幻のパーフェクター
1回、2回、3回と北野は最高のピッチングを披露した。3イニングで7奪三振。内野ゴロ1つ、内野フライ1つ。打者9人を完璧に抑え、まだファールですら外野にボールが飛んでいない状態は無双状態と言っていいだろう。
非の打ち所がない素晴らし過ぎる立ち上がりであり、そしてこれこそファンが待ち望んでいた彼本来のピッチングだ。
「いかんな、これは」
3回を終えたところで、シーサーペンツの三原監督はそう呟いた。
(初回のピッチングを見て厳しいゲームになるのは覚悟したが、まさかこれほどとは……)
予想していたとはいえ、自チームのバッター達は北野のチェンジアップに完全に翻弄されていた。
「なんだあの球。凄い勢いでブレーキかかって一瞬止まったかと思ったら、いきなり曲がりながら落ちたぞ。あんなの見たことねえよ。どこをどう捉えりゃいいんだよ」
初回、空振りの三振に討ち取られた3番の上条は、ベンチに戻るなり半ば呆れたような口調でそうこぼした。
「以前と全然違う……アイツ、こんな凄い球を投げるピッチャーになってたのか……」
2回の裏に同じく空振りの三振に討ち取られた4番バッターの小松は、打ち取られた後そう絶句してマウンドを見つめた。彼のバットはボールからかなり離れたところで振られていた。
「打てるかよ、あんなもん! 当てるので精一杯だよ! むしろよく当てたって自分を褒めたいくらいだぜ!」
ボテボテの内野ゴロに討ち取られた5番の北条はそう吐き捨て、お手上げのポーズをした。
3人とも最後は北野のウイニングショットであるパラシュートチェンジで打ち取られている。
(ストレートが物凄くノビてる上にあのチェンジアップ、そこにスローカーブで緩急を巧みにつけている。しかもコントロールが良いときた。神谷のリードも北野に合っているんだろう。これはちょっとやそっとじゃ打ち崩せそうにないな)
選手たちの話を聞きながら三原監督は頭を悩ませた。パラシュートチェンジは彼の予想以上にやっかいな球だった。しかも今日は神谷のリードが味方についているらしい。
みんな頭ではわかっているのだ。だが、それでも身体が反応してしまう。
彼らは北野の投げる球を初めて見るわけではない。数多くとは言えないものの、紅白戦などで何度も実際にバッターボックスで見てはいる。
だがやはり本番とは違うからなのか、それとも北野がより一層成長したからなのか、とにかく今マウンドに立っている男はシーサーペンツの選手たちが知っている男ではなかった。
北野翔は彼らが知っている以上の球を投げる、恐るべき敵に成長していた。
だが同時にこのピッチングが彼らの闘争心に火を点けたのも確かだった。
なにより彼らのプライドがそんなことを許しはしない。
(まだプロで1勝もしていない男に軽くひねられたりしたら恥だろうがよ)
(このままじゃ俺ら自身の実力を疑われかねないぞ)
(優勝がかかってる試合なんだ。恥ずかしい試合ができるわけない!)
だいたいこの試合はリーグ優勝がかかっている大事な試合なのだ。ファンのためにも自分たち自身のためにも、そう簡単に白旗を揚げるわけにいくものか。
「たしかに厄介な相手だが、我々はリーグ優勝をかけてこの試合を戦っているんだ。ファンはみんなシーサーペンツが優勝するところを見に来ている。プロならファンの期待に応えてみせろ。なにがなんでも北野を打ち崩すんだ」
三原の檄に選手たち全員が力強くうなづく。プロとしてのプライドを賭けて、彼らの闘争心に火が付いた瞬間だった。すでに心が折れている者などベンチ内にはただの1人もいない。
打順が一巡した4回の攻撃から、シーサーペンツのバッター達は本気で北野を打ち崩しにかかり始めた。
際どいコースをカットでファールにして球数を増やそうとしたり、バントの構えをしたりと様々な方法で北野に揺さぶりをかけようと試み始めた。
――今日の北野の調子から考えて、普通に打っていてはとても攻略できそうにない。
誰もがそう感じていた。
そこから出た結論が、おそらくまだスタミナに不安があるであろう北野に対する待球作戦だ。
とにかく粘って粘って1球でも多く投げさせる。それが試合の後半になって必ず効いてくると信じて。
4回。この回の先頭打者だった1番の南条は、初球のストレートからいきなりセーフティーバントを試みた。
(まともに振らせてもらえないなら、バントで当てにいくまでだ)
本人は上手く捉えたと思ったが、しかしこれはファールになってしまった。
彼は2球目もセーフティーバントを狙ったが、ここで来たのはパラシュートチェンジだった。南条が完全にバントヒットを狙いに来ていることを確信したキャッチャー神谷のリードだ。
南条はこの2球目を空振りした。当てることさえ出来なかったわけだ。
「ふざけんなよ! バントすら出来ないって、あのチェンジアップは何なんだよ!!」
彼は悔しさのあまり、思わずそう口にしてしまった。もちろんそれは周囲に聞かれてしまっている。こんな自分はお手上げだと白状しているようなセリフを聞かれて、自分自身にプラスなど全くないのに、それでも彼は言ってしまった。
確かにセーフティーバントは送りバントよりも成功する確率は低いが、しかしそれでもあくまでバントなのだからヒットを狙ってバットを振るよりも少なくともバットに当てられる確率は遥かに高い。
(なのに俺はそれが出来なかった。こんな悔しいことがあるかよ。ちくしょう!)
プロとしてのプライドを著しく傷つけられた南条は、こうなったら意地でもバントで塁に出てやると心に決めた。バントをしにいって当てることすらできないなんて、彼にとって恥以外の何物でもない。
野球のルールでは2ストライクからバントを失敗するとアウトになる。
これは普通に打つよりもバットに当てるのが容易なバントで2ストライク後もファールするのを認めると、フォアボールになるのを待つため、あるいは投手を疲れさせるためにバントで延々とファウルを打ち続けるという戦法が出てくるからだ。
それを許してしまうと野球というスポーツの面白さが損なわれるためのルールなのだが、しかしだからこそ裏をかく意味で3バントを狙うことも当然ある。
(マウンドからでもわかるな。南条さん、相当アツくなってるぞ)
これは3バントもあるな、と北野は直感的に思った。神谷のサインはパラシュートチェンジ。
どうやら同じ考えらしい。
(今日の北野が投げるパラシュートチェンジは、バントでもまともに当てられないよ)
2人の狙い通り、 南条はやはりキチンとバットに当てることが出来ず、スリーバント失敗でアウトを宣告された。
カツッと音を残した打球は、ファールゾーンへと転々と転がっていった。南条は揺れながら落ちるボールを、バントするつもりなのにキチンと捉えることが出来なかったのだ。
「ちくしょう!」
南条は自身の不甲斐なさに対する怒り、そして北野の投げる得体の知れないチェンジアップに対する憤りで思わずバットを叩きつけた。選手は誰もが道具を大切にするが、彼は怒りと憤りのあまり思わずそうしてしまった。
南条は1番バッターとして長らく活躍している。今までにセーフティーバントも送りバントも数多く決めている。彼自身バントは全く苦手としておらず、むしろ得意といってもよかった。
その彼がバントをしに行ってまともに当てる事すら出来ずにスリーバント失敗でアウト。こんなことはプロになって初めての経験だった。バントに自信を持っていただけに悔しさもひとしおだった。
「幻のパーフェクターか……」
南条がバント失敗でアウトになった時、シーサーペンツのベンチ内で若生投手コーチがポツリと呟いた。若生は今年から1軍の投手コーチに就任している。
「ん? 何か言ったか?」
若生の隣りにいた三原監督がそう聞き返した。
「あ、いえね、アルビオンのファンの一部が、北野にそんなあだ名を付けてるらしいんですよ。幻のパーフェクターってね」
「幻のパーフェクター?」
「ええ。パーフェクターっていうのは完全試合、パーフェクトゲームを達成したピッチャーという意味らしくて、もし北野が故障していなければ今シーズン間違いなく完全試合を達成していただろうって意味らしいんですよ」
「なるほど。随分ファンから評価されているんだな、アイツは」
「それほど春先のオープン戦での北野は衝撃的でしたからね。ファンの気持ちも私はわかりますよ」
それは三原も同感だった。彼も北野を高く評価していた。北野が人的補償で移籍する羽目になった時にフロント対して猛抗議したほどに。
(幻のパーフェクターか……幻ならいいが、もしかしたら……そもそもが今日はまだ今シーズンのうちじゃないか)
それは指揮官としては絶対に口にしてはいけないことだ。しかし今日の北野の手のつけられない快刀乱麻のピッチングを見ると、三原の懸念は現実味を帯びていくばかりだった。




