熱狂と興奮と
1度、2度と向井がサインに首を振る。だがバッターはもう確信を持っていた。向井はスライダーで勝負してくると。
(三振を奪うのが最良なこの場面、間違いなく向井さんはそれをしに来るだろう。だとしたら投げるのはスライダー以外ありえない)
向井にはもう1つフォークボールという強力な武器がある。三振を奪うのならむしろフォークの方が確率は高いかもしれない。
しかしフォークボールはその性格上ワンバウンドになる危険性もあり、そうなるとキャッチャーが後ろに逸らすのが怖い。
だからこういった満塁かつ1点も与えられないような状況では怖くて投げるのを躊躇する。それがピッチャーの通常感覚だ。ほぼ例外なく。
(本来向井さんの登板予定はなかったはず。それが予定外のこの場面で出てきたということは、おそらく急遽の登板だろう)
そんな状態である上に向井は代わってまだ7球しか投げていないし、フォークに至っては1球も投げてはいない。
ピッチャーの感覚というものは真に繊細なもので、日によっても違うし球種によっても違う。試合前の練習では好調に思えたのに、いざ本番のマウンドに上がったらダメだったということもあるし、他の変化球の調子が良くてもフォークはイマイチということすらある。
極端な言い方をすれば実際に試合で投げてみなければ、ピッチャーの調子は自分自身ですら判断できないのだ。
そんな今の状況でフォークボールを投げるのは、いくら向井といえども怖くてできないだろう。責任感の強い男だからこそ投げられないはずだし、そういう男だから打ち取る可能性が少しでも高い方を選択するはずだ。
セオリーなど関係なく、この場面で彼は確信を持っていた。向井とは何度も対戦している。その経験から導き出された、それが答えだった。
(勝ちたいであろうホーム最終戦だし優勝がかかってるし、しかも完全試合をされている最中なんだ。1点もやれないと切羽詰っているはず。スライダーかストレート。だが99パーセント投げるのはスライダーだ。この場面と状況で今日初めて投げるフォークは絶対に無い)
プロならば球種がわかっていればヒットを打つくらいのことはできる。たとえそれがどれほど優れた変化球であろうとも。
彼はスライダーにヤマを張って狙い打ちする覚悟を決め、キッと眼光鋭くマウンドを見据えた。
ようやくサインが決まり、向井が投球動作に入った。そして大きなモーションから8球目が投じられた次の瞬間、「あっ!!」という声が球場中に響き渡った。それはバッターが思わず発した声だった。
向井が投げた瞬間、ストレート系のボールであることは間違いないとわかった。
(よしっ!)
スライダーならばここから曲がるから、それを引っ叩けばいい。ストレートならば差し込まれても何とかファールで逃げよう、そう思った。
だがボールは彼の予想とは全く違う軌道を描いた。
向井の投げたそのボールは真っ直ぐ来るわけではなく、横に滑るわけでもなく、あろうことか下に落ちたのだ。フォークボールだった。振り出されたバットは空しく空を切る。
「ストライク! バッターアウト!」
主審が三振のコールをした後、バッターは呆然とバッターボックスに立ち尽くした。
(ウソだろ。ここでフォークを投げるかよ……失投が怖くないのか? 優勝がかかってるんだぞ? 初めてのリーグ優勝だろ?)
彼はまったくもって考え違いをしていた。向井はフォークボールをワンバウンドさせる危険性など微塵も考えていなかったのだから。
そんな失敗をするはずがないとハナから恐れてなどいなかった。自分が失敗するわけがないという絶対的な自信を持っていた。
(どれだけ自信家なんだ、この人は……)
バッターは唇を噛みしめ悔しがるしかなかったが、彼を責めるのは酷な話だ。
なぜなら彼の考え方のほうがいわゆる普通の思考であって、向井の方が異常なのだ。ピッチャーというものを知っていればいるほど、この場面・状況でのフォークは怖くて投げにくいハズなのだから。
向井がサインに首を振ったのはキャッチャーがフォーク以外のサインを出していたからだった。向井はバッターの読みを見切った上でフォークボールを投げた。ヘマをしてもキャッチャーが止めてくれると信じていたからではない。自分がそんな失敗をするわけがないからだ。
次のバッターも向井の敵ではなかった。何とかしようと食い下がり粘りは見せたものの、最後は空しく平凡な内野フライに打ち取られてしまった。
新横浜スタジアムの熱狂度合いはうなぎのぼりで、意気揚々と胸を張ってベンチに戻る向井の背中に向かって送られたのは、観客の声を枯らさんばかりの大賛辞だった。
スタジアムで7回表の攻防が繰り広げられている同じ頃、新横浜アリーナではいよいよラストの曲を歌うため春香がステージの中央に立っていた。
8000人の視線が全部自分に向けられている。それがわかるのに、不思議と怖くなかった。
最初にステージに出てきた時はさすがに足が震えたが、今はもうそんな感覚はすっかりどこかに消えてしまっている。
ここまで歌ってきた曲たちが、客席の熱を少しずつ高めてきた。最初は緊張した面持ちで見ていた観客たちが、今では全員が一体となって春香の歌に乗っている。
そして、いよいよ最後の曲だった。
だがイントロが流れ始めた瞬間、客席がざわめいた。
「えっ?」
「なにこのイントロ。知らない」
知らない曲だ、という観客のざわめきだった。
当然だ。この曲はまだリリースしていない。今日ここで初めて披露する曲なのだから。
春香はこの曲のタイトルを『ディアハーツ』と名付けた。
dear heartsと書けば英語で「いとしい人」「心から愛する人」を意味する愛情表現になる。
dia heartsと書けば「Dia.(ダイアモンドの略)」の持つ「固い意志」と、「HEARTS」の「折れない心」を掛け合わせて「強靱な心」「折れないハート」を意味する。
春香はマイクを両手で握りしめた。
(北野さん、今頃どうしてるんだろう)
すぐそこにある球場では、今まさに試合が続いているはずだ。北野が投げているはずだ。途中降板なんてしているはずがない。
(勝ってるかな。勝ってるよね)
気にならないと言えばウソになる。
でも今だけは、それを考えるのはやめようと春香は思った。
今この瞬間は、自分の目の前にいる8000人だけを見るのだ。この人たちの心に自分の想いを込めたこの曲を届けるのだ
春香はあらためてこの曲を書いた夜のことを思い出す。
あの夜、自分はただ北野を励ましたかった。その想いを届けたかった。
そうして書き始めた曲が、まさか初めてのアリーナライブで8000人を前にして歌う日が来るとは思ってもいなかった。
(いまこの時間、一緒に戦ってる北野さんに届きますように)
春香はそっと目を閉じ、そして歌い始めた。
最初の一節が客席に広がった瞬間、場内の空気が変わった。
春香にははっきりとわかった。8000人が、息を呑んだのが。
それまでの賑やかな熱気とは全く違う、静かで深い集中が会場を包み込んでいった。
誰も声を上げない。ただ春香の歌声だけが、アリーナの隅々まで広がっていく。
春香は歌いながら、客席を見渡した。
泣いている人がいた。
目を閉じて聴いている人がいた。
隣の人と手を繋いでいる人がいた。
それを見た瞬間、春香の胸の奥が熱くなった。
(届いてる)
この曲が、ちゃんと届いている。
サビに差し掛かった。春香はもっともっと声に力を込める。
8000人が、静かに揺れていた。
2番に入ると、少しずつ客席から声が上がり始めた。歌詞を知らないのに、メロディに乗って声を合わせてくれている。初めて聴くはずなのに、まるでずっと知っていたかのように。
春香の目に、涙が滲んできた。
泣いてはいけない。でも、止まらなかった。
最後のサビ。
春香は全力で歌った。8000人分の想いを受け取りながら、同時に自分の想いを全部込めながら。
この曲を書いた夜の気持ちを。
遠く離れた場所にいる、あの人への気持ちを。
最後の一音が静かに消えていった。
一瞬の静寂。
そして次の瞬間、8000人が一斉に立ち上がった。スタンディングオベーションだ。
春香に対する最大級の賞賛や敬意が、割れんばかりの大歓声と拍手になってアリーナ全体を包み込む。
春香は両手に持ったマイクを胸に当てて、深く頭を下げた。
(ありがとう。みんな、ホントにありがとう)
声にならない言葉が、唇から零れた。
顔を上げた時、春香は客席のずっと向こうを見た。
アリーナの壁の向こうに、球場がある。
(北野さん、私はやり切ったよ。あとはあなたの番だね)
8000人の拍手の中、春香は深く頭を下げた。再び顔を上げ観客たちに向かって大きく両手をふると、大きな歓声と拍手の渦が沸き起こった。そしてゆっくりと緞帳が降りてゆく。
「春香ぁ!」
「春香さぁん!」
緞帳が降りきるやいなや、小春と雪乃が抱きついてきた。
「よかった、よかったよ。大成功だね、春香」
「うん。小春ちゃん、ありがとう」
「春香さん。私、今日の事一生忘れません」
「雪乃ちゃん、ありがとう。私も今日のことは一生忘れないと思う」
3人が抱き合いながら話していると、マネージャーの田村が声をかけてきた。観客席ではアンコールの声が止まらないのだ。
「感激してるとこ悪いけど、まだ終わりじゃないみたいだぞ。観客席がスゴイことになってるんだ」
このまま終わらせるわけにいかないのは言うまでもない。
「アンコール、行ってこい」
春香は頷いて、もう一度マイクを握りしめた。
アンコールで歌うのは、もちろん「あなたへ」だ。
初めて北野に送った、あの曲。
再びステージに上がった春香は、静かに息を吸い込んで歌い始めた。
8000人が、静かに耳を傾けている。
この曲を、北野は知っている。自分が骨折して苦しんでいたあの頃に、春香が作って送った曲だということも知っている。でも今日ここで歌われていることは、きっと知らない。
それでもいい。
いつかきっと、伝わる日が来る。
春香は最後まで歌い切った。




