第110話【聖別】〜朝の静寂と、不器用な兄の防波堤〜
5月4日、午前4時30分。淑女養成学院の静寂を切り裂く、無慈悲な起床チャイム。それは学生たちにとっての絶望の合図であり、教師である俺にとっては、終わらない激務の継続を告げる弔鐘だった。
「……っ、クソ……。まだ4時半か」
教官棟の私室で俺はソファから身体を起こし、顔に乗せていた未処理の報告書を払い除けた。理事長代行としての実務、アランの越権行為の隠蔽……。権力に興味がないはずの自分に、すべての泥が降りかかってくる。
「……凜人。お前だけは、こんな不浄に触れなくていい」
デスクに飾られた、輝くような笑顔を浮かべる弟・凜人の写真に一瞬だけ視線を落とし、俺は冷たい水で顔を洗った。
自分がどれだけ寝不足で、どれだけ冷酷な『鬼』になろうとも、弟という聖域が光の中にいればそれでいい。それが、この歪んだ兄の唯一の行動原理なのだから。
扉がノックもなしに開く。
「……由羅先生。4時半の点呼、および『001号』の地下連行を完了しました」
入ってきたのは、風紀委員副委員長兼、聖別監獄首席監視官――氷室だ。生徒の分際で、担任の部屋に冷徹な足音を響かせる。
「氷室か。……鴉はどうした」
「委員長は現在、情緒不安定により零号の管理下にあります。……先生、一昨夜の『不始末』の清算を。大和、聖蓮の両名も、既に地下で拘束しております」
氷室の差し出したタブレットには、アランが独断で口腔拡張器を装着し、廃人のように横たわるれいなの姿が映し出されていた。
「……ああ。アランが残した不浄も、大和たちが001号にかけた愚かな『温情』も、俺が今朝の授業ですべて削ぎ落としてやる」
俺は黒い革手袋を嵌め、机の上の重厚な規律棒を手に取った。凜人にこの光景を見せるわけにはいかない。あいつが目覚め、清らかな公務に赴く前に、この地下室の『ノイズ』をすべて処理し、完璧な『器』へと焼き直さなければならないのだ。
「行くぞ、氷室。……少しでも甘さを見せる奴は、教師として、一族として、容赦はしない」
俺は冷徹な仮面を被り、地下へと続く冷たい階段を降りていく。
背後で氷室が、まるですべてを見透かしたような冷笑を浮かべていることにも気づかずに。
重厚な鉄扉の向こう側。
そこには、昨夜の凌辱の残滓と、絶望に震える三人の『愛』が待っていた。
「……さて。地獄の朝を始めようか」
由羅が扉に手をかけたその時。彼の背後の廊下から、場に似つかわしくない、軽やかな、あまりに清らかな足音が響いてきた。




