第5話〜微睡みの鎖、仮初の揺り籠〜
「おはよう、れいな。よく寝ていたね。可愛い寝顔だったよ」
朝目覚めると、すぐ隣に凜人――お兄ちゃんがいた。昨夜、絶望の中で彼の胸に縋って泣きじゃくった記憶が断片的に蘇る。本当に一緒に寝てくれたんだ。その温もりに、凍りついていた心が少しだけ溶けるのを感じる。
けれど、ふと気づいて身体を確認した。なぜだか、着てきたものとは違う『見覚えのない服』を身に着けている。
「ハハッ。さすがに意識のない妹に手を出したりしないよ。女中に命じて、風邪を引かないよう風呂に入れさせて着替えはさせたけどね。それに、俺はそこまで不自由していないから」
不自由していない……。やっぱり、お兄ちゃんにもそんな風に扱う相手がいるのだろうか。そう思うと、胸の奥がチリりと焼けるように痛んだ。
「ありがとうお兄……お気遣いありがとうございます、凜人様」
「二人でいる時は『お兄ちゃん』でいいよ。敬語もいらない。……ただし、それ以外では『凜人様』と呼ぶこと。良いね?」
優しく頭を撫でられ、私は小さく頷いた。撫でられるのが好きなのを、お兄ちゃんは見抜いているみたいだ。
「いい子だね。さて、少し真面目な話をしようか」
お兄ちゃんの雰囲気が、ふっと氷のように鋭いものに変わった。
「今日から学院のオリエンテーションが始まる。卒業までずっと、トップクラスの成績を取り続けて欲しい。それが、れいな自身を守ることになるからね」
「私自身を守る……?」
お兄ちゃんは静かに頷くと、『淑女養成学院』という歪な階級社会について語り出した。ランクが上がれば寮の環境は良くなり、将来の『就職先』も高貴なものになる。そして何より、与えられる自由が広がる。逆に言えば、ランクが低い者は、人としての尊厳すら残らない場所へ落とされるということだ。
「わかった……。頑張ってみる」
「いい子だね」
今度は優しく引き寄せられ、抱きしめられた。蒼空に壊された心が、お兄ちゃんの腕の中でだけは繋ぎ止められている気がした。
「お二人とも、お目覚めですね」
静かな、抑揚のない声と共に扉が開いた。入ってきたのは、二十歳くらいの男の人だった。お兄ちゃんより少し若いくらいだが、底知れない落ち着きを払っている。
「ああ、問題ない。れいなの準備を進めてくれ」
「かしこまりました」
「彼は光也。うちの執事で、学院の運営補助もしている」
執事。その言葉に、私はどこか奇妙な違和感を覚えた。光也さんは私の戸惑いなど一切気にする様子もなく、淡々と、無駄のない動きで準備を始めた。
「じゃあ、準備を進めるね」
光也さんが私の方を向き、一歩近づいてくる。一瞬、身体が固まった。ここはまだお兄ちゃんの寝室だ。それなのに、彼はためらいなく私の服に手をかけようとする。
(え、ここで……?)
思わず一歩下がりかけるが、背後からお兄ちゃんの声が響いた。
「れいな、そのままで大丈夫だ。恥ずかしがらなくていい」
優しく、けれど断ることを許さない響き。光也さんの指先が、流れるような動作で私を着替えさせていく。私の羞恥心や戸惑いなど、この部屋には存在しないものとして扱われている。光也さんはまるで、精巧な機械をメンテナンスするかのように、私の身体を一点の曇りもない目で見つめ、整えていく。
(これ、普通じゃないよね……)
朝の光の中で、身内ではない男の人に、そしてお兄ちゃんの目の前で、すべてを曝け出されている。恥ずかしくて顔が熱くなるのに、光也さんのあまりに事務的な態度と、それを見守るお兄ちゃんの当然のような顔が、私の感覚を狂わせていく。
「確認完了です」
光也さんが一歩だけ距離を取る。その動きまで、寸分の狂いもない。気がつくと、私は『学院の規定服』に着替え終わっていた。それは、昨日のような惨めな姿とは違うはずなのに、着せられた瞬間、何かに登録されたような不気味な感覚がした。
「じゃあ、行こうか。……凜人様として、君を導いてあげよう」
お兄ちゃんの声で、全てが次へ進み出す。私はただ、導かれるままに部屋を出た。
ここから先は、もう戻れない。優しさと、屈辱と、冷徹な規律。それらが綯い交ぜになった琉雅院学院の生活が、始まろうとしていた。




