『帰ろう』
赤いあぶくが唇の隙間から漏れる。
「っ、おああああっ!」
筋力に任せて体幹をねじりながら、ローレルは体に突き刺さった『ムスペル』の腕を切り払った。無貌の人型はごろごろと数メートル地面を転がり、やがてゆらりと立ち上がる。切り払われたはずの腕は既に再生していた。
ローレルは『ムスペル』には構わず『イチョウ』に向き直った。
—手を緩めるな! なにもかもが無駄になる!
『イチョウ』を取り囲んだ三日月形の鎌は、依然として幹を削り続けている。倒壊まで、おそらく三十秒もかかるまい。
「ぁじ、、ジャっ、ク」
うわごとのように呟きながら、『ムスペル』がローレルの背後に迫る。
ふと、彼の視界がフィルターを重ねたように暗くなった。視点が頭一つ分下に落ちる。
—くそ、血を流し過ぎた!
彼の気力を失血のダメージが上回ったのだ。意識が遠のくにつれ手元の大鉈は激しく刃こぼれし、十三あった大鎌たちは一つ、また一つと地面に落ちてゆく。
その瞬間は順当に訪れた。
ばきり、という音とともに、ローレルの大鉈が真っ二つに折れ『イチョウ』の幹に食い込んでいた最後の大鎌が地に落ちる。それを合図とするように彼は膝をついた。
—あと少し、だったんだが。
彼の頭上では『イチョウ』がごうごうと炎を上げ始めた。敵の打倒を勝ち誇るような、人の無力さをあざ笑うような炎だった。
火の粉が降りかかる中、血泡とともに音の形を成さぬままローレルは言葉を吐き出してゆく。
—すまない、マリー。
何よりも大切な娘。
—すまない、少年。
利用した者。
—すまない、『緑』。
彼が最後に思い出したのは、自らを人でなしへの道へと引きずり込んだ、ガスマスクの怪人の名前だった。
—お前はとんでもない悪魔だったよ。だけどたとえ道具扱いでも、こんな俺を認めてくれた。俺に、生きる目的を与えてくれた。
「伐採、任—務は—しっぱい、かな」
もちろん独り言だった。それゆえに、返答された彼の驚きは大きかった。
「いいや、オッサン。よくやった!」
その大音声ははるか後方から。凄まじい勢いで打ち込まれたそれは、純白のラインが走る漆黒の大斧だった。
雷霆がごとき破砕音。ローレルが作った傷口に向かって、大斧を持った青年が渾身の力を込めて一撃を喰らわせたのだ。
突然の闖入者に腹を立てるように、『イチョウ』が金属が擦れ合うような音を立てるのにも構わず、木こりのジャックは重撃を加える!
二撃。
三撃。
四撃。
最後の抵抗に、『イチョウ』は大量の実を投下した。爆発性のそれらは、二人の男を跡形もなく粉みじんに吹き飛ばす—そのはずだった。青年の純白の右腕が地面を殴りつけると、たちまち隆起し実のずべてを打ち払ったのだ。
青年は口元に獰猛な笑みを浮かべて叫んだ。
「ははっ、万策尽きたかよ! それなら—」
突き刺さっていた斧を引き抜き、背後に大きく振りかぶる。純白の右腕が脈動すると、彼のヤドリギに『加害のイメージ』を上乗せした。斧の表面に、無数の刃が疾走を開始する。
「—これで終わりだ」
振り抜かれた斧に、『イチョウ』の幹は両断され—叫び声のような耳をつんざく轟音と爆風とともに、『火災』の漂白樹は倒壊した。
周囲の地面は深くえぐられ、『ムスペル』が作り出していた泉も、全て吹き飛ばし、東居住区に甚大な被害をもたらした『漂白樹』はついに伐採された。
「しっかりしろ、オッサン」
大斧の青年に抱えられて退避したローレルは、背後に迫る脅威に声をあげた。
「―っ後ろだ!」
そこには諸手を振り上げた『ムスペル』がいた。
『イチョウ』の残り火に燃えさかる腕は彼らに向かって容赦なく降り下ろされ―。
「もうやめよう」
ローレルは肩越しに耳なじみのある声を聞いた。『ムスペル』が動きを止め、声の主へゆっくりと体を向けた。
「ジゃック」
『ムスペル』の声にローレルもまた振り返る。
「—少年」
ぼろぼろの黒い三つ揃えに、手にはステレオタイプの死神が持っているような大鎌。右目があったはずの眼窩には、純白のアネモネが咲いている。彼は息を止めた。つい先刻自身が殺したはずの少年がそこに立っていたから。
『庭師』のジャックは『ムスペル』を見据えて、優しく声をかけた。
「帰ろう、師匠」




