54.影。
それからしばらく、一行は湖畔で休憩を取った。
すぐに立ち上がれるほど、勇者四人の疲労は軽くない。水を飲み、風に当たりながら身体を休める。その間にも、話題は自然と先ほどまでの模擬戦へ戻っていった。
「あそこで俺がもうちょっと早く前に出てれば、レイが動きやすかったよな」
「いえ。あれは僕もヤマトの位置を見ていませんでしたから。むしろ――」
「私も結界張る場所、もう少し考えた方が良かったかも」
「でも最後の方、ミコトの結界すっごい助かったよ!」
疲れ切っているというのに、四人の口はよく動く。
上手くいかなかったところ。
上手くいったところ。
次ならどうするか。
思い返す度に新しい発見があるらしく、時折アステルやオルビスへ質問を投げては、また四人であれこれと話し始める。
恒一はそんな様子を眺めながら、少し離れた場所で荷物を片付けていた。
湖面へ降り注いでいた陽射しも、いつの間にか柔らかくなっている。朝には高く昇っていった太陽が、今度はゆっくりと西へ傾き始めていた。
「さて、と」
最後の水筒を鞄へ戻し、恒一は立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
「はーい」
「そうですね」
声を掛けると、各々がゆっくり腰を上げた。
「うぅ……足重い……」
ひまりが立ち上がった途端、情けない声を漏らす。
「だから最後の一発やめとけって言っただろ」
「だってぇ……もうちょっといけると思ったんだもん……」
「明日、筋肉痛になりそうだな」
「ヤマトも人のこと言えないでしょ?」
「……それは言わない約束で」
そんな会話を交わしながら、帰り支度を整える。
身体には確かな疲労が残っている。それでも、四人の表情は明るかった。
朝ここへ来た時とは違う。
自分達にも出来ることがあると、ほんの少し手応えを掴めたからだろう。
やがて荷物を背負い、一行は湖畔を後にした。
来た時と同じ道を、今度は王都へ向かって歩いていく。
その途中。
「……ん~」
すぐ傍から聞こえた声に、恒一は振り向いた。
「ん? どした?」
「んー……」
アステルが首を左右へ軽く倒す。そして何を思ったのか、隣を歩いていたクロムの背へ手を掛けた。
「よっと」
ひょい、と。
軽い身のこなしでその背中へ飛び乗る。そのままパタリと身体を倒し、クロムの広い背中へ腹這いになって寝転がった。
「ふぃー……楽ちん」
「あっ、ずるーい!」
すかさずひまりが声を上げる。
「何でアステルさんだけ!」
「ふっふっふ」
アステルはクロムの背で頬杖をつき顔を向けると、悪びれることもなく笑った。
「お兄さんは朝から色々やったから疲れたのだよ」
「私達の方が絶対疲れてますー!」
「それは否定しない!」
「じゃあ代わってください!」
「やーだね」
「ずるいー!」
「はっはっは!」
「わふっ」
騒がしい二人に挟まれたクロムは、気にした様子もなく歩き続けている。
その姿に、大和達からも笑い声が漏れた。
いつもと変わらない。
少なくとも――そう見えた。
「…………」
ふと、恒一の足が僅かに緩んだ。
(……ん?)
何だろう。
何かが引っ掛かった気がする。
それは音でもなく、匂いでもない。
魔力――なのだろうか。それすら、よく分からない。
ただほんの一瞬。何かが揺れたような気がした。
恒一は無意識に、クロムの背へ目を向ける。
そこではアステルが、ひまりとまだ言い合っていた。
「だから交代はなーし!」
「けちー!」
「自分で歩け、自分で!」
いつも通りだ。
(……気のせいか?)
首を傾げる。
その少し前方で。
「…………」
オルビスもまた、足を僅かに緩めていた。
振り返る。
視線の先にいるのは、クロム。
そして、その背に寝転がる片割れ。
「兄さん?」
視線に気付いたアステルが顔を上げる。
「どうした?」
「……いや」
オルビスは数秒だけ弟を見つめた。
だが、それ以上何かを言うことはなく、前へ向き直る。
「何でもない」
「そ?」
アステルはそれ以上聞くこともなく、再びクロムの背へ身体を預ける。
そして、一行は歩いていく。
西へ傾き始めた太陽が、街道を柔らかな橙色へ染めていた。
長く伸びる、大和の影。
玲司の影。
美琴とひまり。
恒一。
オルビス。
そして。
大きなクロムの影に重なる、アステルの影。
誰も見ていない、その足元で。
――影が、揺れた。
クロムの影と重なっていた黒い輪郭が、するり、と。まるで水面を泳ぐ何かのように形を崩す。
そして――離れた。
音もなく。
気配すら残さず。
まるで初めから別の生き物だったかのように、細長い影が地面を滑っていく。
一度だけ、大きく身をくねらせ。
すぐ横の、街道脇に伸びる木々の影へ溶け込んだ。
誰も振り返らない。
誰も、それを見ることはなかった。
ただ太陽だけが、一行の影を長く、長く伸ばしていた。
街道沿いに続く木立。
傾き始めた陽射しも、その奥までは届かない。
幾重にも重なる枝葉が作り出した薄暗がり。その中に紛れるようにして、一つの人影が潜んでいた。
全身を覆う、黒装束。
顔もまた布で覆われ、外へ晒されているのは目元だけだ。
男は木の根元へ身を寄せ、じっと街道を見つめていた。
黒に近い灰色の瞳。だが、その眼差しには奇妙なほど生気がない。
濁っている。
何かを考えているようにも、獲物を狙っているようにも見えない。
ただ与えられた役目を遂行するように、機械的に一つの方向だけを見続けていた。
その視線の先。
街道を歩いていく、七人と一頭。
時折、笑い声が聞こえてくる。
誰も振り返らない。
誰もこちらを見ていない。
気付かれてはいない。
――その筈だった。
男の背後。
木々の影が幾重にも重なる地面で。
黒いものが、ゆらりと揺れた。
風は吹いていない。枝も動いていない。
それなのに影だけが、まるで水面から浮かび上がるように地面を離れていく。
音もなく。
気配もなく。
ゆっくりと立ち上がる。
頭。
肩。
腕。
胴。
やがてそれは、一人の人間の輪郭を形作った。
それでも、男は気付かない。
『……ふぅん』
声がした。
『随分、仕事熱心なこって』
「――!?」
男が弾かれたように振り返る。
濁った瞳が、大きく見開かれた。
そこに――誰かが立っている。
紅い瞳。
鮮やかな、血のような赤。
その双眸が、男を頭の先から足元まで値踏みするように眺めていた。
『…………』
黒い人影は、何かを考えるように口元へ指先を添える。
僅かに首を傾げ。
男を見つめ。
そして。
『ああ』
何かに気付いたように、紅い瞳が細められた。
『お前――“もうヒトじゃない”のか』
「――――」
男の喉が、僅かに動いた。
目の前に立つものを見ている。
知っている。
その顔を。
その姿を。
つい先ほどまで、確かに見ていた。
街道を歩いている一行の中。
巨大な魔狼の背へ悠々と寝転がり、仲間達と笑っていた銀髪の青年。
今も、そこにいるはずだ。
――否。
違う。
目の前にいるものは、あの青年ではない。
同じ形をしているだけだ。
肌も。
髪も。
纏う服さえ。
その全てが――漆黒。
光を映さない影そのものが、人の形を取っている。
ただ一つ、瞳だけが違った。
鮮烈な、紅。
その紅い瞳が、静かに男を見下ろしている。
怒っているようには見えない。
敵意すら、感じられない。
ただ。
男の奥にある何かを見透かしたように、ほんの僅かに目を細めた。
『……随分、悪趣味なことするもんだな』
軽かった声から、ふっと温度が消える。
そして。
ほんの少しだけ。
哀れむように。
『――可哀想に』
その声を最後に。
木立は再び、静寂に包まれた。




