絶体絶命
アルビオンのベンチはと言えば、これはさすがに意表を突かれた。誰ひとり、もちろん監督の水原もここで向井が登板することは想定していなかった。
「これは驚いたな。まさかここでエースのご登場とは」
いくら優勝がかかっているとはいえ、日本プロ野球を代表するほどのピッチャーを先発させた翌日にリリーフで起用するとは、さしもの水原も想定外だった。それこそこれは昭和の時代の投手起用だ。
彼には三原がこんな選手起用をすると想像すらできなかった。彼の知っている三原は、こういうことをする監督と真逆の存在だったはずなのだから。
「うそだろ……ここで向井さんが投げんの?」
北野もまた、この場面で向井が投げるとは思っていなかった1人だ。
グラウンドに目をやると、外野フェンスにあるブルペンへの出入り口から向井がゆっくりと1歩1歩踏みしめるようにマウンドへと歩んでいるところだった。
本来この球場ではブルペンカーがマウンドまでリリーフピッチャーを運ぶのだが、彼はあえてそうせず、自らの足で歩いてマウンドへと向かって行く。もちろんそうすることによる効果を計算した上でだ。
その姿が醸し出す圧倒的な存在感、絶対的な信頼感、無限の期待感。
まるで優れた美しい絵画のような向井の立ち居振る舞いに、北野は鳥肌が立つほどの感動すら覚えた。
(これが向井さんか……これがエースか……スゲえ……)
もうすでに球場の空気は完全に一変していた。
つい先ほどまで自分達が愛するチームの窮地に悲鳴を上げ諦めかけていたファン達は、今では向井なら必ずこのピンチを抑えてくれると信じて、力の限り声援を送っている。
向井拓海という男はこういう場面でほぼ例外なくファンの願いに応えてきた。
だからこそ彼は絶対的な信頼を得ているのだ。
(これは、まだまだ0対0のままかもな)
延長もあり得るぞ、と北野はすぐに覚悟を決めた。スタミナに不安はあるが、もはやそんなことを言ってはいられないし、自分がバテてもリリーフ陣がキッチリ抑えてくれるだろう。こうなったら全力で行けるところまで行くだけだ。
(望むところだ。誰が相手でも投げ勝つだけの話じゃんか。何イニングだろうと投げ抜いてやる)
向井がどうしてこの場面で出て来たのかはわからないが、少なくとも北野の闘志をさらに奮い立たせるには十分なほどの燃料投下ではあった。
このまま投げ続けるのか、それとも次のイニングからまた誰かに交代するのか。どんな展開になろうとも決して勝ちを譲りはしない。ただ、できることならこのまま向井に投げ続けて欲しい。そうも思った。
「日下部、北野を挑発していた割には先にバテやがって。だらしねえぞ」
マウンドで日下部からボールを受け取った向井は、からかうような口調でそう言った。
「あれ、やだなぁ。見てたんですか?」
「ああ。ベンチ裏のモニターでバッチリな」
「自分自身に気合を入れる意味もあってやったんですけどね。先に降板するんじゃ、とんだ赤っ恥でした」
もっと力をつけます。と言って日下部はベンチへと下がっていった。赤っ恥でしたと自虐した日下部だったが、降板する彼に観客たちは温かい声援と拍手を送った。
マウンド上では、三原監督とシーサーペンツの内野手たちが向井を中心に輪を作っていた。
「向井、さっき言ったことを忘れてはいないだろうな」
そう問いかける三原に対し、向井は「当たり前でしょう」とだけ答えた。
「だったらもう何も言わん。無失点で抑えろ! 以上だ」
それだけ言って三原はベンチへと戻っていく。
野手たちが向井との短い会話を終えそれぞれのポジションへと散って行くと、向井は入念にマウンドを均し足元を整えた。
彼の置かれている状況は極めて悪い。1点勝負と目される中での1アウト満塁という状況は、アルビオン側にとっては絶好の得点機だが、シーサーペンツ側からすれば絶体絶命のピンチでしかない。
普段の試合であれば、ここは1失点しても仕方がないと割り切る場面かもしれない。長いペナントレースの中の1試合という状況ならばそれでもいい。
しかし今はそれではダメなのだ。
なにしろこの試合には優勝がかかっている。仮に内野ゴロに打ち取っても、ダブルプレーを取るのに失敗すれば失点するし、外野フライを打たれても1点を失う可能性が高い。そもそもボテボテのゴロでも浅いフライでも、前に飛ばされればエラーということも考えられる。
野手のプレッシャーまで考慮するならば、この場面で最善なのは2者連続三振で抑えることだ。
(なぁに、こんな場面は今まで腐るほどくぐり抜けて来てるんだ。こんなもの、ピンチでも何でもないさ)
長いプロ生活で数え切れないほどの修羅場を経験してきた男は、その度胸の据わり具合も違う。向井はこの大ピンチに際して、動揺もしていなければ緊張もしていなかった。むしろ自分なら当然抑えられると信じて疑わなかった。
主審がプレイ再開を宣告すると、向井はおもむろにキャッチャーのサインを覗き込み、出されたサインにいきなり首を振った。
(えっ? 向井さん、マジっすか?)
驚いたキャッチャーが次に出したサインにも向井は首を振り、そして出された3度目のサインでようやく頷いた。最初からそのサインを出せよと呟きながら。
向井はセットポジションに入ると3塁ランナーを鋭い眼光で制した。まるで「余計なことをするなよ」とでも言いたげなその目力にランナーは気圧されたのか、通常以上のリードを取ってプレッシャーを与えようとはしなかった。
いや、けん制球で刺される予感がして、怖くてできなかったのだ。
向井が全力で投げ込んだ初球。それは唸りをあげるという形容詞こそがふさわしい、素晴らしい炎のストレートだった。
「ストライーク!」
主審のコールが球場内に響き渡り、観客はまた歓声を上げた。バッターは硬直したかのように手も足も出せず、見送ることしかできなかった。
(なんだよこの人。昨日の試合で投げた影響とか残ってないのかよ。このコースにこんなストレート、打てねぇよ)
バッターが内心で思わずそう愚痴る。
3球目で早くも1ボール2ストライクとバッターを追い込んだ向井が、4球目に投げたのはスライダーだった。
向井拓海といえばスライダーと言われるほどの切り札。伝家の宝刀。彼はこれで三振を奪うつもりだった。実際奪えるだけの球だ。
だがバッターの方もこのチャンスで簡単に凡退するわけにはいかない。必死に喰らいついて何とかファールにした。
(北野に、打って勝たせてやるって約束したからな。何が何でも喰らいついて打ってやる)
5球目もファール、6球目もファール、7球目はボールと判定されてカウントは2ボール2ストライクの平行カウント。一転してピッチャーとしては追い込まれつつある展開となった。
(なかなか粘るな。もう順位は確定してるのに、コイツらなんでそんなに気合入ってるんだ?)
キャッチャーからの返球を受けながら、向井はそんなことを考えた。アルビオン的にはこの試合に大きな意味は無いはずなのに、なのにどうしてこれほどの粘りを見せるのか。
(何度も対戦してきたけど、今までで一番気合入ってないか?)
フォアボールを出したら押し出しで失点してしまう。もう1球外してフルカウントにしてしまうとその押し出しが頭にちらついてくるので、できれば次で仕留めてしまいたい。それが普通の思考だろう。
「ふぅ」
向井は1度プレートを外して深呼吸をし、あらためてプレートを踏んでキャッチャーとサインの交換を行った。




