絶対に婚約したくない元王太子
男爵令嬢フローラを一目見た瞬間から、アルヴィンの世界は変わった。
フローラを目に映すだけで、胸は高鳴り気分は高揚して。片時も離れたくなくて、彼女のことしか考えられなくて。
これが愛なのだと、疑いもしなかった。
婚約者であるクラリッサのことは、大切に想っていたつもりだった。長い年月で築き上げた信頼と絆は、確かなものであったはずだ。
それなのに──。
抗えない激しい感情に、アルヴィンはあっさりと呑まれた。
フローラに微笑まれれば、常識なんて頭の片隅に押し込められて潰されて。彼女に乞われれば、何もかも叶えてあげなければならないと、強迫観念にとらわれて。
「婚約破棄だ」なんて叫んで、取り返しのつかないことをした。あの一言で、本当の意味でアルヴィンの世界は変わってしまった。
そんな忌むべき言葉を再び投げたのは、ああ言えばステラもまた、自分の前から去っていくと思ったからだ。
アルヴィンはもう、自分のことを信用できない。誰も傷つけたくないし、だから二度と婚約なんてしたくない。
……それなのに。
勇気を振り絞って言ったあの言葉も、ただ黒歴史を上塗りしただけだった。
あれ以来、ステラは三日と日を空けずにアルヴィンのもとへ訪れる。
「殿下。あの数々の変な噂は何ですか? 殿下の仕業ですよね?」
──第一王子が、侯爵令嬢ステラへ暴言を吐いた。
──仕事もせず毎日遊んでばかりで、王太子として真面目に働いていた頃の面影はない。
──精神を病み、鳩相手に会話している。
どれもステラが婚約を考え直すように、そしてそうなっても彼女が非難されることのないようにと、アルヴィンが流させた噂である。
もうステラの耳にも入ったらしい。
「こういうことは困ります。殿下の評価が落ちるほど、婚約者となる私も見くびられることになりますので」
「婚約しなければいいだろう」
「婚約はします。下らない噂を流すほどにお暇なら、こちらをどうぞ」
ステラが控えていた騎士に目配せし、テーブルの上に書類が積み上げられる。
「第二王子殿下の許可を得て、お仕事の一部をお預かりしました。以前のように責任の重いものではなく、雑務のようなものですが、お願いできますか?」
「……なぜ、私が。ユリウスの仕事なんだろう」
「第二王子殿下は、もともとこなされていたお仕事にアルヴィン殿下が担当されていた執務も加わり、大変お忙しそうにされています。少しでも責任を感じていらっしゃるなら、お手伝いして差し上げては?」
ぐうの音も出ない。
自分のせいで弟が苦労しているなんて告げられれば、やらないわけにもいかない。
悪い噂を払拭しようとの目論見も大いにあるのだろうが、塔の中で過ごす毎日はとんでもなく退屈だったので、戦略に乗せられてみることにした。
結果、一度仕事に取り掛かれば夢中になった。
仕事をしている間はそれだけが頭の中を占めて、他のことを考えなくても済む。自分の愚かさも、後悔も、その時だけは忘れられる。
気づけば夜通し仕事をしていて、結局一晩で全て片付けてしまった。
次の日、終わった仕事を従者に引き揚げさせると、すぐにステラが呆れたような顔で現れた。
「あれは一日で終わる量ではありません」
「だが、終わった。何か問題が?」
「あります。寝ていらっしゃらないでしょう。有能なのは結構ですが、きちんと休んでください」
「君が働けと言ったんだ。働かせたいのか休ませたいのか、どっちだ」
「どうしてそう極端なんですか。適度に働き、適度に休む。そんなこともできないんですか? 今までどうしていたんですか? ごはんはちゃんと食べてますか?」
さすがにあんまりな物言いだ。
例の事件以降、この塔にずっと留まっているので現在の自分の立ち位置ははっきりわからないが、それまでは優秀な王太子だと持て囃されていた。
……だというのに、おかしい。ステラと話していると、まるで自分が手のかかる幼児にでもなった気分だった。
「……やめてくれ。君は私の乳母にでもなったつもりか?」
「まさか。婚約者候補です」
「婚約者はそんな風に世話を焼くものか!?」
「少なくともユリウス殿下の世話を焼いた覚えは一度もありませんね」
「当たり前だ。私だって、クラリッサに世話を焼いてもらったことなどない!」
口に出してから、はっとする。
もうずっと、クラリッサの名を出すことを避けていた。思い出すだけで、自己嫌悪で吐きそうになるからだ。
彼女に謝罪を何度申し入れても、済んだことだと断られ、結局会えず終いだったから、尚更。
顔色を悪くして急に黙り込むアルヴィンの正面で、ステラは何も気づいていないふりをして果実水を飲んでいる。
ここへ初めて来た時、彼女に出されたのは紅茶だった。熱い紅茶をもどかし気に飲んでいたステラは、きっと喉が乾いていたんだろう。何しろこの部屋までは、長い階段をのぼって来なければ辿り着けない。
だからつい、次からは果実水を用意するように、と従者に指示を出した。次なんてない、ない方がいいと思っていたはずなのに。
ステラに嫌われるつもりだった。
それなのに、アルヴィンはステラに振り回されっぱなしだ。
今だって、いつの間にか彼女のことに考えを巡らせている。
──絶対に婚約なんてしない。
そんな思いと裏腹すぎる自身の振る舞いを自覚して、眉をひそめる。
ステラはそんなアルヴィンの様子をちらりと見ると、グラスをテーブルに置いた。
「殿下のお気持ちはお察しします。クラリッサ様のことを忘れることは難しいでしょう。お二人は誰が見ても理想的な婚約者同士で……実は、密かに私の憧れでした」
「……な……」
突然のステラの告白に、思わず言葉を失う。
「私がクラリッサ様に遠く及ばないことは存じています。ご不満でしょうが、この際私で妥協していただけませんか?」
「! 君に不満など、ない。君の方こそ、私で妥協するのはやめた方がいい」
苦々しく吐き出した言葉に、ステラはきょとんとして言い返してきた。
「私、妥協しているつもりは毛頭ありません。殿下と婚約すれば、いずれは王子妃という立場も元に戻りますし、それに……殿下は、面白いので」
「…………は?」
どこが、と問う前に、ステラは「また来ます」と挨拶を残して去って行った。
一人残された部屋で、アルヴィンは呆然とする。
……面白い……。
優秀な王太子として評価されるべく努力してきたこれまでの人生で、そんな言葉を向けられたことは一度もない。
かつての自分たちを憧れだったと言いながら、それでも歪んだ今の自分をも肯定されたような、奇妙な感覚が胸の奥に燻る。
──どうしてステラは自分に優しくしてくれるのか。
ユリウスとステラは、いい関係を築いているように見えた。その婚約を台無しにした張本人であるアルヴィンを、恨んでいないはずがないのに。
ステラはいまだ、婚約の受諾を保留している。
……恐らく、アルヴィンの気持ちを慮って。無理にことを進めず、待ってくれているのだ。アルヴィンが覚悟を決めるその時まで。
「……駄目だ……。彼女は心優しく思慮深くて、私にはとても相応しくない……。今の状況に甘んじ続けるのも、彼女のためにならないだろう。どうすればいい?」
窓辺にやってきた鳩にパン屑を与えながら、アルヴィンは問いかける。もちろん、答えは返って来ない。
パン屑を平らげた鳩は、アルヴィンなど気にもとめずに青空へと飛び立った。
ため息をついて見送ったその時、階段を駆けのぼる足音がして、すぐに勢いよく扉が開かれた。
「殿下! 申し訳ありません……!!」
飛び込んできた騎士が、思い切り頭を下げる。
「ステラ・ラングレー侯爵令嬢が、階段を踏み外されて……! おそばについていながらお怪我を負わせてしまい、大変申し訳ありません!」
騎士の懺悔に、頭が真っ白になった。
気が付いた時には階段を駆けおりていた。何十日ぶりに部屋から出て、無我夢中で走りながら、アルヴィン自身も転げ落ちそうになる。
それで思い至る。この階段は、こんなにも急だったのかと。重いドレスで、女性用の不安定な靴で、ステラはたびたびこの長い階段をのぼり、アルヴィンのもとを訪れていた。
毎回仏頂面で迎えるアルヴィンにも笑顔を見せていたが、それがどんなに大変なことだったか想像もしていなかった。
クラリッサを失った時、あれほど思い知ったはずなのに。
当たり前にそばにいてくれる人を裏切ることが、傷付けることが、どれだけ罪深いのか──。
塔の外へと飛び出したら、眩しい光が溢れていて、目眩がした。
「……まあ、殿下」
真っ白な光の次に目に映ったのは、木陰のベンチに腰掛けるステラの姿だった。
ドレスの裾を少し持ち上げ、片足を庇うようにしているものの、顔色は悪くない。むしろ突然現れたアルヴィンに驚いているようだった。
その瞬間、全身から力が抜けた。
「……怪我、は」
「ご覧の通り、大したことはありません。少し挫いた程度で」
「……は……」
乱れた呼吸を整えようとするものの、心臓がうるさいほど脈打ったままで落ち着かない。
ふらふらとステラの隣に腰を下ろすと、彼女は心底不思議そうにアルヴィンをまじまじと見つめている。
「……もしかして……。私のために、わざわざ塔を下りてきてくださったんですか? そんなに慌てて……?」
そう言われて、急に恥ずかしくなった。
騎士の話を最後まできちんと聞かず、勝手に大怪我だと勘違いをして、心配して、焦って。
ステラの顔をまともに見られない。そっぽを向いたまま、投げやりに口を開く。
「君のためじゃない。私の勝手だ」
「まあ。……ふふ」
ステラがくすくすと笑い出す。
あんまり可笑しそうにしているからちらりと目をやると、ずいぶんと嬉しそうな彼女と目が合った。
「殿下はいつも、勝手ですものね。でも、勝手をしてくださってちょうど良かった。この足では、あの長い階段をのぼるのは当分難しそうですから。怪我が治るまでしばらくお会いできませんし、今日お顔を拝見できて嬉しく思います」
「……もう、来なくていい」
「またそんなつれないことを。私は殿下の、婚約者候補ですから」
「そんな格好で急な階段を上り下りすれば、またいずれ怪我をする。今度は捻挫程度では済まないかもしれない」
「ですが……」
困ったように言い淀んで、言葉を探している。
きっとステラは、アルヴィンが止めてもまた会いに来る。
──それなら。
「次から私が会いに行く。君はラングレー侯爵邸で、おとなしく待っていればいい」
ステラが大きく目を見開く。
それから、花が綻ぶように柔らかく微笑んで頷いた。
その笑顔が眩しくて、美しくて。
──かつてアルヴィンを狂わせた、どんな強大な魔法よりも、ずっと恐ろしい輝きを放っているように見えた。




