婚約時代 その1
こうして、めでたく結婚する事になった2人は、双方の実家に、結婚の報告と挨拶をする事にしました。
良夫君の実家は、遠隔地にあったので、まずは愛子ちゃんの家からです。
優ちゃんから休暇をもらい、事前に連絡を入れてから、背広姿の良夫君と共に電車に乗って、実家に向かう愛子ちゃんでしたが、その心は不安と緊張感でいっぱいでした。
要するに、気が重かったのです。
普通は、良夫くんの実家に行くほうが、緊張するはずなのですが。
愛子ちゃんは、大学入学後から都会暮らしに夢中で、一回も実家に帰っておらず、連絡もほとんど取っていません。
何回も、たまには顔を見せるように言われたのですが、何だかんだ言い訳をして、断っていました。
知らない間に愛子ちゃんは、実家と疎遠になっていたのです。
今では彼女は、その事を、後ろめたく思っていました。
なんだか、親不孝をしたような気がしたのでした。
それに、お父さんに会うのも、なんとなく気が重かったのでした。
愛子ちゃんのお父さんは、子供の頃から彼女に、なんでも一番になれと、過剰に期待を寄せていました。
もちろん、今の仕事は大好きだし、誇りを持っていましたが、従業員十数人の中小企業に勤めて、今また、平凡な結婚をしようとしている自分を、果たして、あのお父さんが、認めてくれるでしょうか。
そんな訳で、懐かしい実家に行こうとしているのに、愛子ちゃんの気分は、晴れなかったのです。
そんな愛子ちゃんを見て、電車の座席の向かい側に座る良夫くんは、心配して言いました。
「どうしたの?愛ちゃん。元気ないね。これでも食べなよ」
そうして良夫くんは、愛子ちゃんに、駅の売店で買った冷凍ミカンを勧めます。
「ありがとう、良夫」
愛子ちゃんは、良夫くんがわざわざ皮を剥いてくれた、冷凍ミカンを受け取り、ハフハフと食べました。
(冷凍ミカンは、とっても冷たいのです)
冷たく甘く、酸っぱい香りと味が口に広がって、愛子ちゃんは、なんだか、少し元気が出ました。
車窓の外を流れる景色は、だんだんと故郷に近づいて、見慣れたものへと変わっていきます。
それから毎年、夏が来るたびに愛子ちゃんは、その景色と、冷凍ミカンの味を想い出すのでした。
[続く]




