第1話後半『配役交代は突然に』
―――中継セクター会議室―――
廊下では、博士がスターの役割を引き継ぎ、臨時のステージに立っていた。
白衣のポケットからマイクを取り出した彼は、歌う代わりに分厚い資料を広げる。
「えー、この歌詞は、脳内ホルモンの分泌と、泡の物理現象を表現していますな」
彼は、情熱的な愛のラブソングを、まるで学会の論文発表のように淡々と解説し始めた。
「まず、サビの『君にときめく』という表現。これはアドレナリンの急上昇による心拍数の増加を指している。
続く、
『弾ける想い』とは、炭酸水における二酸化炭素の気泡が、界面活性の低下により急速に崩壊する熱力学的プロセスと完全に一致か――」
最初は手拍子をしようとしていた観客の手が、一人、また一人と止まり、現場の空気は徐々に、そして確実に冷めていく。
「……待ってくれ。俺のソウルフルなナンバー、そんな風に聞こえてたのか……?」
手帳を握りしめたスターが、遠くでアイデンティティを打ち砕かれたような顔で呟いた。
一方、スターはカレシの役割を引き継いでいた。
彼は、手帳とペンを手に、かつてないほど真面目な顔で何かを書き留めている。
「……今日の気温、二十一度。湿度、六十二パーセント。風向き……やや南西。ふむ、この方角だと、ビブラートの震えはどうだ?」
スターは、軽く音階を口ずさみながら手帳にペンを走らせる。
カレシの真似をして、彼なりに淡々と記録を取っているつもりなのだ。
しかしその手帳は、文字の代わりに五線譜とハートマーク、そして明らかに主観的なコメントだけで埋め尽くされていた。
「ギターのネック、乾燥してる。これは魂の叫びだ。記録しとこう」
カレシが、遠くから声をかける。
「……それは記録ではなく、あなたの個人メモです」
「魂のメモリーだよ」
スターは、にっこり笑って、手帳に『※魂も記録のうち』と力強く書き足した。
カレシは、女将の役割を引き継ぎ、厨房のカウンターの前に立っていた。
彼は、コーヒーカップを手に取り、実験器具を扱うような手つきで計量スプーンを動かしている。
「……水温は九十二度。抽出時間は三分三十秒。この数値が、脳の疲労回復における最適な抽出条件です」
彼は、完璧な手際でコーヒーを淹れていくが、その一連の動作はあまりにも機械的だった。
ドリップの軌道すらミリ単位の狂いもない。見守っていた女将が、苦笑いしながらそっと声をかける。
「……カレシさん。コーヒーはね、数字だけじゃないのよ」
「……では、何が必要ですか? 豆の焙煎度でしょうか」
「……心よ」
カレシは、ピタリと動作を止め、深刻な顔で考え込んだ。
「……『心』のパラメータは、私のデータベースにまだ定義されていません」
「……心はね、測るものじゃなくて、伝わるものよ。数字は、後からついてくるの」
カレシは、何も言えなかった。
ただ、じっとコーヒーカップの黒い水面を見つめて、小さく頷いた。
会議室に戻ると、女将が雇い主の席に座っていた。
「今日はなーんにもやらなくていいのよ」
「疲れたら休んだらいかがかしら」
「ほら、コーヒーをお飲みなさい」
彼女のメンバーへの優しさの連発で、会議室は異常なほど平和になっていた。
「……何ひとつ業務が進んでいないような気がするが」
雇い主が、腰を押さえながら呟く。
その時、部屋の片隅で、カノジョが目を輝かせていた。
「私の番だね! 全部やる!」
彼女は会議室の隅に駆け寄り、そこら中から道具をかき集めた。
隊長のヘルメットを頭にかぶり、長老の杖を右手に握り、監査役の電卓を左手に抱え、博士の白衣を羽織る。さらにスターのギターピックを口にくわえ、カレシの手帳をポケットにねじ込んだ。
円卓の真ん中に躍り出たとき、彼女はすでに「全部」を身につけていた。
「実験って、何かを『知りたい』って思うことでしょ? でさ、ツナ昆布おにぎりって何でこんなに美味しいの?」
博士が、遠くから絶句した。
「おやつ代はねー、全部経費で承認! でもスターの衣装のうち一枚は却下! 私のお姫様ドレスと交換ね!」
監査役は口を開こうとして、静かにやめた。
「守るって、抱きしめることと一緒だよね! え、じゃあ『お姫様だっこ』ってこと? キャー恥ずいー!」
隊長は何も言えずに顔を赤らめた。
「歌はさ、結局、心じゃん。『ラララ〜♪』でも気持ちよくなれれば、超効率的じゃん!」
スターは、黙々とギターの弦を調整した。
「記録って"忘れないため"に付けるんだよね。でもさ、忘れるから、次また楽しめるんじゃない?」
カレシが、自分の手帳を見つめたまま固まった。
そして、カノジョは少しだけ黙った。
雇い主の席を見て、静かに言った。
「……みんなが笑ってるといいな」
会議室が、一瞬だけ静かになる。
雇い主だけが、苦笑した。
「……ああ、そうだな」
彼の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
日が傾き始めるころ、長老が席を立ち、窓辺に立った。その背中は、少しだけ疲れているように見えた。
「……今日は、わしは見ているだけで十分じゃ。無理はせんよ」
「長老、お疲れでしょう。少し休んでください。」
女将が、優しく声をかける。
「うむ。気遣い、ありがとう」
長老は、微笑みながら、再び席に座った。その動作は、以前よりゆっくりだった。でも、確かに、回復の兆しが見えていた。
カノジョが、黙って長老の横に立ち、
そっとその腕を支えた。何も言わない。
ただ、そこに立っている。
それだけで、長老の表情が少しだけ和らいだ。
その時、カノジョが、ふと立ち止まった。
「……ねえ」
全員が、彼女の方を見る。
「役職ってさ――」
彼女は、少し間を置いた。
「――戻っても、友達だよね?」
一瞬の静寂。
長老だけが、小さく笑った。
「……当たり前じゃ」
その言葉が、会議室に優しく響いた。
【観測記録:中継セクター】
日時:本日
イベント:全役職交換
実施時間:一日(予定)
特記事項:
カノジョのみ、役職適性判定『測定不能』。
ただし、各役割の本質を無意識に言語化する現象を確認。
観測を継続する。
(1/3話)




