憧れたマウンド
総ての準備を整え終えた北野は、一度ベンチへと戻った。
スコアボードの時計を見ると、時間は17時50分を示している。
あと10分ほどで試合が始まり、そしてほぼ同時にすぐそばにある新横浜アリーナで春香のライブが始まるはずだ。3時間くらい後には試合もライブも終わっているだろうか。
(お互い最高の結果になればいいな)
いや、絶対そうなるさ。絶対に勝ってやる、そしてその姿を、真鍋にも春香にも見てもらいたい。ベンチに腰を下ろした北野は、自分の両手で両頬を1発パーンと叩いて気合を入れた。
「気合入ってんなぁ、北野」
それを見た神谷が隣りに腰掛けながらそう声をかけた。
「ああ、入ってるよ。今日は絶対に勝ちたい。何がなんでも、石にかじりついてでもプロ初勝利を決めたいんだ。絶対にな」
「……カノジョに負けちゃいらんねえもんな」
「へっ?」
背後から聞こえたそれは、神谷ではなく違う人間の声だった。神谷以外の人物が「カノジョに負けちゃいらんねえもんな」と言ったのだ。
誰が言ったのかと慌てて北野が周囲を見回すと、ベンチ内の選手たちがみんな自分のことを見ながらニヤニヤ笑っていた。
「聞いたぞ。今日は近くのアリーナで、オマエのカノジョがライブをやってるらしいじゃないか。オマエのカノジョって芸能人だったんだな」
「なっ!」
「カノジョがライブを成功させて自分が試合に負けたんじゃ、男としてカッコつかないもんな。わかるぜ、その気持ち」
「んなっ!!」
「まあなぁ、男なら誰だって女にはイイとこ見せたいもんな」
口々に選手たちがからかうのを聞きながら、北野は隣りにいる神谷を睨みつけた。犯人は絶対にコイツしかいない。
「オマエ! みんなに話したな!」
ところが神谷は全く悪びれもせず「うん、話したよ」と、拍子抜けするほどアッサリ答えた。
「だってさぁ、別に悪いことでもなんでもねーだろ? それがオマエの原動力になってるなら、それでいいじゃん」
「だからってみんなに話す必要もないだろうがよ!」
「そこはほら、話せばみんな応援する気持ちになって頑張ってくれるかなー、とか思ってさ」
そう言いつつ神谷はすっと視線を逸らした。北野は(こいつホントにいつきさんと似てるわ)と思った。
「まあまあ、神谷の言うことにも一理あるぞ」
「そうそう。コイツが話してくれたからこそ、オレらもますますオマエを絶対勝たせてやろうって気になったんだからさ」
「安心しろ。今日は打ちまくって、スカッとプロ初勝利を決めさせてやっから」
からかい口調だった選手たちはいつの間にか、その表情こそ笑っているままなものの、口にするセリフは北野の背中を後押しするものへと変わっていた。
「なっ!? オレが話したおかげでみんなその気になってくれてんだぜ? みんなが北野を勝たせてやろうって燃えてくれてんだ。話してよかったろう?」
さも自慢げに自らの功績のごとく話すその話しぶりに少しばかりイラッとした北野だったが、周りを見渡すと神谷の言うことはまんざらウソでもないように思えた。
そこにいるのは自分よりも遥かに1軍経験のあるツワモノばかり。頼もしく頼りがいのある男たちばかりだ。
「なあ、北野。みんなオマエがこの場所に戻ってくるためにさ、どれだけ努力を重ねてきたか知ってんだよ」
1人の選手がそう言った。
「そうだぜ。みんなオマエの実力は春キャンプの時点でわかってるんだ」
別の選手がそう言う。
「デビュー戦であんなすげえピッチングして、骨折して長くて辛いリハビリをして、それでもなかなか調子が戻らなくて焦って苦しんでようやくここへ戻ってきたことをさ、チームのみんなが知ってんだよ。そんなオマエがカノジョにイイとこ見せたいって思ってんだから、そりゃあ力を貸してやりたいって思うだろ。だからここは素直にみんなを頼りにしとけって」
神谷はふざけた口調ではなく、真剣な表情でそう言った。少しだけ考え込んだ北野だったが、やがて向き直り同僚たちに頭を下げた。
「みなさん、よろしくお願いします。俺は今日勝ちたい。絶対に勝ちたいんです。打って、点を取って、俺を勝たせてください。お願いします」
選手たちは一斉に「おうっ!!」と返事をし「俺らに任しとけ」「どんどん打たせていいぞ。きっちり守ってやっからな」「力まずいつも通りにいこうぜ」「頑張ろうな」「俺たちがオマエを男にしてやるぜ」などと言って肩や背中を叩きながら口々に北野を励ました。
その言葉ひとつひとつが北野に勇気と力を与えてくれる。春香のそれとは、また違った力を与えてくれる。
1回表、福岡アルビオンは意気込みも空しく、ランナーこそ出したものの無得点で攻撃を終えた。
肩の状態を保つためベンチ前で軽いキャッチボールをしていた北野は、自チームの攻撃が終わると帽子を取ってベンチに向かって軽く一礼し、そのままグラウンドに向かっても軽く一礼してから、ゆっくりした足取りでマウンドへと向かった。
歩きながら帽子を深くキュッとかぶりなおすと、なんだかさらに気持ちが引き締まった気がした。
マウンドに向かう彼の背中を選手たちがグラブで軽く叩き、そして一言声をかけながら各々の守備位置に向かって散っていく。
「福岡アルビオンのピッチャーは北野。ピッチャー北野」
再びウグイス嬢が北野の名を告げた。再び巻き起こる今度はアルビオンファンだけの声援を背中に受けながら、北野はマウンド上に立って観客席をグルリと見回してみた。
内野スタンドも外野スタンドも、ファンの服の色でまるでモザイク模様のようになっている。おそらくここにいる全員の視線が、今この瞬間は自分に向けられているのだろう。
(やっとここに帰ってきたんだ)
初めてこの視線を経験したのは故障した初登板の試合だった。
あの時も今日と同じく凄まじい圧力を感じ、万単位の人間が向ける視線というのはこれほどのものなのかと生まれて初めて実感したのだった。
あれほどの大観衆の中で投げたのはあの時が初めてで、その時の気持ちを、感動を、そして怖さを思い出した。
けれど、だからといって全く不安は無かったし浮き足立つようなこともなかった。
(まぁ、別にどうってことないよな)
今この時、自分と同じように多くの観客から視線を浴びている人物がすぐ近くにいる。春香がいる。それを思うとそれだけで不思議と落ち着くことができた。
彼女は今、ライブを成功させるために全力を尽くしているはずだ。自分だけ負けるわけにはいかない。逃げ出すわけにはいかない。
(約束したんだからな。俺だけ失敗したんじゃ格好つかねえぞ)
北野はもう一度観客席を見回した。不思議なことにもう重圧は全く感じない。今日ここで勝って試合後に堂々と春香に会おう。そして……。
(何万人が見てようが関係ないさ。別に殺されるわけじゃないしな)
自分がキッチリ抑えれば、きっと味方が援護点を取ってくれる。
(今日のみんななら、きっとやってくれるさ)
北野は心の中でそう自分に言い聞かせながら神谷から投げられたボールを受け取り、ゆっくりとじっくりと投球練習を開始した。
1球また1球と投げるたびに自分の集中力が高まり、感覚が研ぎ澄まされていくのがわかる。
さらにもうひとつ気づいたことがある。初めて立ったこの新横浜スタジアムのマウンドのことだ。
(いいな、ここのマウンド。なんだかスゴく投げやすい感じがする)
高さなのか、それとも傾斜なのか、はたまた別の何かの要素からなのかわからないが、北野は今までにない投げやすさをこのマウンドに感じた。
ピッチャーにとってマウンドが合う合わないは重要だ。
合わないマウンドで実力を発揮できないこともあるし、合うマウンドで実力以上のピッチングを披露するケースもある。
どこそこの球場で投げる時の誰それは手に負えないピッチングをする、などといった話は珍しいものでもない。
そして同時に、どこそこの球場で投げる誰それは全然ダメだというケースも当然ある。それがエース級のピッチャーであってもだ。
ストレートの後に変化球を投げてみると、やはり変わらぬ好感触を得ることができた。
(なんかわかんないけど、初登板の時以上な気がする。どこへでも思うまま自由自在に投げられそうだぞ)
彼自身の持つ感覚とジャストフィットするかのようで、もう好投できる予感しかしなかった。
同じ頃、春香はアリーナのステージに立って大勢のファンを前にライブを始めていた。
この日のためにリハーサルを重ねてきた。体調も整えてきた。
そして今この瞬間、北野が念願の1軍初登板初先発をしている。
(ライブが終わって、試合が終わって、そのあと笑顔で会えるようにしなくちゃね)
心も身体も最高の状態で充実している春香だった。




