第13話 封鎖か、崩壊か
商人区が、燃えていた。
火ではない。病だ。令を拒んだあの区画で、灰死病は一夜にして数十人を倒し、朝には百を超えた。煮沸もせず、水も分けず、井戸を共にした富裕な家々が、まとめて震源に変わっていた。城壁都市ヴァルクの、いちばん豊かな一角が、いちばん速く死につつあった。
城壁のうえから見おろせば、商人区の通りに人影はなかった。戸は閉ざされ、窓に灯りはない。ゆうべまで、絹と香辛料の匂いがした一角だ。今は、水甕のそばに倒れたまま動かない者を、家族が戸口から見ているだけだった。門のいちばん内側で、ひとりの母親が、灰色の唇をした男の子を抱いて、俺たちを見上げていた。井戸を疑わなかった。煮沸を、迷信だと笑った。ただ、それだけの家だった。子は、まだ息をしていた。
俺は市庁舎の広間に立っていた。地図の上に、区画ごとの数を書き込んだ帳面を広げる。商人区の欄だけが、黒く塗り潰されたように埋まっていた。
「このままでは、隣の職人区へ流れます」俺は言った。「商人区は同じ水路で、下の三区画とつながっている。放てば、明日には千を数える」
市の顔役たちが、色を失った。医師団支部の医師が、袖を払って前に出る。ガレンの息のかかった一派だ。
「辺境の異端が、都市を脅すか。瀉血で――」
「あなた方の瀉血で、セルレは何人残った」
言葉が、部屋を凍らせた。医師は口をつぐんだ。数字は、もう覆せない。それはこの都市の誰もが、噂で知っていた。血を抜かれた者から順に死に、水を分けた者から順に還った。宿場町の帳面が、それを一行ずつ、証していた。
「――で、では、貴殿はどうする」医師の声から、権威の色が抜けていた。「あの区画を、どう鎮める」
「方法は一つ」俺は地図の一点を指した。「商人区を、封じる。門を閉じ、水路を断つ。人も水も、区画から外へ出さない」
「封鎖――」顔役の一人が、喉を鳴らした。「あそこには、二千人が住んでいる。閉じ込めれば、区画ごと……見殺しにするということか」
広間が、しんとした。
見殺し。その言葉が、俺の底の、古い一点に触れた。
――イグナーツの声が、遠くでよみがえる。修業の初め、俺は情に流された。苦しむ患者の手を握り、順序を後回しにした。師の「手を離せ、まず記録を」という指示に、俺は背いた。握った手のぬくもりを、順序より優先した。その患者は死んだ。俺のせいだった。以来、俺は決めた。情は救わない。手順が救う。握る手より、数える手を。
だから俺は、非情でいられる。二千人を封じ、都市の九割を救う。数だけを見れば、それが正しい。
正しい、はずだった。
「……エリアス」
ミレイユの声だった。帳面を抱えたまま、彼女は俺のとなりに立っていた。商人区の欄の、黒い数字を見つめている。その一つ一つが、名前を持つ人間だと、彼女は知っている。
「あなた、いま、あの二千人を数字で消そうとしてる」小さな声だった。「弟が死んだとき、わたし、祈るだけで何もできなかった。……でも、あなたは違う。あなたは、いつも第三の手を見つける人でしょう。瀉血か祈祷か、じゃなくて、水を分ける、っていう三つ目を。今も、あるはずよ。閉じるか、見殺すか、じゃない三つ目が」
俺は、彼女を見た。
情に流されて、患者を殺した男だ。その俺に、彼女は、情を捨てるなではなく――情を、順序に変えろと言っている。握る手ではなく、数える手で、あの二千人を救えと。
俺は地図に向き直った。頭の中で、区画を、水路を、日数を数え直す。
「封じる。だが、見殺しにはしない」
顔役たちが顔を上げた。
「門は閉じる。人の出入りは止める。だが、区画の内側を、さらに小さく割る。まだ倒れていない家と、倒れた家を、通りごとに分ける。健康な家には煮沸した水を、外から城壁の樋で運び入れる。病んだ家は、一軒ずつ隔離して看る。閉じ込めるのではない。壁の内側で、もう一度、水を分けるんだ」
「そんな手間が、間に合うのか」
「間に合わせる。区画ごとの報告網は、もう職人区で回っている。同じ仕組みを、商人区の内側に、通り単位で敷く。数えられれば、止められる。閉じた壁の中でも、順序は断てる」
俺は、門の内側のあの母子を思い浮かべた。「まず、まだ倒れていない家に、煮沸した水を届ける。あの門際の、子を抱いた母親の家からだ。子は、まだ生きている。塩と蜂蜜の水を飲ませれば、脱水は止まる。間に合う一人を、間に合わせる。それを、二千回くり返す」
顔役の一人が、こぶしを握った。「……あの区画には、わたしの孫もいる」
「なら、孫の名を、還った者の頁に書けるようにしろ」俺は言った。「死んだ者の頁ではなく」
ミレイユが、息を吸った。
「班を、組み直す。わたしがやる。通りごとに、報告係を立てる」もう、祈祷助手の目ではなかった。人を動かす者の目だった。
その夜。俺は商人区の水源をたどった。区画のいちばん上、都市へ水を引く取水口。そこで、俺は足を止めた。
取水の桝に、羊の死骸が沈められていた。セルレでも、村でも見た型だ。だが今度は違った。死骸の下に、砕いた石灰と、灰色の粉が詰め込まれている。都市の水を、いちばん多くの人が飲む一点で、狙って濁らせた跡。偶然ではない。誰かが、この都市の水源を、意図して汚した。
上流の撒きと、同じ手だった。村から、セルレから、この都市まで――同じ誰かが、川を下りながら、水に病を仕込んでいる。しかも、いちばん人が集まる取水口を選んでいる。灰死病がどう広がるかを、俺と同じくらい、知っている手だ。病を止める者ではない。病を、狙って配る者。
俺は桝の縁に、見慣れぬ焼き印を見つけた。瀉血刀に刻まれていた、あの紋章に似ていた。隣国カルデアの、紋章。
宿へ戻ると、卓の上に、俺の帳面が開かれていた。ミレイユが、報告係の名を書き写そうと、間違えて別の頁を繰ったらしい。彼女は、じっと動かずに、その頁を見ていた。
「死んだ者」の頁だった。俺が夜ごと、救えなかった者の名を、一人ずつ書き写す頁。
「これ……あなたが、毎晩」ミレイユは顔を上げなかった。「冷たい人だと思ってた。ずっと。……でも、あなた、この人たちを、全部、覚えてるのね」
俺は答えなかった。帳面を、静かに閉じた。
「明日から、商人区に入る」俺は言った。「壁の中で、水を分ける。一人も、この頁に増やさないために」
ミレイユは、うなずいた。その手が、まだ少し、震えていた。
取水口の紋章が、頭を離れなかった。誰かが、川を下りながら、俺の先を行っている。都市を救っても、その誰かは、次の水源で待っている。カルデアの紋章。水の毒を熟知した、顔の見えない医者。俺が村で数えはじめたその日から、そいつは川上で、静かに数を配っていたのかもしれない。
数えるだけでは、追いつけないのかもしれない。だが、まず、壁の中の二千人だ。あの子を、還った者の頁に書く。それが、いまの俺の順序だった。
第13話、お読みくださりありがとうございます。今回は、エリアスの信条が都市の規模で試される回でした。「封鎖か、崩壊か」――二千人を見殺しにすれば九割が助かる。数だけを見れば正しいその選択に、かつて情で患者を殺した男が、今度は非情ゆえに人を切り捨てそうになる。背を押したのは、ミレイユの「三つ目を見つけて」というひと言でした。
そして取水口に残されていたのは、隣国の紋章。村から都市まで、川を下りながら水を汚してきた「誰か」の影が、はじめて水面に浮かびます。壁の中で、エリアスは一人も死者の頁に増やさずに済むのか。次回、数字が都市を動かしはじめます。続きも、どうか見届けてください。




