おや?」
包みの端にもうひとつ、一回り小さな包みがあるのに気付く。開いてみれば、中に入っていたのは味付けのされていない、厚切りの焼き肉だった。
「なぁこれ、クロの分じゃない?」
途端に、それまで伏せていたクロムの耳がぴんと立つ。
「わふっ!」
「ああ、なるほど。ハンナさん、ちゃんと用意してくれてたのか」
アステルが笑いながら肉を受け取る。
「良かったな~クロ。ハンナさんからだぞ」
「わふっ!」
嬉しそうな鳴き声と共に、ぶんぶんと尻尾が大きく振られた。
四人と一匹で木陰に座り、ハンナ謹製の昼食にかぶり付く。料理上手の女将の腕は相変わらず素晴らしい。
見上げれば木漏れ日。頬を撫でる風。隣ではクロムが嬉しそうに肉を頬張っている。
そして遠くには、これから向かう山々。
(……旅、なんだな)
召喚されてから、移動そのものは何度もしている。双子に連れられて外に出たことも何度かある。
けれど、こうして自分で目的を決めて、必要な物を準備して、誰かと目的地を目指すのは初めてだった。
しかも目的は、欲しい木材を自分の目で見て、触れて、持ち帰ること。散歩や買い物をしに出掛けるのとは一味も二味も違うのだ。
「……コーイチ、また楽しそうな顔してるぞ」
「え?」
「朝もしてた」
「……そんなに分かりやすい?」
「分かりやすい」
アステルが即答し、ロイドまで隣で頷いた。
「まあ、気持ちはちょっと分かるけどな」
「ロイドも?」
「……俺は仕事だ」
「へえ」
「何だよ、その顔」
同じように遠くの山を見ていたくせに。
そう言おうかと思ったが、恒一は笑うだけにしておいた。
昼食を終えた後は、すぐには出発しなかった。
クロムの脚も十分休ませ、皆そろって水分を取って身体を伸ばす。
しばらくしてクロムが自分から立ち上がったところで、ようやく荷物をまとめ直した。
「よーし。それじゃ午後も行くか」
「わふっ!」
再び四人を乗せ、丘を下る。午後になると、景色は少しずつ変わっていった。
王都の近くで広がっていた畑が徐々に減り、街道沿いの家や休憩所も疎らになる。
行き交う馬車や旅人の姿も次第に少なくなり、クロムが街道を外れて走る時間も長くなっていった。
柔らかな草地には少しずつ乾いた色が混じり、時折、地面から剥き出しになった岩が姿を見せ始める。
遠くに見えていたグラナードの山並みも、軽く挟む休憩の度に少しずつ大きくなった。
風の匂いも変わってくる。
王都の周辺を吹いていた穏やかな風とは違い、時折、乾いた強い風が草原を駆け抜けていく。
「……近付いてきたな」
ロイドの声にも、昼までとは少し違う響きが混じる。
「ああ。ここからはもっと岩場が増えるぞ」
アステルはそう答えながらも、特に緊張した様子はない。
ただ、周囲を見る目だけは街道を走っていた時よりも少しだけ鋭さを増している。後ろのオルビスも同様だ。
それまでは先の様子や時折景色へ向いていた視線が、いつの間にか周囲を確かめるように動いている。
その変化を見て取ると、恒一も自然と背筋を伸ばした。
まだ危険な山中ではない。それでも、少しずつ日常の外へ出ているのだ。
やがて太陽が僅かに西へ傾き始めた頃。
まだ空には十分な明るさが残っているうちに、アステルがクロムへ声を掛けた。
「クロ、この辺から良さそうな場所探そうか」
「わふ」
「もう止まるの?」
恒一が尋ねると、アステルは振り返った。
「うん。俺達だけならもうちょい行ってもいいんだけどさ。コーイチとロイドは野営慣れてないだろ?」
「うん、俺はほとんど経験ないな」
「俺も修行先との移動で何度かやったくらいだ。それも一応街道沿いの休憩所だったし」
「なら、暗くなってから慌てて準備するより、明るいうちに始めた方がいいよ」
「設営して終わり、ではないからな。水場と周囲の確認も要る」
「風向きや地面の状態も見ておきたいしな。それで何か問題があれば、明るいうちなら場所も変えられる」
「なるほど」
恒一は周囲を見渡した。
真夏に比べれば早くなってきたとはいえ、日没まではまだ余裕がある。つい「もう少し進めるかな」と考えてしまいそうな時間帯だ。
けれど双子にとっては、進めるかどうかではなく、この後の準備まで含めての判断なのだろう。
ほどなくして、クロムが速度を落とした。
街道から少し離れたところに、低い岩場を背にした比較的平らな土地がある。その先には木々が疎らに生え、耳を澄ますと微かに水の流れる音も聞こえてきた。
「ここ、良さそうじゃない?」
「一度見るか」
クロムから降りると、恒一とロイドをアステルが手で止めた。
「まだ待ってて。先に見てからな」
「ああ、わかった」
アステルは地面へしゃがみ込み、草の状態や傾きを確かめる。
オルビスは周囲へ視線を巡らせた後、そのまま水音のする方へ歩いていった。
「水場を見るついでに、周囲も一周してくる」
「ん、頼んだ」
クロムも鼻先を地面へ近付け、何かを確かめるように軽く周囲を歩き回る。
恒一とロイドは、ひとまず荷物を下ろしたところで待機だ。
「……俺達、今のところ本当に乗ってきただけだな」
「言うなよ。俺も今思ってた」
「まあ、これから働いてもらうけどな~」
地面を確認していたアステルが顔を上げ、にっと笑った。
「テント、コーイチとロイドにやってもらおうと思ってるし」
「俺達が?」
「最初はもちろん教えるよ。二人とも器用だし、今のうちに覚えとけば、今後も役に立つかもだろ?」
その言葉に、恒一とロイドは顔を見合わせる。
「ある意味、プロに教わる良い機会ではあるな?」
「それもそうだな?」
「あっはは! そういうこと!」
少しして戻ってきたオルビスから、水場にも周囲にも問題はないと報告が入る。
アステルも地面をもう一度確かめてから頷いた。
「よし。じゃあ今日はここにしよう」
クロムがぐっと大きく身体を伸ばし、その場にどさりと伏せる。西の空にはまだ陽が残っていた。
小さな旅、一日目。
グラナードの山並みを間近に望むその場所が、王都を発って最初の野営地となった。




