45.開花の時。
「よーし……!」
ひまりはもう一度、小さく気合いを入れた。
杖を握り直し、深く息を吸う。先ほどアステルが見せたように、慌てず、ゆっくりと。魔力を広げ、空気中の水を集め、そして最後に包み込む。
ぽつり、と一粒の水滴が現れた。
さらにもう一粒。
やがて幾つもの水滴が寄り集まり、小さな水球を形作る。
「そのまま、そのまま」
アステルは穏やかな声で促す。
「急いで大きくしようとしなくていいぞ」
ふわふわと揺らめいていた表面が、徐々につるりとした丸に近づく。順調に思えていた、刹那。
水球が、ふるりと震えた。
ひまりの肩も思わずぴくりと動く。
ーーぱしゃっ。
水球は軽く爆ぜて、細かな飛沫となって湖畔へ散った。
「あうぅ……」
しゅんと肩を落とすひまりへ、アステルは笑って手を振る。
「気にするな、今のはちゃんと集められてたし、ずいぶん安定してたぞ。もう一歩だな」
「そうそう」
大和も明るく声を掛ける。
「さっきより全然落ち着いてたと思うぞ!」
「うん、揺れ方が全然違ってた。焦らなければきっとできるよ」
美琴も優しく微笑んだ。
その言葉に励まされるように、ひまりは再び杖を構える。
弾けても。
崩れても。
何度失敗しても、諦めなかった。そのたびに呼吸を整え、一からやり直す。
そうやって繰り返した、何度目だっただろう。
小さな水球が、空中で僅かにふるふると揺れながらも、その場へ留まった。
「っ……!」
「いいぞ、その調子」
教えるアステルの声も、自然と弾む。
「水を押さえ込むんじゃない。自分の魔力の方を安定させるんだ」
ひまりは小さく頷いた。
水ではない。自分自身へ意識を向ける。
すると不思議と、水球の震えが少しだけ穏やかになる。その変化に、アステルが微笑んだ。
「そうそう。水は勝手に暴れたりしない。揺れてるのは、ヒマリの魔力側なんだ」
「自分の……」
ひまりはその感覚を確かめるように、小さく呟く。
水球はまだ完全には安定していない。それでも、さっきまでのようにすぐ弾けることもなく、懸命に形を保ち続けていた。
それと同時に、恒一もある変化へ気付いていた。
(あ、さっきより……)
ひまりの魔力が、滑らかに流れている。
もちろん、アステルやオルビスと比べれば、その流れはまだ細く頼りない。
それでも確かに、水球全体へ均等に行き渡り、優しく包み込むように支えているのが感じられた。
先ほどまでのような、無造作な枝分かれや、途切れたり跳ねたりする感覚は少ない。
(こういうことか)
恒一は無意識に、その流れを追い掛けようとする。
ーー目には見えないものを、見ようとする。
その感覚は、どこか覚えがあった。
保管庫で風の流れを考えていた時。目には見えない空気の道筋を頭の中で描いていた、あの時によく似ている。
その瞬間だった。
すうっ、と。
視界の端へ、青白い光が走った。
「えっ……?!」
恒一は思わず息を呑む。
(スキルが……発動してる?! 何でこんな所で……)
その反応を、双子は見逃さなかった。
「……動いたな」
「ああ」
二人は短く言葉を交わす。
恒一は目の前の光景から目を離せない。
今までもずっと、誰かが魔法を使えば、その度に何かが流れる感覚だけは捉えていた。けれど、それが何なのかを知らなかった。
しかし、今は違う。
自分自身の魔力を認識し、その上でひまりの魔力がどう動いているのかを意識して追い掛けている。
つまり――
(俺、今……魔力の流れを、考えているのか)
そう思った矢先に、青白い線は増えていく。考えた側から一本、また一本。
まるで保管庫で風の流れを書き込んだ時のように。目には見えない魔力の道筋を、何とか図面へ描き起こそうとするかのように。
「――ハッ!」
オルビスが珍しくーー本当に珍しく、唇の端を吊り上げて笑った。例えるなら、悪戯を思い付いた時のようなアステルによく似た、彼らが双子だという事が良く分かる笑みだった。
「これは好都合だ」
いつものように、静かな声だった。
それでいて、力強さと確かな手応えが滲んでいる。
「コーイチ、スキルで見えるものへ気を取られるな。それを動かしている、お前自身の魔力に意識を向けろ」
その言葉に、意識が引き戻される。
「お前の見ているそれは、誰かに勝手に書かれているものではない。それを書いているのは――お前自身だ」
そうだ、今追うべきは視界を走る青白い線ではない。誰かの魔力を追っていた時のように、自分の中を流れるものを追うこと。
捕まえようと意識を向けた途端、それはするりと指の間を抜けるように逃げていく。
けれど、確かにそこにある。
静かに巡り、【工房】を動かしている何かが。
「ああ、そうか――」
恒一は小さく息を漏らした。ゆっくりと右手を持ち上げ、視界を走る線へそっと指先を重ねると、静かに流れを追う。
無意識から、意識へ。
走り書きから、清書へ。
これまで曖昧だった何かが、ほんの少しだけ輪郭を持つ。どこか無造作に走っていた線が、緩く指先を動かす度に整っていく。
(流れを、捕まえるんじゃなくて……)
思い付くまま書き殴られた線ではなく、必要なものだけを残すように。誰かに伝わる形へ整えるように。
そして、恒一の視線は自然とひまりの水球へ向いた。
「――感じたのは、こう……」
恒一は小さく呟いた。
指先が静かに動くと、線の端が追従し始める。
球の外側を一周する緩やかな輪。
これは、形を維持している魔力の流れ。
続いて、水球の内側。
中心へ向かって幾重にも巡る渦。
こちらは、水属性そのものを留め続けている流れ。
どちらも、目に見えていたものではない。
感じ取り、理解し、
そして「書き留めよう」と思ったものだ。
ひゅう、とアステルが口笛を鳴らした。
「良いねぇ、面白くなってきた!」
そしてひまりへ向き直ると、オルビスとそっくりな顔で笑う。
まるで、楽しい悪戯を思い付いて誘うように。
「ヒマリ。今度は水球を維持しながら、氷属性にも意識を向けてみろ」
「えっ……い、いきなり出来るかな……?!」
「大丈夫、難しいと思ったら途中で止めればいい。今は水球を壊さないことが優先だから、水の制御が崩れ始めたと思ったら、迷わず中断しろ。それも立派な判断だよ」
「わかった……やってみる!」
ひまりは深呼吸を一つして小さく頷き、再び目を閉じた。
先ほどよりずっと滑らかに、魔力が流れ始める。
揺れてはいる。けれど、今度は崩れない。
「いいぞ」
アステルが穏やかに声を掛ける。
「そのまま慌てない。少しずつ温度を下げて……今は、急に凍らせなくて良いんだ」
冷たい空気を思い浮かべる。
霜の降りた地面。
冬の吐息。
静かな雪景色。
そのイメージへ、ゆっくりと魔力が伸びていく。
(あ……来た……)
恒一は思わず息を呑んだ。
水球を支えている流れとは別に、もう一本。
細く、新しい流れが生まれる。
ひやりとした気配。目には見えない冷気が、静かに水球へ寄り添い始めた。
「そうそう」
アステルの声が優しく響く。
「そっちは掴むだけ。まだ動かそうとしなくていい」
ひまりは唇を結び、集中を切らさない。
水を保つ魔力。冷気を運ぶ魔力。
どちらも細い。
それでも、少しずつ並んで流れ始める。
やがて。
ーーぱき。
小さな音が響いた。
「あ……!」
ひまりが目を見開く。
水球の底が、ほんの少しだけ白く曇る。だが、油断するなと自分へ言い聞かせる。
(揺らさない……慌てない……!)
焦らず、崩さず。
じっとこらえて維持し続ければ、やがて冷気が少しずつ水へ染み込んでいく。
ぱき。
ぱき、ぱき。
澄んだ音を重ねながら、水球はゆっくりと透明な氷へ姿を変えていく。
最後の一滴まで凍りきると、小さな氷球は朝日に照らされてきらりと輝いた。
「……できた」
ひまりが呆然と呟く。
「できた……!」
「やったぁ!」
美琴が思わず拍手し、大和も嬉しそうに笑う。
「初成功だな!」
「うん!」
その声を聞きながら、恒一は浮かぶ氷球を見つめていた。
さっきとは違う。
水だけではない、もう一本新しい流れが確かに存在している。
(これが……氷属性の流れか)
恒一は迷わなかった。指先を静かに動かす。
今度は、自分から。水の流れへ寄り添うように、新しく現れた冷気の流れだけを書き足していく。
水を支える内外の線。
その外側へ重なるように巡る、細く澄んだもう一本の流れ。
互いに干渉することなく、それぞれの役割を果たす二種類の魔力。
書き出されたそれは、今まで見えたものよりずっと洗練されたものになった。
「……そっか」
恒一は小さく呟く。
「水を保つ流れと、冷やす流れは別なんだ」
「その通りだ」
オルビスの口元がわずかに緩む。
「魔法を扱う者は、それを感覚で制御している。お前はその感覚を理解し、自らの解釈で可視化し、書き起こした」
「可視化……?」
その言葉に、二人を見守っていた玲司が不思議そうに尋ねた。
「コーイチのスキルが動いている。あいつの目には今、インクの代わりに魔力で描いた覚書が見えているような状態、というわけだ」
「……!」
「ヒマリは初めて氷を作れたし、コーイチは初めて明確に、自分の意思でスキルを使って描けた」
アステルは嬉しそうに笑いながら、二人を交互に見比べる。
「十分すぎる成果だろ。お互い、一段階前進だな」
その言葉に、恒一とひまりは顔を見合わせる。
どちらからともなく笑みがこぼれた。
「えへへ、ありがとうございますっ!」
「……俺も、何か一歩進めた気がするよ」
湖畔を吹き抜ける風は、朝よりも少し暖かい。
二人の手の中には、確かに新しく掴んだ感覚が残っていた。




