第70話〜慈悲という名の成分化〜
昼食という名の、味気ないサプリメントを喉に流し込んだだけの空虚な時間が終わった。午後一発目の授業。最も睡魔が襲うはずの時間帯だが、教壇に立つ男の存在がそれを許さなかった。
「皆様、ご機嫌麗しゅう。午後のひと時、少々お疲れの時間かと存じますが、我らが学院の『魂』とも言える校歌について、法的な観点から紐解いて参りましょう」
誠也は穏やかに微笑んだ。御年65歳。龍雅院家に長年仕えた元執事である彼の立ち居振る舞いは、どの教師よりも優雅で、そして残酷なまでに丁寧だった。その手にある教典は、一点の曇りもない黒檀の輝きを放っていた。
「では、第一番より。『東の日輪 仰ぎ見て 神代の導き 身に受ける』。1番、説明いただけますか?」
指名を受け、私は震える膝を隠して立ち上がった。
「……はい。東の日輪とは日和帝国の象徴、神代大元帥閣下の御威光を指します。私たちは自らの意志ではなく、閣下が定められた秩序、即ち『管理』という名の導きの下に存在しているという、法的帰属を認める一節です」
「素晴らしい。正解でございます。私たちは、閣下の所有物であるこの大地の一部に過ぎない……。実に美しい法理ですね」
誠也様は満足げに頷き、ゆっくりと教室を歩き始めた。足音ひとつ立てないその歩法は、長年主人に仕えてきた者特有の、気配を消した動きだった。
「次に、二番のこの箇所です。『ボーツダムの 誓い永久に 五つの星が 世を照らす』。……2番」
「はい。1945年のボーツダム宣言に基づき、五大貴族による世界統治が永久不変であることを確認する一節です。私たちの存在は国際法によって定義された『公認の商品』であるという自覚を促しています」
「左様でございます。世界が一つに結ばれたあの日の誓いこそ、皆様の価値を保証する契約書なのです」
誠也の丁寧な言葉遣いが、かえって逃げ場のなさを浮き彫りにした。彼にとって、私たちが奴隷であることは『思いやり』や『秩序』の結果であり、疑いようのない善行なのだ。
「では、三番。……『恥辱を愛し 個を捨てて 永遠の所有を 捧げん』。……180番、お答えください」優里が、震える声で立ち上がった。
「は、はい……。『個を捨てる』とは……民法上の人権を完全に放棄し……主人の意志を自らの意志として、生涯……所有物として供されることを……誓う、誓うものです……」
「……惜しいですね。180番、もう一つ大切な視点が抜けています。……『恥辱を愛し』とは何ですか?」
誠也の穏やかな眼差しが、優里を射抜いた。
「それは……主人が与える、お、お仕置きや……屈辱的な、あ、扱いを……慈悲として受け取り、精神的な、悦びに……変換しなければならないという……教理です……」
「左様でございます。皆様の苦痛は、主人にとっては教育であり、装飾なのです。それを拒むことは、法における『契約不履行』に他なりません」
誠也は教卓に戻り、一冊の古びた手帳を開いた。執事時代から変わらぬ、主人のための記録用具だ。
「皆様は、ただの歌として歌っていたかもしれませんが、この歌詞の一文字一文字が、皆様の首に巻かれた『契約』という名の鎖です。放課後の校歌斉唱では、その鎖の重みを、今日学んだ法理と共に噛み締めてくださいね」
穏やかな声、丁寧な言葉。なのに、どうしてこんなに息が苦しいのか。胃の中で溶けていくサプリメントの不快な感触と共に、校歌の歌詞が、逃れられない呪縛として私の全身に染み込んでいった。




