第112話【完成】〜声なき聖域の夜明け〜
視界が、涙で白く濁っている。顎の関節はとうに限界を超え、アラン様が残した鉄の枷が、私の口内を容赦なく引き裂いていた。
痛い。苦しい。誰か、助けて。そんな子供じみた悲鳴さえ、拡張器に塞がれた喉の奥で、無様な空気の塊となって消えていく。
「……かわいそうに。お兄ちゃんが、もっと『楽』にしてあげる」
その声が聞こえた瞬間、私の心に、一筋の、けれどあまりに脆い希望が灯った。
凜人お兄ちゃん。由羅様のような冷たさも、アラン様のような狂気もない、私のたった一人の『味方』だと思っていた人...。
お兄ちゃんの指が頬に触れる。熱い。その体温に、私は震えながら縋り付こうとした。……けれど。
――ギリッ。
肉を断つ音と共に、口腔がさらに抉じ開けられる。
視界の端で、お兄ちゃんが笑っていた。それは、慈愛に満ちた、聖者のような微笑み。けれど、その瞳は、私の『目』を見てはいなかった。
お兄ちゃんが見ているのは、無理やり広げられた私の『口』であり、その奥にある『喉』であり……。そこに、自分の愛を、独占欲を、執着を注ぎ込むための『入れ物』としての私だけだった。
(……ああ、そうなんだ)
氷のような冷気が、心臓の奥まで突き刺さる。この人は、私を見ていない。妹としての私でも、一人の人間としての私でもない。自分たちの輝かしい一族の血を汚さず、けれど醜い情欲をすべて受け入れてくれる、声を出さない、意志を持たない、ただの『聖なる器』。
「……いい声だ。ねえ、兄さん。不浄だって、僕たちの血筋であるこいつが飲み込めば、それは『聖水』に変わるんだから」
お兄ちゃんの言葉は、何よりも鋭いナイフとなって私を切り刻む。私を救いに来たのではない。私を、永遠に壊しに来たのだ。自分だけの、完璧な『モノ』にするために。
「さあ、大和。注いで。……れいなを、この苦しみから解放してあげよう」
大和様の、絶望に満ちた顔が近づいてくる。お兄ちゃんに命じられるまま、彼が口に含んだ『救済』という名の劇薬。それが大和様の震える手で私の喉に流れ込んできた瞬間...世界が、白銀の熱に包まれた。
「ひ……ぎぃ、ぃぃいいいいいっ!!!」
焼ける。喉が、声が、私の『私』であった証が、内側から溶けて、崩れていく。激痛の中で、私はお兄ちゃんの顔を見上げた。彼は、涙を流していた。嬉しそうに。幸せそうに。ようやく、妹《望んた器》が完成したことを祝福するように。
(……大好き、だったよ。お兄ちゃん)
その最後の想いさえ、焼けた喉に飲み込まれて消えた。
『5月4日、午前5時00分』。人間としての私は、無事廃棄処分された。




