王妃になる未来は変わらない公爵令嬢
第一王子アルヴィンとの婚約はあまりに穏やかすぎて、少し退屈だとクラリッサは思っていた。
真面目で、誠実な婚約者。皆に公平で、優しい。アルヴィンに大きな不満はひとつもなかった。
大きな不満は、だ。
誰もが理想的な婚約者同士だと、アルヴィンとクラリッサを羨望の眼差しで見つめる。
けれどクラリッサは、常々思っていた。
アルヴィンと自分の間には、本当は愛なんてないのだ──と。
けれど、そんなものはなくても良かった。完璧な王妃になるための教育を受け、完璧な伴侶として彼を支える。ただそれだけで、国は十分に治まるはずだった。
男爵令嬢フローラは、今までに出会ったことのない、かなり異端な存在だった。
見た目はおとなしそうな可愛らしい令嬢なのに、平気な顔でアルヴィンに積極的に話しかける。アルヴィンの王太子という地位も、婚約者がいるということも、彼女自身の身分も、何も顧みずに。
とはいえ、アルヴィンが厳しく突っぱねれば、それで済んだ話だ。
けれど彼はしなかった。
誰にでも公平で優しいアルヴィンは、常識外れな行動を繰り返すフローラにまで笑顔を振り撒き、優しく諭すだけだった。不敬罪で即座につまみ出してしまえばいいのに。
アルヴィンの優しさは美徳なのかもしれないが、いずれ王となることを考えれば、それは欠点でもあるように思えてならなかった。
クラリッサは一連のアルヴィンの態度が面白くなかったのだ。
いっそわかりやすく浮気でもしてくれれば、声高に責められる。
しかしこの程度のことで責めたてれば、クラリッサの方こそ狭量だと非難されるだろう。
フローラの手に禁術書が渡るよう密かに働きかけたのは、ほんの思いつきのようなもの。
たかだか男爵令嬢ごときが、いくら禁術書を手に入れたからといって、本当に魅了魔法を成功させるだなんて、本気で考えてはいなかった。
それなのに──。
アルヴィンは容易くフローラに狂った。
執務を放り出し、クラリッサを蔑ろにし、挙句の果てに婚約破棄を叫んで。
国を混乱に陥れた彼を庇う者など、誰一人いない。
取り返しのつかない事態に、誰より驚いたのはクラリッサだ。
──けれど、あの時。
クラリッサだけは、アルヴィンを信じる姿勢を崩さずにいることもできた。
アルヴィンはそんな人じゃないと、何か裏があるに違いない、調査をして欲しいと。
そう、声を上げることができた。
それをしなかったのは、我慢ができなかったからだ。
アルヴィンが正気でないと知っていながら、その豹変ぶりが許せなかった。
クラリッサには一度も向けたことのない熱のこもった目で、フローラを見つめる。片時も離れようとせず、常にそばに置いて愛を囁いて。どろどろした執着と狂気にも似た愛を垂れ流すアルヴィンを、たとえ魔法が解けて取り戻したとして、残るのはきっと虚しさだ。
自分には決して与えられなかったものを、惜しみなく他の女へ捧げるアルヴィンを目の当たりにして、クラリッサは国よりも自身の感情を優先した。
即日の婚約破棄手続きと、アルヴィンへの厳罰を望んだのだ。
そんな自分にはとても相応しくないだろうと、次期王妃という立場も捨てたつもりだったのに、結局弟を宛てがわれて同じ場所に立たされ続けるなんて……。
皮肉なものだと思うけれど、全てはクラリッサ自身が引き起こしたことだ。責任をとらなければならない。
もう二度と、クラリッサは感情に流されたりしない。
幸い第二王子ユリウスはアルヴィンと違い、感情よりも国のためになることを優先する男だ。アルヴィンは立太子し、その地位が磐石だったからこそ優秀だと評価されていたが、ユリウスとてアルヴィンに能力的に特別劣ることもない。
彼と共に正しく国を治めていく。
それこそが、クラリッサの責任だ。
◇
夜の帳が下りる頃、王宮は昼間以上の華やかさに包まれていた。
何千という蝋燭の灯が大広間を黄金色に照らし、天井いっぱいに吊るされた巨大なシャンデリアから、無数の光が床へと降り注ぐ。
王国中から招かれた貴族たちは豪奢な正装に身を包み、色とりどりのドレスが花園のように咲き誇る。弦楽器の優雅な音色に合わせて、談笑する声が重なり合う。
今宵の夜会は、単なる社交の場ではない。
王国中を揺るがせた魅了事件の後、初めて開かれる大規模な夜会。そして、新たに王太子候補となった第二王子ユリウスと、公爵令嬢クラリッサのお披露目の場でもあった。
クラリッサはユリウスにエスコートされながら、貴族たちの注目を集めていた。そしてその視線は自分たちと同じように、もう一組にも注がれている。
──アルヴィンとステラ。
2人は正式に婚約を発表していない。しかしアルヴィンは、ステラを伴って久しぶりに公の場へと現れた。事件以前と何も変わらぬ姿で。
この意味を理解していない者などいないだろう。
最早王位継承に関する混乱は終わった。婚約者を交換することになった二組は、それぞれ何の遺恨もなく新たな未来へと歩き出している。
──そう、はっきりと示すものだ。
例の事件直後、魔法の解けたアルヴィンはしばらく塔に留まっていたものの、現在は王宮に戻り執務に復帰している。
また、ステラとの交流のため、ラングレー侯爵家にも足繁く通っているという。
アルヴィンの真面目さは、クラリッサもよく知るところだ。
己の役割を理解し、新たな婚約者候補として、愛はなくともステラのことを大切にするだろう。……クラリッサに対して、そうであったように。
王家の対応に振り回され続けたステラのことは、気の毒に思っている。
口さがない貴族たちが、アルヴィンとステラのことを「余り物同士」と揶揄していることも把握している。今だって、彼らに向けられる視線に好意的なものは少ない。
──けれど、それも仕方がない。時間が経てばあの事件もじきに忘れられる。ほんの一時、我慢してもらうだけだ。
慣例通り、互いの婚約者とダンスを一曲踊る。
そうして夜会の意義は果たされ、何事もなく終わる……はずだった。
けれど一転、広間にざわめきが広がった。
ダンスを終えたアルヴィンが、突然ステラの前に跪いたのだ。辞書と見紛うほどに分厚い、羊皮紙の束を差し出しながら。
その場にいる誰もがそうであるのと同様に、ステラもまた戸惑いの表情を浮かべてアルヴィンを見下ろしている。
「なんですか、これは」
「ステラ・ラングレー侯爵令嬢。どうか私と、結婚してください」
「…………はい?」
「私が君を選んだ理由は、ここに記載してある。もちろん、君が私を選ぶことによって被るであろう不利益についても。その上で、判断して欲しい」
クラリッサの口から間抜けな声が漏れそうになって、慌てて口を噤む。
だって、こんなアルヴィンは知らないのだ。
クラリッサの知るアルヴィンは、王太子という身分さえなくなれば、優しいだけのつまらない男。こんな訳のわからないことを仕出かすようなことは一度もなかった。
静まり返った広間で、貴族たちの視線を一身に集めたステラが、呆れたように笑う。
「アルヴィン殿下、いくら何でも多いです。こういうことはなるべく簡潔に、口頭でお願い致します」
困ったように視線を彷徨わせるアルヴィンは、やがて慎重に口を開いた。
「……一度間違えた手前、君を愛しているとはとても言えない。だが、こんな私と向き合ってくれた君を特別に想っている。君以外と生涯を共にする未来は考えられないんだ。決して、君を裏切るような真似はしない。だからどうか、私を選んで欲しい」
いつかとは全く違う。
真摯な顔で、自信のなさげな声で、けれどアルヴィンはたしかに愛を告白した。
どう考えても、今である必要はない。
……いや、きっと今だからこそ。公の場で、多くの目があるからこそ意味がある。
アルヴィンはステラに向けられた「余り物」という侮蔑の目を、自らの大立ち回りによって完全に塗り潰す算段だったのだろう。
あの穏やかなアルヴィンに、そんな情熱的な一面があるだなんて、思いもよらなかった。
正面から向き合うことをせずに逃げたクラリッサには、終ぞ向けられることがなかったまっすぐな愛。
「……ぜひ、喜んで」
ステラが満面の笑みで頷いた。
アルヴィンが立ち上がって、愛おしげに彼女を強く抱きしめる。その拍子に彼の手からこぼれ落ちた羊皮紙の束が、祝福の紙吹雪のように二人の周囲に散らばり、降り注いだ。
その真ん中で、アルヴィンもまた、ステラに笑顔を見せている。
「……あんな顔、見たことがない」
胸の内がつい零れたのかと思って、ぎくりとする。
けれどぽつりと呟いたのは、傍らのユリウスだった。自身が発した言葉に気がつくことなく、真っ直ぐにステラを見つめている。
自分も先程まで、こんな顔でアルヴィンを見つめていたのだろうか。
きっとクラリッサとユリウスは、似た者同士だ。
ユリウスの腕を軽く引くと、彼は驚いたようにクラリッサを見た。
「ユリウス様。わたくし達の役目を果たしませんと。お二人に、祝福の言葉を」
「……ああ、そうだな」
ユリウスの冷えきった指先に、自分の手を重ねる。そこには熱も、胸の高鳴りもない。
それでもこの先もずっと、誰よりも仲睦まじい二人を演じるのだ。それこそが国のためだと、クラリッサとユリウスが選んだ道だから。
内心の動揺などおくびにも出さず、クラリッサとユリウスは、光の中で笑い合うアルヴィンとステラのもとへと歩き出した。




