もう一人の漢
5回表。アルビオンの攻撃。
先頭打者がセンター前ヒットで出塁した。続く打者がファーストゴロで進塁打。1死2塁。
シーサーペンツの先発である日下部は、マウンドの上で静かに息を整えた。
ここまで5回を投げて被安打2、失点1。決して悪い内容ではない。だが正直に言えば、今日の自分のピッチングは本来の出来ではなかった。
なぜかはわかっている。向こうのマウンドに立っている男のせいだ。
(北野くん、キミが今日あんなスゴいピッチングをするから、俺まで余計な力が入るんだよ)
5回を終えて北野は被安打0。付け入るスキを見せない完全試合を続けている。
それがわかっているから、1点も渡せないという意識が強くなりすぎて、本来のリズムで投げられていない部分があった。が、優勝がかかっている試合なのだから、それは当然のことだろう。
次の打者は今日3打席全てで粘ってきている。しぶとい男だ。
日下部は気持ちを切り替えた。
ストレート、スライダー、ストレート。フルカウントまで持ち込まれた。
スタンドがどよめく。1死2塁でのフルカウント。
日下部は深く息を吸い込んだ。
そして渾身のストレートを外角低めに投じた。
打者のバットが空を切った。三振だ。
スタンドのシーサーペンツファンから、ウオオオオ、と大歓声が上がる。
だが日下部は気を抜かなかった。まだ2死2塁、続く打者は今日当たっている5番だ。ヒット1本で先制点を許しかねない状況なことに変わりはない。
初球、左打席に立つ彼に対してインコースのストレートで詰まらせてファール。
2球目、アウトコースのスライダー。これも見逃してストライク。
ノーボールツーストライクに追い込んだ。
バッテリーはここで意表をついた。
日下部の投じたのはチェンジアップ。ほとんど投げることのない球種だ。
打者のバットが遅れた。しかし辛うじてバットに当たってしまった。打球はサードとショートの間を抜けていく。
2アウトなので、打者が打った習慣に2塁ランナーが走っている。
(やられた!)
日下部がそう思った瞬間、打球に対して猛然とダッシュしてきたレフトは、捕球から送球までを流れるようにこなし、まさにレーザービームのような送球をホームで待つキャッチャーへと投じた。
バックホームした送球がキャッチャーのミットに収まる。タッチに行く。ランナーはそのタッチを懸命にかわそうとスライディングをする。ホームベース上に土煙があがった。
「アウトォ!」
審判のコールが夜空にこだました。三塁ランナーはタッチアウト。間一髪の絶妙なタイミングだった。もしレフトの送球が少しでも逸れていたらセーフだっただろう。アルビオンのベンチからは悲鳴が上がり、シーサーペンツのベンチからは歓声が上がる。
ピンチの逃れたスタンドのシーサーペンツファンから大歓声が沸き上がる。
日下部はゆっくりとマウンドを降りた。チームメイトたちが声をかけてくる。ベンチへと歩きながら、日下部はふとアルビオンのベンチへ視線を向けた。
そこに北野がいた。
次のイニングの登板に向けてベンチで静かに集中している北野と、日下部の目が合った。
次の瞬間、日下部はニヤリと笑った。
そして人差し指を北野に向けて、真っすぐに差し向けた。
挑発だった。
だが、それだけではない。その目には挑発の色だけでなく、どこか楽しげな光が宿っていた。まるで「お前と投げ合えて楽しいぞ」と言っているかのように。
向井が見抜いていた通り、日下部は確かに北野をライバルとして純粋に認めていた。春香にちょっかいを出した時の計算高さとは全く別の顔がそこにあった。
球場のあちこちからどよめきが起きた。日下部の行為に気づいた観客たちがざわついているのだ。
アルビオンのベンチの中でもどよめきが起きた。
「おい、今のアイツ……」
「あれ、たぶん北野を指さしやがったな」
「完全に挑発じゃないか」
チームメイトたちが声を上げる中、神谷だけは黙って北野の顔を見ていた。
北野はどんな顔をしているか。怒っているか。それとも動じていないか。
神谷が見た北野の表情は、怒りでも動揺でもなかった。
北野はただ静かに、しかしはっきりと、日下部の目を見返していた。そしてゆっくりと、口角を上げた。
笑っていた。
「……なあ北野」
「ん? なんだよ」
「今の、見てたか?」
「見てたよ。見てないわけないだろ」
「日下部さんに指さされたぞ。どうする?」
北野は少しだけ間を置いてから、静かに言った。
「最高じゃないか」
「最高?」
「ああ。日下部さんも本気で来てるってことだろ。しかもあの顔は楽しんでるだろ」
「……それのどこが最高なんだよ」
「だってそうだろ。本気のヤツと、楽しみながら投げ合えるんだぞ。これ以上の舞台があるか?」
神谷はその言葉を聞いて、思わず笑った。
「向井さんってさ、エース同士の投げ合いが大好きなんだってさ」
「ああ、まあ、有名な話だよな」
「俺、いま初めてその気持ちがわかったよ」
向井はそうやって今の地位を築いたのだ。球界の大エースへと昇りつめたのだ。その想いが、気持ちが、今ならよくわかる。北野はそう思った。
チームメイトたちはまだ日下部の挑発について騒いでいたが、北野だけはまるで最初からまるで動じていなかった。
(コイツ……)
神谷は内心で唸った。
あの挑発を受けて怒らないのではない。受け止めた上で、自分の中でそれを闘志と喜びに変えている。それが北野翔という男だということを、神谷は今日改めて思い知った。
中学時代からバッテリーを組んできたのに、こいつはまだ自分の知らない顔を次々と見せてくれる。
(ますます勝たせてやりたくなったじゃないか)
神谷は心の中でそう呟いた。




