55.もう一つの【工房】。 前編
週末、休日二日目の朝。
恒一は、赤樫亭の二階にある自室で目を覚ました。
「……ん」
薄く目を開け、しばらく天井を眺める。窓から差し込む朝の光は、もう随分と明るい。
昨日は一日中、王都近郊の湖畔で過ごした。
魔力を感じる訓練に始まり、ひまりの魔法練習を見て、【工房】まで使って――挙げ句の果てには、人生初の魔力切れまで経験した。
そのせいか、昨夜はベッドへ入ってからほとんど記憶がない。
だが。
「……よし。大丈夫そうだな」
上体を起こし、軽く肩を回す。
昨日感じていた身体の重さはもうない。頭痛も倦怠感もなく、身体の調子はいつも通りだった。
魔力という、未だ自分ではよく分かっていないものが本当に回復したのかまでは判断できない。それでも、少なくとも体調に問題はなさそうだ。
もっとも――。
「今日は調子に乗らないようにしないとな……」
昨日、クロムの顎で強制的にスキルの発動を止められたことを思い出す。
意識して使えるようになりかけた途端、今度は興味を持ったものへ勝手に意識が向くようになった。
アステル曰く、
『完全無意識だったのが、無意識に意識するようになっちゃったなぁ……』
とのことである。
言っていることは少々ややこしいが、意味は分かる。
使えると分かった道具を、つい触ってみたくなるようなもの。ものづくりが好きな恒一にとっては、かなり耳の痛い話だった。
「……気をつけよう」
誰にともなく呟いて、ベッドから降りる。
顔を洗い、服を着替え、身支度を整えて階下へ向かう。一階へ降りると、赤樫亭は既にゆっくりと一日を始めていた。
「ふぁぁ……」
大きな欠伸をしながら食堂へ入ってきたのはダンだ。いつもなら工房へ向かう頃にはすっかり仕事の顔になっている親方も、今日は休日。まだ眠気が抜けきっていないらしい。
「おはようございます、親方」
「おう……おはよう、コーイチ」
返事にも、いつもの豪快さが三割ほど足りない。
その一方で、台所ではハンナが朝から忙しなく動き回っていた。
「コーイチ、おはよう。よく眠れたかい?」
「はい。昨日は帰ってからすぐ寝ちゃいましたけど、おかげですっかり」
「そりゃ結構。昨日はずいぶん疲れた顔で帰ってきたからねぇ」
「ちょっと色々ありまして」
魔力切れで一度倒れかけました、とは朝一番からわざわざ報告しなくてもいいだろう。
恒一は苦笑しながら袖を捲った。
「何か手伝いますか?」
「じゃあ、その皿出しておくれ。あとパンも切ってもらえるかい?」
「はい」
ハンナの手伝いも、もう慣れたものだ。
棚から人数分の皿を取り出し、卓上へ並べる。オーブンで軽く温め直したパンを切り分ける。
その横では、ハンナが大きなフライパンで卵と野菜を炒めていた。
香ばしい匂いが食堂へ流れ始める頃には、それにつられるように二階から足音が聞こえてくる。
「おはようございまーす……」
「腹減った……」
「お前、起きて最初にそれかよ」
職人達が一人、また一人と降りてくる。
仕事の日より少し遅い。服装も表情も、どことなく気が抜けている。
それでも全員が自然と同じ卓を囲んでいく光景は、恒一にとってすっかり見慣れたものになっていた。
召喚され、この世界へ来たばかりの頃には想像もしていなかった朝。
王城でも、豪華な宿でもない。
木の匂いが染みついた工房の二階で目を覚まし、階下へ降りれば誰かが欠伸をしていて、台所から朝食の匂いが漂ってくる。
いつの間にか。これが恒一にとっての、この世界での『いつもの朝』になっていた。
焼き立てではないものの、温め直して端がカリッとしたパンを口へ運ぶ。
卵と野菜の炒め物は、塩と胡椒だけのシンプルな味付けだ。けれど、それが妙にこのパンと合う。
炒めた野菜の甘みと卵のまろやかさをパンで受け止め、そこへ温かいスープを一口。
休日の朝らしい、のんびりとした食事だった。
「そういや、コーイチ。今日は何か予定あんのか?」
向かいに座っていたダンが、不意にそんなことを聞いた。
「いえ、特には」
昨日は一日出掛けていたし、今日は赤樫亭でゆっくり過ごすつもりだった。
強いて言えば、少し道具の手入れでもしようかと思っていた程度だ。
「んじゃあ、ちょっと朝飯の後付き合え。裏庭の倉庫を弄りたくてな」
ダンはそう言って、ずずっとスープを啜る。
「倉庫ですか?」
「ああ。裏の端っこにあるやつだ」
言われて、恒一は頭の中に赤樫亭の敷地を思い浮かべた。
工房の裏手には、資材を置いている広めの庭がある。木材を一時的に置いたり、端材をまとめたり、天気のいい日には加工した材料を乾かしたりもする場所だ。
最近は、巨大な魔狼が落ちていたりもする。
その奥、戸口の横。
「あの、ほとんど使ってない倉庫ですか?」
「それだ、それ」
やはり、あそこらしい。
存在自体は知っている。ただ、恒一が赤樫亭へ来てから、誰かが頻繁に出入りしているところは見たことがない。
「何か置くんです?」
「まあ、そんなとこだ」
妙に曖昧な返事だった。
恒一が首を傾げても、ダンは気にした様子もなくパンをちぎって口へ放り込む。
「中も一回片付けてえしな。使えそうなもんと捨てるもん、分けるぞ」
「分かりました。じゃあ朝飯が終わったら」
「おう」
ダンは再び朝食へ戻り、恒一も深く考えずパンへ手を伸ばした。
朝食を終えると、恒一は食器を台所へ運び、簡単に片付けを手伝った。
「ごちそうさまでした。ハンナさん、これ置いておきますね」
「はいよ。ありがとね」
最後の皿を重ねて置いたところで、食堂の方から椅子を引く音がする。
「よし。コーイチ、行くぞ」
「あ、はい」
ダンに促され、恒一もその後を追った。
赤樫亭の裏庭には、木材や端材が置かれている。
屋根のある保管場所には乾燥させた材木が種類ごとに積まれ、少し離れた場所には加工途中のものや、すぐには使わない資材がまとめられていた。
ここまでは、恒一も日頃から何度となく出入りしている場所だ。
だが、ダンはそれらには目もくれず、そのまま奥へ進んでいく。
「あれだ」
太い指が示した先。
裏庭の隅に建つ、小さめながらもしっかりとした造りの木造の建物。
存在そのものは以前から知っていたが、誰かが頻繁に使っている様子はなかった。たまに古い道具や余った資材を放り込む程度で、普段の仕事ではほとんど使われていない倉庫だ。
ダンが扉へ手を掛ける。
「ちっと固ぇぞ」
言いながら力を込めると、
ガッ――ゴゴッ。
少々嫌な音を立てながら、木の扉が開いた。
同時に、籠もっていた空気が外へ流れ出す。
「うわ……」
思わず恒一は顔をしかめた。
古い木と埃、それに僅かな湿気の混じった匂い。
「しばらく開けてなかったからな」
「しばらくって、どのくらいです?」
「さあな」
「そこ覚えてないんですか」
「使ってねえんだから覚えてるわけねえだろ」
豪快にもほどがある。
ダンが先に中へ入り、恒一も苦笑しながら後に続いた。
外から見た印象通り、中はそれほど広くない。とはいえ、物置として使うには十分な広さがある。
壁際には古びた棚。奥には使われなくなった作業台。端には端材や板材が無造作に立て掛けられ、何に使うのか分からない古い木箱もいくつか積まれている。
天井の隅には、立派な蜘蛛の巣まで出来ていた。
「……まず掃除したくなりますね」
「だろうな」
ダンはまったく悪びれない。
恒一は鼻の前で軽く手を振りながら、もう一度室内を見回した。
窓は一つ。そのせいか、朝だというのに室内は薄暗い。
それに――。
「親方」
「ん?」
「これ、窓って開きます?」
「開くぞ。多分」
「多分……」
試しに手を掛けてみる。
動かない。
もう少し力を込める。
「……っ」
ギギ、と僅かに音がしただけだった。
「……木の脂か油かな……。固着してますね、これ」
「ま、直せば使えるだろ」
「直す前提なんですね……」
言いながら、恒一は窓枠から手を離した。
そのまま何となく、室内を歩いてみる。
入口から奥の作業台まで。
途中には木箱が積まれ、端材が立て掛けられ、棚の一部は妙に張り出している。
もちろん、今はただ物を放り込んでいるだけなのだから当然なのだが――。
「……使いづらそうだな」
ぽつりと零れた。
「そうか?」
背後から返ってきた声に、恒一は振り返る。
ダンは入口近くで腕を組んでいた。
さっきまでと変わらない顔だ。
けれど。
何となく、こちらを観察されている気がした。
「コーイチ」
「はい」
ダンが顎で倉庫の中を示す。
「ここ、どう思う?」
「どう、って……」
「ここを作業場として使えるように直すなら、お前ならどうする」
恒一は瞬きをした。
掃除を手伝わせるために連れてきたのだと思っていた。だが、どうやら違うらしい。
改めて倉庫を見る。
古い棚と作業台。
積まれた木材。
一つしかない窓。
入口から入って、作業台へ向かうまでの動線。
木材を運び込むなら。
ここで加工するなら。
工具を使うなら。
作ったものを一時的に置いておくなら。
――そう考え始めると。
「……あ」
次々に気になるところが出てきた。
棚は、ここでいいのか。
作業台は奥でいいのか。
材料置き場が入口近くにあるのは悪くない。だが、この配置では、そこから奥の作業台へ運ぶ途中に木箱や棚が邪魔になる。大きな材木を抱えて何度も往復するなら、なおさらだ。
窓から入る光も、今の位置では作業台の手元を十分に照らしていない。換気だって、この窓一つでは心許ない。
考え、見比べ、また考える。
すると。
恒一の視界の端に、淡い青白い光が灯った。
「……おっと」
昨日までなら、そこで驚いていただろう。
けれど今は違う。何が起きているのか、少しだけ分かる。
今、自分の中の魔力が動いた。それは、自分が考えているから。それを形にしようとしているから。
その思考に呼応するように、【工房】が動き始めている。
床の上を、細い青白い線がするりと走った。
入口から伸びて、棚の前を通り、作業台へ。
――違う。
「そこじゃないな……」
恒一が呟く。
線が薄れ、消える。
代わりに別の線が伸びていき、倉庫の中央へ作業台の輪郭を描いた。
恒一は、それを見ながら顎へ手を添える。
スキルが答えを教えてくれているわけではない。これは、自分が今考えていることだ。
昨日ようやく理解した、その感覚。
ならば。
「…………」
ちゃんと考えてみよう。
この倉庫を。
もし、自分が仕事場として使うなら――どうするか。
恒一はもう一度、入口から室内全体を見渡した。
そんな恒一を、ダンは何も言わず、腕を組んだままじっと見ていた。
「まず……作業台ですね」
恒一は、奥に置かれた古い作業台へ目を向けた。
壁際へ寄せられているため、使えるのは実質一方向だけだ。小さな物を一人で加工するだけなら、それでも困らない。だが、少し大きな物を扱おうとすれば途端に窮屈になる。
「これ、中央へ持ってきたいです」
「真ん中か」
「はい。壁際だと作業する方向が限られますから。中央なら、どこからでも手を入れられますし」
恒一の視線に合わせるように、淡い青白い線が床を走った。
今ある作業台の輪郭が薄く残り、その代わりに倉庫の中央へ新たな四角が描かれる。その周囲には、人ひとりが余裕を持って通れる程度の空間。
それを眺めながら、恒一はさらに考える。
「大きめの物を組む時も、こっちの方がやりやすいと思います。反対側から押さえたりもできますし……二人以上で作業することになっても使えます」
「ふむ」
ダンは短く答えただけだった。
恒一は次に棚を見る。
「棚は……全部まとめるより、用途で分けたいですね」
古い棚の一つへ近付き、状態を確かめる。埃は酷いが、木そのものはまだ使えそうだ。少し補修すれば、十分現役に戻せるだろう。
「よく使う工具は作業台の近くにしたいですし……材料棚は入口に近い方がいいかな。重い木材を奥まで運んで、使うたびにまた取りに戻るのは面倒ですから」
新しい線が壁際へ伸びる。
木材を置く場所。工具を収める棚。加工前の材料と、加工途中の物を置く場所。
まだ曖昧なものも多い。
実際に使い始めれば、考え直すところだって出てくるだろう。
それでも。
ひとつ考えるたびに、ただ雑然としていた倉庫へ少しずつ意味が生まれていく。
「あと、やっぱり光が欲しいですね」
恒一は壁にある小さな窓を見上げた。
「今の窓は直すとして……作業台を中央へ置くなら、時間帯によっては手元が暗くなりそうです」
「窓、増やすか?」
「出来るんですか?」
「壁ぶち抜きゃ増える」
「親方、もう少しこう……建物を大事にする感じで言いません?」
「直せるようにぶち抜きゃいいんだよ」
「そういう問題かなぁ……」
それが可能な腕を持つ職人として正しいのか、単に豪快すぎるだけなのか、判断に困る。
だが、窓を増やせるのならありがたい。
「それなら、こっち側にも一つ欲しいです。風も抜けるように出来れば、換気もしやすくなりますし」
「木ぃ扱うなら湿気も見とけよ」
「ああ、そうですね」
ガロンの店の倉庫改善でも、散々考えた問題だ。
材料を保管する以上、ただ風を通せばいいという話でもない。
日当たり。風の流れ。湿気。木材の置き方。
考えることはいくらでもある。
「……あとは、この棚をこっちに持ってきて……いや、それだと窓を増やした時に邪魔になるか?」
青白い線が一本消え、別の場所へ引き直される。
「作業台の周りには物を置きすぎない方がいいな。工具は手が届く範囲に欲しいけど、通る時に引っ掛けたら危ないし……」
いつの間にか、恒一はダンへ説明することすら半分忘れていた。
倉庫の中を歩き、立ち止まり、しゃがみ込み、また立ち上がる。青白い線も、そのたびに生まれては消える。
恒一が考え直せば、線も変わる。違うと思えば消して、もっと良い形を考える。
それを繰り返しているうちに、古びた倉庫の中に、まだ存在しない作業場の姿が少しずつ浮かび上がっていた。
「……よし」
しばらくして、恒一はようやく顔を上げた。
「とりあえず、最初に弄るならこんな感じかな」
「終わったか?」
「あっ、すみません。途中から完全に一人で考えてました」
「おう、知ってる」
ニヤリと笑いながら即答された。
恒一は気まずそうに頭を掻く。
「で、親方。結局ここ、何に使うつもりなんです?」
そもそもの話である。
ここまで好き勝手に改善案を出したものの、肝心の用途を聞いていない。
すると、ダンが中央まで歩いていく。
そこには、恒一にしか見えない青白い線が描く、まだ存在しない作業台。
そのすぐ横で足を止めた。
「よし」
「?」
「じゃあ、やってみろ」
「……何をです?」
ダンが倉庫を見回す。
「今言ったやつ、全部だ」
「全部?」
「棚動かして、窓直して、作業台も好きなとこ持ってけ。必要なら直せ。材料も使っていい。人手や足りねえもんがありゃ言え」
恒一は数度瞬きをした。
「いや、待ってください。何のために?」
「お前が使うためだ」
「…………はい?」
今度こそ、思考が止まった。
ダンはそんな恒一を気にも留めず、中央の作業台予定地を顎で示した。
「ここ、もうほとんど使ってねえからな。物置にして腐らせとくくらいなら、お前が使え」
「俺が?」
「おう」
「ここを?」
「さっきからそう言ってんだろ」
「いや、だって……」
恒一は改めて倉庫を見回した。
埃まみれの棚。
古びた作業台。
固着した窓。
そして、その上へ重なる――自分で引いた青白い線。まだ頭の中にしかない、作業場の形。
「……俺専用ってこと、ですか?」
「そんな感じでいい。赤樫亭の仕事で使ってもいいし、お前が何か試してえ時に使ってもいい」
「でも俺、まだ見習いですよ」
「だから何だ」
あっさり返された。
「さすがに工房の方じゃ、皆が仕事で使う場所を好き勝手に弄らせるわけにいかねえ」
「それは……まあ」
「けど、お前は色々思いつく。そんで、大抵面白えことになる」
ダンの大きな手が、古びた作業台をぽんと叩いた。
「なら、好きに試せる場所が一つくらいあってもいいだろ?」
恒一は言葉を失った。
確かにこれまでも、何かを作らせてもらったことはある。
倉庫の改善にも関わった。思いついたことをダンへ相談すれば、試させてもらえることも増えた。
だが。
最初から最後まで、自分で考えていい場所。
失敗して、直して、また作って。
誰かの仕事を邪魔することを気にせず、好きなだけ試せる場所。
そんなものを持つなんて。
この世界へ来てからどころか――日本にいた頃だって、ほとんど考えたことがなかった。
「……何で、俺に?」
思わず聞くと、ダンは少しだけ黙った。
倉庫を見回す。
それから、恒一があちこちへ引いた青白い線――彼には見えていないはずの、その辺りへ何となく視線を向けて。
「見てみてえんだよ」
「何をです?」
「お前が好きにやったら、どんな仕事場になるのか」
そう言って、ダンは笑った。
「好きに弄れ、コーイチ」
中央に立つ恒一の肩を、分厚い手で一度だけ叩く。
「お前の工房だ」
恒一は、何も言えなかった。
――自分の、工房。
その言葉だけが。
妙にゆっくりと、胸の奥へ落ちていった。




