16.ほっと一息。そして……
勢いよく減っていく鍋を前に、さすがに三人とも一度箸を止めた。
「……少し落ち着こうか」
恒一が苦笑しながら言うと、アステルも腹を撫でる。
「うん。このままだと本当に限界通り越して全部食べ尽くしそうだな」
「既にかなり減っているがな」
オルビスが空きかけた鍋を見て淡々と告げる。
「オルビスももう結構食べてるよな?」
「否定はせん」
そのやり取りに笑いながら、恒一は別に持ってきていた小鍋を取り出した。
「次は汁物にしよう」
「まだあるの?」
「昨日買ったミュソを試したかったんだよ」
水を鍋へ入れ、焚き火の端へ掛ける。買ってきた根菜と葉物を食べやすい大きさへ切り分け、残しておいた森猪の肉を薄切りにする。
まだ水のうちに、まず火の通りにくい根菜を入れる。沸いてきたら少し遅れて肉と葉物も加えると、鍋の中に脂が淡く浮かび、食欲をそそる匂いが立ち始めた。
そして恒一は、荷物の中から小さな袋を取り出した。中に入っているのは、細かな顆粒状の粉末である。それを鍋の上からぱらぱらと振り入れた瞬間、頬杖をついて様子を眺めていたアステルが、にやりと笑った。
「あ、出たな。異世界アイテム」
「言い方」
恒一は思わず吹き出した。
「だって、それはコーイチが元の世界から持ってきた物なんだろ?」
「まあ、そうだけど」
「何なんだ?」
オルビスが興味深そうに袋を見た。
「出汁の素っていって、魚とか海藻の旨味をまとめた調味料だよ。料理の土台になる味を簡単に付けられるんだ」
「簡単に、か」
そう呟いて、鍋から立つ香りを確かめるように、僅かに目を細めた。
「確かに、さっきまでとは匂いが違うな」
「こればっかりは、もう少し市場や店を探さないと代わりが見つからなそうなんだよなぁ」
ヤーパンの品々に日本と似たものが多くあったとはいえ、顆粒に加工された即席の出汁まではさすがに見つからないだろう。昆布や鰹節、煮干しの代用品なら、何かしら近いものが存在するかもしれない。
恒一は袋を閉じると、人差し指を口元へ立てた。
「だから、これは内緒な」
「秘密の調味料?」
「そういうこと」
「分かった」
アステルは楽しそうに頷いた。
「聞かれたら、コーイチの秘伝って言っておく」
「余計に怪しくない?」
「では、故郷の保存食材と説明すればいい」
オルビスが補足する。
「そっちの方が自然だな」
恒一は頷き、鍋の様子へ意識を戻した。
根菜へ火が通ったことを確かめ、葉物もしんなりしたところで鍋を焚き火から外す。
「ここからは煮立たせすぎない方がいいんだ」
「どうして?」
「俺の知ってる味噌と同じなら、あんまり煮ると風味が飛びやすいからね」
買ってきたミュソを木匙ですくい、少量の煮汁で丁寧に溶いていく。それから鍋へ戻し、全体をゆっくりとかき混ぜた。
茶色いペーストが溶けるにつれて、香りがふわりと広がる。
「あ、いい匂い」
すん、とアステルが鼻を鳴らした。豆を発酵させた深みのある匂いと、出汁の香り。
森猪の脂甘さと、そこへ野菜の甘みが重なっていく。
「……これは」
アステルが思わず身を乗り出す。
「さっきの肉とは、また全然違いそうだな」
「俺の故郷だと、豚肉で作ることが多かったんだけど」
恒一は鍋の中を見ながら笑った。
「今日は森猪だから、森猪汁ってところかな」
「そのままだな」
「分かりやすいだろ?」
器へよそうと、湯気と一緒に香りが立ち上る。
薄切りの肉。柔らかく煮えた根菜。色鮮やかな葉物。
見た目は少し違っていても、どこか懐かしい汁物だった。
「これも熱いから、気を付けてな」
そう言って器を渡す。
アステルは両手で受け取り、慎重に口をつけた。
一口飲み込んで、ほっと息を吐く。
「……美味しい」
オルビスも静かに味わい、やがて小さく頷く。
「身体が温まるな。味も濃すぎない」
「ご飯にも合うよ」
「まだ食わせる気か?」
「汁物と一緒なら、もう一膳くらい入るだろ?」
恒一が冗談半分に返すと、双子は揃って鍋の残りへ視線を向けた。
どうやら、本当にまだ食べるつもりらしい。
異世界で初めて炊いた白いご飯に、照り焼きにした森猪の肉。
そして、日本の味を少しだけ裏技で再現した森猪汁。
焚き火を囲む食卓は、いつの間にか恒一が思っていた以上に、懐かしく賑やかなものになっていた。
◇◇◇
――結局。
鍋は綺麗に空になった。
白いご飯は一粒も残らず、森猪の串焼きも森猪汁も、見事なまでに平らげられていた。
焚き火のそばに置かれた鍋の底を見つめながら、恒一が苦笑する。
「……全部なくなったな」
「なくなったね」
「ここまで食べる予定じゃなかったんだけどな」
「俺も」
アステルが照れ笑いを浮かべる。そう言いながらもしっかり汁一滴残らず片付けていたので、説得力はあまりない。
オルビスはというと、静かに器を置いて満足そうに息をついた。
「美味かった」
短い一言。けれど、それだけで十分だった。
「“ごちそうさま”」
三人で手を合わせる。
その様子を少し離れた場所で眺めていたクロムも「わふ」と一声鳴いて満足そうに伏せ直した。
午後の風が草原を渡っていく。
焚き火はすっかり勢いを落とし、赤くなった熾火が静かに揺れていた。
「さーて」
コーイチは立ち上がる。
「おし、片付けるか」
「俺、水汲んでくる」
アステルは取っ手のついた桶を抱えて小川へ向かう。
「オルビス、鍋頼むな」
「ああ」
三人とも自然と動き始めた。
誰が指示をするでもない。気付けば役割が決まり、それぞれが手を動かしている。
そんな空気が妙に心地良い。
恒一は鍋へ水を張りながら、思わず笑みを浮かべた。
「何?」
戻ってきたアステルが尋ねる。
「いや」
コーイチは首を横に振る。
「こういうの、久しぶりだなって思って」
「こういうの?」
「誰かと外で飯作って、一緒に食べて、片付けまでしてさ」
日本では友人とキャンプへ行こうと言いながら、結局一度も予定が会わずじまいだった。強いて言うなら、学生時代のバーベキューの記憶位のものだ。
仕事の合間に動画を眺めながら「いつかやりたいな」と思うだけで終わっていた趣味。それをまさか異世界でやることになるとは思わなかった。
「俺は好きだよ」
アステルが器を拭きながら笑う。
「旅の途中でも、時間があると皆でこうして料理することが多いんだ」
「パーティーのみんなで?」
「うん」
楽しげに頷く。
「ニコなんか、変わった食材を見つけるとすぐ試したがるし、ガルドは豪快な肉丸焼き担当」
オルビスが鍋をしまいながら補足する。
「ルークは味見役、ヴェイルはつまみ食い担当」
「担当なの、それ?」
コーイチが吹き出す。
「本人は違うって言うけどな」
アステルも笑い声を上げた。
「あとミリアは甘い物があると機嫌が良くなる」
「セシルは盛り付けが妙に綺麗だ」
「レオンは片付けが早い」
「カミュは……」
そこまで言って、双子は顔を見合わせた。
そして同時に笑う。
「「綺麗に食べるプロ」」
「それも担当?」
「「担当」」
今度はオルビスまで真顔で頷くものだから、コーイチは堪えきれず笑ってしまった。
「何だ、そのパーティー」
「賑やかだよ」
アステルが少しだけ誇らしそうに笑う。
「皆、家族みたいなもんだから」
その言葉には、飾り気がなかった。本当にそう思っているのだと分かる。
だからこそ、コーイチは少しだけ興味が湧いた。
まだ会ったことのない《地平線の旅団》。
この二人がここまで楽しそうに話す仲間達とは、一体どんな人達なのだろう。
焚き火の後始末も終わり、荷物をまとめ終えた頃には、太陽はすっかり空高く昇っていた。
異世界へ来てから初めて過ごした、何事もない休日。けれどコーイチにとっては、それだけで十分すぎるほど満ち足りた一日になっていた。
荷物をまとめ終え、一息ついたところで。
「そうだ」
オルビスが何かを思い出したように口を開いた。
「さっき使っていた『だしのもと』だったか」
「うん?」
「少し味見してもいいか」
コーイチはきょとんとした。
「構わないけど……そのままだと結構しょっぱいよ?」
「問題ない」
袋を受け取ったオルビスは、顆粒をほんのひとつまみ指先へ取る。そのまま舌へ乗せると、しばらく黙って味を確かめていた。
「……なるほど」
ゆっくりと頷く。
「言うなれば、風味を加えた塩だな」
「ああ」
コーイチも納得する。
「そういう表現が一番近いかもしれない。本当は、これ自体がメインじゃないんだ」
袋を受け取りながら続ける。
「魚とか海藻とか、そういう食材を時間をかけて煮出して『出汁』を作るんだよ。これは、お湯に溶かすだけでそれを簡単に再現できるように加工したもの」
「なるほど」
オルビスは顎へ指を添え、少し考え込む。
「つまり、本来は食材から取るスープストックを、保存できる形にしているわけか」
「そうそう!」
コーイチは思わず声を弾ませた。
「その説明が一番しっくりくる」
「便利だな」
「毎日料理するなら、本当に助かるよ」
するとオルビスは、小さく笑った。
「ニコなら再現しそうだな」
その一言に、アステルもすぐ反応する。
「ああ、絶対やる」
二人は顔を見合わせて笑った。
コーイチはその様子を見て首を傾げる。
「ニコって、旅団の料理担当だって言ってた?」
「そう。料理人っていうより、最近はもう料理研究家って感じかな。食べることも作ることも大好きでさ。新しい料理や食材、調味料なんかを見ると目の色が変わる」
更に、オルビスが淡々と補足する。
「一度興味を持つと、納得するまで試作を繰り返す。以前なんぞ、街で食べた焼き菓子が気に入って『同じものが作れるまで帰らない』と三日厨房を借りていた程だ」
「三日?」
「結局、本当にほとんど同じものを作った」
「職人だなぁ……」
コーイチは思わず感心した。
物を作る人間というのは、世界が違っても似ているのかもしれない。
"どうやって作るんだろう。"
そう思った瞬間から、もう頭の中では作り方を考え始めている。
それは木工も料理も、きっと同じなのだろう。
「だから」
アステルが笑う。
「この『だしのもと』をニコに見せたら、多分しばらく厨房から出てこなくなる」
「その光景は容易に想像できるな」
「……ちょっと怖いけど、会ってみたくなってきたよ」
コーイチが苦笑すると、双子はどこか嬉しそうに顔を見合わせた。
◇◇◇
帰り道は、来る時よりもゆっくりだった。
草原を渡る風は相変わらず心地よく、昼下がりの日差しも今日はどこか柔らかい。
コーイチはクロムの背を軽く撫でながら、旅団の話を聞いていた。
皆の纏め役で、ちょっと苦労人なリーダーの剣士ルーク。
ルークの古くからの相棒で、隠密にかけては右に出るものは居ないというヴェイル。
何度か耳にしている、料理人であり錬金術師でもあるニコ。
巨体に戦斧を軽々と扱う、実は面倒見がいい鍛冶職人でもあるというガルド。
皆それぞれ個性的らしく、アステルは思い出すたびに楽しそうに笑っている。
「アルシオンへ来たら、絶対紹介するよ」
「そんな日が来るかな」
「来る来る」
勿論、根拠はない。けれど、アステルは本気でそう思っているらしかった。
その時だった。
ふと、アステルの足が止まる。
「……アステル?」
返事はない。
彼はゆっくりと目を閉じると、すうっと深く息を吸い込んだ。その姿に、コーイチは既視感を覚える。
――リックを探した、あの日と同じだった。
草原を吹き抜ける風が、一瞬だけ静まったように感じる。
時間にして、わずか数秒。
やがてアステルが静かに目を開く。
その空色の瞳には、先ほどまでの柔らかな笑みはなかった。
「……悲鳴だ」
低く呟く。その一言だけで、空気が変わる。
「オルビス」
「ああ」
オルビスも既に山の方角へ視線を向けていた。
「距離は?」
「森の向こう、山の麓あたり」
アステルは僅かに眉を寄せる。
「……人数は七、いや八人」
そこで一度、言葉を切った。
「多分、魔物と交戦中だ」
短い報告。オルビスは頷くだけだった。
「コーイチ」
「え?」
「乗れ!」
アステルは躊躇なくクロムの背へ飛び乗る。そのままコーイチの腕を掴み、軽々と引き上げた。
「ちょっ――」
「説明は後!」
後ろへ振り返る。
「オルビス!」
「ああ」
その後ろに、音もなく飛び乗る。
前にアステル、真ん中に恒一、最後尾にオルビス。三人を乗せたクロムが、ゆっくりと身を沈めた。
「飛ばすぞ」
アステルが短く告げる。
「しっかり掴まってろ!」
次の瞬間。
景色が弾けた。
「うわっ!?」
地面を蹴ったクロムは、一息で街道を飛び出す。
一直線に森へ。草木の間を風のように駆け抜ける。
枝を避けるたび身体が揺れ、木漏れ日が流れるように視界を横切った。
速い。
普段見ていた、のんびりと歩く姿とは似ても似つかない。
本気だ。
コーイチは必死にアステルへしがみつく。
耳元では風が唸りを上げ、横を見れば木々が一本の線になって後ろへ流れていく。
数分も経たなかった。
森を抜けた先で、視界が一気に開けた。




