探偵の考察:『抜け穴』
「さぁて、と」
『小説家』は、新しい『助手』との交信を切り、一つ大きな伸びをして、体重を預けていた安楽椅子から立ち上がった。
長身と呼んで差し支えないほどの痩躯に載った頭部、その豊かな黒髪には幾分白いものが混じり始め、顔には深いしわが刻み込まれている。
しかし、ほぼ黒といって差し支えない濃緑色の瞳の大きな眼が閃くさまは、彼に秘められた若々しさと、聡明さを見るものに示していた。
さながら年を重ねた大型犬のようなその男は、その印象にたがわず冷静に、自分の置かれた状況を整理した。
客観的に見て、現在彼は危ない橋を渡っていた。
『脱命者』の、それも殺人犯の保護などと聞いたら、『植木鉢』の住人は一体どんな顔をするだろうか。と、彼は想像する。
—十人中七人は血相変えてやめるよう説得し、二人はその場で『監視塔』に通報し、一人は泡吹いてぶっ倒れるだろう。
彼は、雁首揃えた善良な住人たち、それぞれのリアクションを思い浮かべて微笑した。
—全くよくできた世界だ、そしてよくできた人々だ。
例えば重罪を犯した『脱命者』が目の前にいたとして、住人らがそれを責めることはない。『監視塔』への通報も、更生プログラムとやらを信じているが故の行動だ。
それはマルン自身もまた例外ではない。
しかし、『小説家』たるマルンは考える。
—俺たちの先祖である旧暦人は、果たしてこのような生き方を本当に受け入れたのだろうか?
マルンは自問する。『小説家』としての活動に付随する形で、彼は旧暦人の情報を収集していた。歴史、物語、風俗史…。その中に彼が見出した旧暦人の姿は、あまりに自分たちの姿とはかけ離れていた。
彼らは、憧れ、怒り、恐れ、そして殺した。—ありとあらゆるものを。
彼らは、余りに醜く、そして自由に軽々と、マルンの想像をを飛び越えていった。
—俺たちは『命題』を絶対視している。それは『監視塔』に与えられた、間違いのない生き方だ。俺は『小説家』として、あの青年は『伐採者』として。それを放棄することは、自分を放棄することと同義だ。だからこそ、「泡吹いてぶっ倒れ」るほど拒否反応を示す者も出てくる。
マルンは窓から見える『監視塔』に目をやった。こちらを覗き込んでいるかのような眼球型の模様と目が合う。
—なぜ『脱命』にここまで激烈な反応を示す?
—そもそもなぜ、俺たちは『命題』を―与えられただけの生き方を間違いのない生き方だと思っている?
その疑問に至った瞬間に、思考が鈍くなる。思考を回す水車を巨大な怪物に無理やり止められているような感覚に、一筋の冷汗が彼の顔に深く刻まれたしわに沿って流れ落ちる。『監視塔』によって、思考の制限がかけられている。
思考が止められるその寸前、彼は思考のポイントを切り替えた。線路の転轍機を操作するように。
『これは、『命題』に対する疑問ではない。自らを保護する『脱命者』ジャックの行動原理について思考しているだけだ、そしてこの行動は『自己保存』に基づくものであり、『脱命』の条件に抵触するものではない』—。
この前提条件を付加すると、思考は再びその流れを取り戻した。ジャックに接触を図った時と同じだ。
—やはり、思考は許されている。少なくとも、建前を通り抜けさえすれば。これはただの『監視塔』の手落ちか?
—まさか。
そうではない、とマルンは考える。『監視塔』がそのような瑕疵を放っておくはずがない。それも、機能の枝葉末節ならばともかく、『命題』そのものへの疑問という根幹部分に生じた欠落を。
ならば答えは一つ。これは『抜け穴』だ。何か別の意思によって作られた、思考の条件だ。そしてこれは、人類の効率的な運営、そして『命題』の管理という『監視塔』の機能に真っ向から反している—。
「だが、まだピースが足りない」
マルンは独り言ちた。—今の発言、なんだか『探偵』ぽいなとも思いつつ。
足りないピース、それは『動機』だ。なぜなら、そんな『抜け穴(バックドア)』を作る必要がないからだ。この十五万人しかいない人類に残された最後の生存圏をわざわざ危険にさらす必要がどこにあるだろうか?『監視塔』の与えた『命題』にに背く『脱命者』など、当然生まれない方が良いのだ。
その「なぜ」を埋めるピースが、おそらく『木こりのジャック』が持つ異形の『右腕』にあるはずだ。
いや、パズルの隙間にはめられるべきピースの形はすでに彼の中に定まっていた。
後はそのピースが、本当に存在しているのか否かを確かめるだけだ。
—マルンが『機能』を導入した六歳の誕生日、『監視塔』は簡単な自己紹介を終えると出し抜けに言った。
『▼あなたは、『計画:ブレインシード』の実行過程において、『緑』によって殺害されています』
実際のところ、彼には全く訳が分からなかった。
—殺されたといっても、何しろ俺は生きている。そもそも『ブレインシード』とは、『緑』とは何だ?
『監視塔』はその質問に関しては不明の一点張り。その一方で、他の事物に関することは例外なく、極めて正確かつ明白に回答してくれる存在であることが分かってくるほど、あの『監視塔』の発言の異常さはマルンの中で増していった。
周りの住人も、マルンの言うことには取り合ってくれなかった。小説家としての『命題』は、実務的な『命題』を持つものが大半の『植木鉢』の住人からすれば、たくましい妄想家であることとほぼ同義であったから。
「触らぬ神に祟りなし」
—金言だね。
幼いながらも彼は『監視塔』の発言を忘れるよう努めた。
それから数十年がたったつい先日、『監視塔』から二名の『脱命者』の情報が通達されるまでは。
知る限りでは『植木鉢』初めての殺人事件だ。マルンは迷わず北縁地区の『首無し(ヘッドレス)』と『共振波』の抑制薬を手配すると、『庭師』の少年たちによる奇襲作戦に便乗し、ジャックとの接触に成功した。
まさか、当の殺人犯に保護を頼むことになるとは、あのガスマスクの男が『緑』と名乗るのを聞くまでは思いもしていなかったが。
マルンは苦笑する。顔に刻まれたしわが、きゅっと深くなる。
—『計画:ブレインシードを破壊する』
あの『カエデ』の切り株で、彼は確かにそう言った。マルンはこの発言を『首無し(ヘッドレス)』を通じて聞いた時、自身の『機能』を疑った。数十年湖の水底に眠っていた—旧暦人のおとぎ話に出てくるような—大蛇が、ゆっくりとその鎌首をもたげたような錯覚を覚えた。
—『『計画:ブレインシードの破壊』が果たされてなお、この世界を『切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパ—)』として生きていくのは、御免こうむるだろ?』
この発言自体は、マルンにとって一つの綱渡りだった。ジャックが『ブレインシード』とやらをどこまで把握しているのかは知らない。ややもすると、必要以上に警戒されたり、ただの盗み聞きに基づいたカマかけと判断される恐れもあった。しかし、彼はマルンの誘いに乗ってきた。
念のためにと持たせた『共振波』抑制薬の存在もうまく働いただろうが。
『計画:ブレインシード』が一体何を意味するのかは不明だ。しかし、どうやらその計画とやらの過程でマルン自身は一回殺されており、ジャックはその破壊を決意している。
—脳の種、か。
「なんじゃそりゃ」
—全く見当もつかない。誰が作った造語かは知らないが、分かりにくい単語で読者を置いてけぼりにするのはご法度だ。どうやらろくなものでないことははっきりしているけどな。
仮にも『小説家』の『命題』を持つものとして、思わず文句をこぼした。
だが、あの日『植木鉢』を襲ったとてつもない『共振波』は、マルンの『脳』に間違いなく変化をもたらした。
『『怒り』が流れ込んできた』
『がちんという音と一緒に何かが外れた』
そう表現するほかなかった。
流れ込んできたその『怒り』は、凄まじいものだった。無数の誰かが覚えた、生きているもの全てへ向けられた怒りだ。あの瞬間、『植木鉢』に住む者たちすべてが、それを追体験させられていたのだ。そして、頭の中で何かが外れる、取り返しのないあの感覚。
その追体験を根拠として、彼は自身がすでに殺されていることを確信した。いや、正確に言うならば『監視塔』の『証言』が単なる世迷言やバグの類でないことに裏付けが取れたのだ。自分たち『植木鉢』の住人の脳には、『機能』以外にも、知らされていない何かが仕込まれているのだと。
—何はともあれ、ジャックは俺の護衛に同意した。交換条件は、アイツ自身の無実を証明すること。そこには『計画:ブレインシードの破壊』への支援もまた必要条件として含まれている。
つまり『ブレインシード』そのものの解明もまた、彼自身の役目だ。
「ホント、人使いが荒いよなあ、『脱命者』のくせにさ」
あくびと一緒に軽く悪態をつきながらも、彼は『脱命者』の青年ジャックに好印象を抱き始めていた。自らを殺しにかかる『庭師』すら助けずにはいられない、あのお人好しの青年を。
だからこそ、気が進まなかった。ジャックに自分の仮説を突き付けることが。
いっそのこと『監視塔』に捕まるか、『庭師』に殺されていた方が幸せだったかもしれないとすら思った。
『小説家』としての在り方を差し引いても、マルンの好奇心の強さは生来の物だ。その彼をして、厚いベールの向こう側に隠されているであろうその仮説のシルエットは、おぞましいものと言わざるを得なかった。
目覚ましのコーヒーを入れるためにキッチンに向かう。『首無し(ヘッドレス)』を中継した通信を長時間行ったため、目の奥が重い。彼はコーヒーの味そのものを好む男ではなかったが、苦み刺激とカフェインによる覚醒効果には信頼を置いていた。
マルンは頭の中に、自らの仮説を反復する。『植木鉢』の人間に許された思考の『抜け穴』の正体、そしてそれを作った者が、何を目的としているのかを。そして、この仮説は、おそらく『計画:ブレインシード』と無関係ではない。いやそれどころか、根幹にあるといっても過言ではないはずだ。
彼はあらびきのコーヒー豆の上にゆっくりと円を描くようにお湯を注ぎ入れた。フィルターを通って現れた美しい琥珀色のしずくは、ポットの中で深い黒色の水たまりに姿を変えた。その緩やかな変化に追随するようにして、マルンの仮説は彼の脳内で言葉を結び始める。
—『抜け穴』を作る必要があったとしたら。むしろ『抜け穴』そのものが本来意図されていた用途だとすれば。
つまり『脱命者』を生み出すことこそが、本来の『命題』というシステムの役割で、『監視塔』はそのふるいとしての役割なのではないか?
そして、おそらくはジャック自身でさえも、いや『伐採者』だからこそ気づいていない、大きな—。
「あっ」
いざコーヒーを注ぎ入れる段になって、マルンは気が付いた。
—お気に入りのコーヒーカップは先日割ってしまったんだった。まいったな。
「まあ、いいか」
誰かに言い訳するような呟きとともに戸棚から湯呑みを取り出す。そこにとぽとぽとコーヒーを注ぎ入れると、湯気の立つまま一口すすった。
—見た目はちぐはぐだが、俺からすれば味は変わらない。
「あくまで、コーヒーに限った話かもしれないけどね」
マルンは一口飲んだ湯呑みの中を覗き込み、つぶやいた。
口の端に浮かんだ苦々しさは、コーヒーの味だけに由来するものではないようだった。
彼の披露した脳には、コーヒーの刺激は些か強すぎた。
溢れないよう慎重に、湯呑の中へミルクを注ぎ入れる。
深い黒に、白い螺旋がゆっくりと描かれていった。
彼が話し始めると、とても頭を使わなくてはならなくなるので疲れます。




