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「感情がない」と婚約破棄された宮廷薬師、辺境で防疫制度を敷いたら王国が頭を下げてきた ―戦わずに疫病を制した追放医師の再建録―  作者: 水無月カレン


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第1話 「感情がない」と捨てられた薬師は、辺境で最初の命を数える

「お前には、感情がない」


王女アデラインは、そう言って俺との婚約を破棄した。玉座の間に集まった貴族たちが、扇の陰で笑っていたのを覚えている。宮廷筆頭薬師補エリアス=ヴェント――病人の枕元でも眉ひとつ動かさない冷血漢。それが宮廷での俺の評判だった。


俺は反論しなかった。


反論する時間があるなら、その分だけ帳面をつけたほうがいい。誰が、いつ、どんな熱で、何日目に死んだのか。数えなければ、次の一人は救えない。感傷は患者を救わない。手順が救う。それが俺の、たったひとつの信仰だ。


追放先は辺境ミルドレーン。地図の端の、河口の湿地。王都の連中が「祟りの土地」と呼んで近寄らない場所だった。


その村に着いたのは、日が傾きかけた頃だ。


馬車を降りた瞬間、鼻をついたのは腐った水の匂いだった。井戸のまわりに人だかりがある。泣き声。祈りの声。俺は荷を置く前に、そちらへ歩いた。


筵の上に、幼い少女が寝かされていた。六つか七つ。唇が灰色で、呼吸が浅い。灰死病――この土地の風土病の、典型的な症状だ。そして、その傍らで、白髭の老人が小刀を構えていた。


「動くな」


俺の声に、老人の手が止まる。


「よそ者が何をする。わしはこの村の祈祷医、モーグだ。灰死病は体に溜まった悪い血が起こす。血を抜いて、祈る。先祖代々そうしてきた」


「その子から血を抜けば、今夜のうちに死ぬ」


俺は少女の脇にひざをつき、まぶたを裏返し、首の脈を診た。熱は高いが、脈はまだある。脱水が進んでいる。この段階なら――間に合う。


「血を抜くな。抜いた分だけ、この子は早く死ぬ」


「では、お前の言う“清い水”とやらで、死にかけが生き返るとでも?」


「生き返らせるんじゃない。死なせないだけだ」


俺は立ち上がり、村人たちを見回した。


「この子を使っていない小屋へ移せ。ひとつ。他の子どもを近づけるな。ふたつ。井戸の水は今日から飲むな。煮てから飲め。みっつ」


誰も動かなかった。当然だ。今日来たばかりのよそ者の言うことなど、聞く義理はない。


だから俺は、自分でやった。少女を抱え上げ、風の通る空き小屋へ運び、窓を開けて澱んだ空気を外へ押し出す。竈に火を熾し、鍋で水を沸かす。冷ましてから、匙で少しずつ、少女の唇に含ませていく。塩と、蜂蜜を、ほんのわずか溶かして。


「……何をしているのか、説明しろ」


いつのまにか、若い娘が戸口に立っていた。仕立てのいい外套。この村の領主代理――ミルドレーン家の娘、ミレイユと名乗った。祈祷医モーグに従って、村の病人を看てきたという。


「体から水が抜けて、干からびかけている」俺は手を止めずに答えた。「だから、水を戻す。ただし濁った井戸の水では、別の病を上塗りするだけだ。煮て、冷ます。それだけのことだ」


「それだけのこと、って……」


娘の声が揺れた。「わたしたちは、ずっと祈ってきたのよ。祈祷して、血を抜いて、それでも――」


そこで言葉が途切れた。それでも、死んでいった。そう続けたかったのだろう。彼女の目の奥に、俺のよく知っている色があった。救えなかった誰かを、数え続けている者の目だ。


夜半、少女の唇に、わずかに赤みが戻った。


呼吸が、深くなる。灰色だった顔に、生きた者の色がにじむ。村人たちが、息を呑んでその顔を覗き込んでいた。ミレイユが、口を手で覆った。


「……熱が、下がってる」


「まだ山は越えていない」俺は帳面を開いた。「この子の名は」


「リタ。……リタよ」


俺は羽根ペンを取り、書きつけた。リタ、六歳、灰死病、発症四日目、脱水――処置、隔離と補水。


これが、この土地で最初の一行だ。誰が、いつ、どうして生き延びたのか。一人ずつ数えていく。それが、俺のやり方だった。


「ねえ」ミレイユが、震える声で言った。「あなた、なんで……そんなに落ち着いていられるの。人が死ぬかもしれないのに、どうして帳面なんか」


俺は少し考えて、答えた。


「泣いても熱は下がらない。俺が数えれば、次の一人が助かる。それだけだ」


冷たい男だと思っただろう。宮廷でも、そう言われた。感情がない、と。


だが――誰も見ていない夜更けに、俺はいつも、救えなかった者の名を書き写す。忘れないために。次で、間違えないために。それを情と呼ぶのなら、俺の中にも、たぶん少しはある。ただ、表に出す使い道を知らないだけだ。


窓の外。月明かりに、河が鈍く光っていた。


その水面を見て、俺は妙な引っかかりを覚えた。この土地の水は、上流から流れてくる。灰死病が「土地の祟り」だというなら、なぜ、川上のほうがひどいのか。祟りに、川の流れなど関係あるはずがない。


まるで、誰かが上流から――病を、流し込んでいるかのようだ。


「明日、川を見に行く」俺はペンを置いた。「リタが持ち直したら、次は村ごと救う。一人ずつ数えていれば、いずれ全部が数字になる。数字になれば、病は――潰せる」


ミレイユが、俺の横顔を、じっと見ていた。


その視線の意味を、このときの俺は、まだ知らなかった。


はじめまして。水無月カレンです。

「感情がない」と切り捨てられた薬師エリアスの、辺境再建録がはじまりました。剣は一本も抜きません。彼が振るうのは、水と、隔離と、帳面だけです。


次回、灰死病の本当の恐ろしさが、村を襲います。エリアスの「数えるやり方」は、祟りを信じる村を救えるのか――そして、上流の川に隠された秘密とは。


面白いと思っていただけたら、ブックマークと評価で背中を押していただけると、次の一人を数える力になります。どうぞよろしくお願いします。


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