動き出す試合
北野の快投で序盤はテンポ良く進んだ試合だったが、打順が一巡した4回からシーサーペンツ打線が執拗な粘りを見せ始めたことで、そしてアルビオン打線がなんとか北野に初勝利をと食い下がっていたために、一転して時間のかかる試合へと変わっていた。
時計は20時をまもなく回ろうとしている。
7回の表、ついに福岡アルビオンがチャンスを掴む。
「よおっしゃ!」
1塁上でアルビオンの先頭バッターがガッツポーズで気合を見せる。
まず先頭バッターの彼がヒットで出たことで、この試合は1点勝負になると睨んでいた水原監督は、当然のように次打者に送りバントを指示。これをキッチリ次打者が決めて、これで1アウト2塁となった。
続くバッターは粘った末サードゴロに討ち取られた。
と誰もが思ったところでまさかのエラー。これで1アウト1塁3塁。
「日下部! 頼む! 抑えてくれぇ!」
「日下部ぇ! 踏ん張れぁ!」
観客たちの悲痛にも思える応援が球場内にこだまする。
今日の北野の調子を考えると、ここでの失点は試合の行方を決定しかねないと誰もが考えていた。
既に順位が確定しているアルビオンと違い、シーサーペンツはこの試合にリーグ優勝がかかっている。仮に負けてもアウローラが同じく負ければ優勝は決まるが、本拠地で行われる今シーズン最後の試合で優勝がかかっているのだから、勝利で優勝を飾りたい気持ちはベンチも当然強いし、もちろんそれはファンも同様だ。
負けて優勝よりも勝って優勝するところを見たいに決まっている。
ましてや相手のピッチャーは昨年まで同チームだった北野であり、しかもパーフェクトゲーム続行中というオマケ付きときている。本拠地の最終戦で元所属ピッチャーにパーフェクトを達成された上に優勝を逃したというのでは悔し過ぎる。
ファン同様、ベンチの三原監督の脳裏にも瞬時に様々な思考が駆け巡っていた。
突然ベンチ内に設置されているブルペンとの直通電話がけたたましく鳴った。
「監督、ブルペンから向井が投げさせてくれと言ってきてますが」
電話を取った若生コーチがそう言った。
電話をかけてきたのは向井拓海だった。彼はベンチに直接登板を直訴してきたのだ。
「監督! 向井が監督と直接話したいので代わってくれと言っていますが」
三原は若生から手渡された受話器を手に取った。
「向井、なんでオマエさんがブルペンにいるんだ。そんな指示をした覚えはないぞ」
優勝のかかった最終戦だから投手陣の士気を上げる為にベンチ入りさせただけで、三原の頭の中にこの試合における向井の登板というオプションは無い。だから肩を作るよう指示するわけがない。
にも関わらず向井は勝手にブルペンで準備をしていた。ブルペンの枠が余っていたとはいえ、こうした行為は選手として許されざることだ。
「なにを言ってるんですか監督。今日の北野のデキなら、1点で勝負が決まっちまうのがわからないわけじゃないでしょう? 俺たちが優勝するのを見にきてくれているファンに、このまま無様な負けを見せるつもりですか?」
「そんなことは言われんでもわかっとる。だがオマエさんは昨日先発している。ベンチ入りさせたのは、あくまで投手陣の精神的な影響を考慮したからで、投げさせるつもりはハナからないぞ。あったとしても最後の最後だ」
「投げさせるつもりが有ろうが無かろうが関係ない。俺が投げたいんですよ。北野と投げ合って勝ちたいんです」
「そんな個人の感情を試合に持ち込ますわけにはいかん」
「じゃあパーフェクト喰らって負けても良いんですか? 本拠地での最終戦に集まったウチのファンにそんな恥ずかしいモノを見せるつもりですか? 1点でも取られたら間違いなくそうなります。しかも優勝を逃すところまで見せる羽目になりかねない。それでもいいんですか?」
三原は言葉に詰まった。
向井を特別扱いするわけにはいかないし彼の個人的な感情を優先するわけにはいかない。そして昨日先発して何イニングも投げているエースを連投させるなんて、そんな前時代的なことはプロの監督としては許されざることだ。もしそれで向井が故障でもしたらどうするのか。投げさせるとしても最後の1人ぐらいだろう。監督としてそれが一番正しい判断なのだ。
しかし、そう思うと同時に別の感情が彼の中で湧き上がってきた。
(だが1人の野球ファンとしてはどうだろう。この場面で向井が投げるところを見たくはないか?)
答えはイエスだ。そんなもの見たいに決まっている。そう考えた時、今この球場にいるファンの多くは自分と同じ気持ちなのではないかと思えた。
ファンは向井の登板を期待しているのではないか、登板してこのピンチを颯爽と切り抜け、そして勝つところを見たいのではないか。
プロ野球をエンターテインメントとして見た場合、それは当然アリだ。多くのファンが望むモノを可能な限り提供するのもプロ野球の監督が求まられるモノの1つなのだから。
アマチュアと違い、プロ野球は勝つこと『だけ』が目的ではない。観に来たファンを楽しませ満足させなければプロ野球の監督としてファンからの支持は得られない。
(こちらから投げろとは言えないが、向井が投げたいと直訴しているのなら……いやしかし、いくら優勝がかかっているとはいえ、そんな無理をさせてしまっていいのだろうか……確かにファンは見たいだろう。いや、ここはしかし万一を考えて他のピッチャーに任せるべきでは……だがこの場面を無失点で切り抜けるられるのは……)
三原がそう逡巡している間にマウンド上の日下部はフォアボールを与えてしまい、これで1アウト満塁となってしまった。三原は決断が鈍ったことを後悔したが既に遅い。
「ほら監督。1アウト満塁になっちまいましたよ。監督! ここが決断のしどころですよ! 俺に投げさせてください!」
「しかしオマエは昨日先発しているし……」
「監督! 今この場面を無失点で切り抜けたいんなら俺に任せてください! 俺なら抑えてみせる。1点もやりはしない!」
それは聞きようによっては増長であり他のピッチャーをバカにした発言だ。他のピッチャーでは抑えられない、それができるのは自分だけ。そんなセリフを吐くようなピッチャーを三原は好まない。たとえそれが絶対的なエースであっても。
(とは言うものの……)
しかし現実問題としてこの場面を無失点で締めくくれるピッチャーは、言い方を変えれば「彼が投げて失点したなら仕方ない」と誰もが納得できるピッチャーは向井しかいないだろう。
もっとも全球団を見回しても、この場面を無失点で切り抜ける期待ができるピッチャーなど片手の指ほどの数もいないだろうが。
優勝したいのは三原とて同じ。よし、ならばこの場面は向井に総てを賭けよう。三原はようやくそう腹を括った。
「……そこまで言うからには無失点で切り抜けろよ。失敗は許さんぞ」
「誰に向かって言ってるんですか。俺が投げれば当然そうなるでしょうよ」
意を決した三原監督がベンチから姿を現すとスタンドがどよめいた。コーチではなく監督が出て来たということはピッチャーを交代するということだからだ。
ファンの関心は次に誰が投げるかだったが、そのファンの誰もがここで1点でも失ったら負けると予感し始めている。しかも下手をすればパーフェクトゲームを達成されて負けるのだ。
置かれている状況は1アウト満塁と極めて劣勢であり、この場面を無失点で切り抜けられるピッチャーは彼らの愛するチームにはおそらく1人しかいない。そう、エースである向井拓海だ。
しかし同時にファンたちは、彼がこの場面で投げるわけはないだろうとも思っていた。なにしろ彼は昨日先発して勝っているのだ。ベンチにこそ入っているものの、常識的に考えてどんな場面だろうが登板することはまず有り得ない。あるとすれば試合がもつれてベンチ入りしているピッチャーの残りが向井だけになった時だけだろう。
(向井が投げられればなぁ……)
ファンの誰もが同じ思いだったが、その彼が昨日勝ってくれたから今日も優勝のかかった試合を出来ているのだ。たらればを言っても仕方がない。
誰もが、ここでもし失点したら今日の北野相手に挽回するのは難しいだろうと感じている。負けるかもし得ないという不安が多くのファンの脳裏をよぎり、諦めムードが球場に漂い始めてきそうだった、その時だった。
「シーサーペンツ、ピッチャーの交代をお知らせ致します。ピッチャー日下部に代わりまして向井。ピッチャー向井拓海、背番号18」
その瞬間、スタンドのどよめきは一瞬にして大歓声へと切り替わった。
まさかと絶句する者、興奮して叫ぶ者、立ち上がって向井に拍手を送る者、タオルマフラーを振り回しながら声を振り絞って声援を送る者、感激のあまり涙ぐむ者すらいる。
ファンのそれぞれが、それぞれの思いをそれぞれの形で表現し、もはや隣席同士の会話すら成立しないほどの大歓声が巻き起こり、球場内の盛り上がりは最高潮に達した。諦め半分などとんでもない。向井がリリーフするのなら期待以外ない。
「もしこれで向井が打たれて負けるんだったら諦めもつくよな」
あるファンの一言、それが総てだった。




