突然の変更
「春香、今日のリハーサルどうだった?」
浅野小春がそう声をかけてきたのは、リハーサルを終えて控え室に戻った直後のことだった。来週行われる春香の初めてのアリーナライブに、小春と雪乃はサポートメンバーとして参加することになっている。
「んー……良いとは思うんだけど。でも、まだなんか納得いかないところがあって」
春香はタオルで汗を拭いながらそう答えた。
「納得いかないって、どのへんが?」
「ラストの曲なんだけどね。なんだかこう気持ちが乗り切れてない感じがして、お客さんに伝えたいものが全部伝えられてる気がしないの」
相原雪乃が「でも客観的に見てたら全然そんなことなかったですよ?」と言ってくれたが、春香には自分の感覚の方が正直なところだった。
(なんだろう。何が足りないんだろう。やっぱりアレかなぁ……)
3人で話していると、ふいに控室のドアがノックされる。控室に現れたのは春香のマネージャーである田村だった。その手には最終版と書かれたセットリストを持っている。
「田村さん、実はちょっと相談があるんですけど……」
ちょうどいいタイミングだったので、春香は思うところを彼に話してみた。
「えっ!? ラストの曲を変えたい? 今からか?」
「はい」
「うーん、さすがにそれは時間が……」
田村は内心で頭を抱えた。ライブはもう来週だ。今から曲の変更となると、それは傍で思うような簡単なことではないのだ。時間的な猶予もない。
「本気で言っているのか?」
「はい」
「春香、わかってるか? 今からラストを変えるってどれだけ大変なことか。それが本当にできると思うのか?」
「できます」
春香は迷わずそう答えた。
「変えるといってもラストの曲だけだし、私が1人で弾き語りをするので影響は最小限で済むと思うんです。照明もスポットライトを当ててくれるだけでいいですし」
「うーん……」
田村が額に手を当てて天井を見上げた。 どうやら彼女は本当の本気で言っている。それは伝わった。
「それで、変えるとして、何に変えるんだ?」
「実は……」
春香はスマホを取り出して田村に差し出した。
「ちょっと前に完成した曲なんですけど」
それは春香自身が録音した弾き語りの音源だった。プロのスタジオで録ったものではなく、自室で一人ギターを弾きながら歌ったものだったが、春香にはそれで十分だった。
「……わかった。とにかく曲を聴かせてもらうよ」
田村が再生ボタンを押す。小春と雪乃も真剣な面持ちで耳を傾ける。そんな3人を春香は黙って見つめていた。
最初は腕を組んで難しい顔をしていた田村が、やがてその表情を少しずつ変えていった。眉間のシワが消えて、目が細くなって、そして最後には口をわずかに開けたまま動かなくなった。
小春も雪乃も、身じろぎひとつせず動かない。
曲が終わった。
3人はしばらくそのまま黙っていた。春香は何も言わずに待った。
「……これ、いつ書いたんだ」
ようやく田村が口を開く。
「書き始めたのは今年の春ですけど、出来上がったのはつい最近です」
田村はもう一度春香を見た。
(今年の春といえば、北野くんが2度目の骨折で戦線を離れた頃か……)
田村は春香がどんな気持ちであの頃を過ごしていたのか、それは想像に難くない。なにしろ彼女のデビュー曲は北野を励ますために作ったものなのだから。
「この曲、誰かのために書いたのか?」
彼は、あえてそう問いかけてみた。もちろん答えはわかっている。春香は少しだけ頬を赤くしながら正直に答えた。
「……はい」
田村はゆっくりと、だが力強く頷いた。
「出来上がったこの曲を聞いているうちに、なんだか感情移入してしまって」
「まあ、気持ちはわからんでもないけど」
「この曲じゃないとダメな気がするんです。たぶん、ずっとそれが引っかかってたんじゃないかって思うんです。この曲なら私の想いがお客さんにも全部伝わる。だから……」
「小春、雪乃、2人はどう思う? 曲を聴いた感想を正直に教えてくれ」
「正直に……ですか……」
小春の声は震えていた。
「なんて言うんだろう……なんだか上手く言葉にできないです……でも、でもすごく良い曲だと思います」
「雪乃はどうだい? 曲を聴いてみてどう感じた?」
「私は、その、なんだか胸がジーンってしちゃって泣きそうになっちゃって……春香さん、スゴイです」
「わかった。春香、GOだ。ラストはこの曲で行こう」
「本当ですか?」
「ただし条件がある。スタッフへの説明と謝罪は春香、お前が自分でやるんだ。俺も一緒に頭を下げに行くけど、お前の口からみんなに直接説明して、どうして今になって変えなければならないのかをキチンとみんなに納得させろ。それができるか?」
「できます」
「それともうひとつ。この曲を本番までに完璧に仕上げろ。中途半端な状態で発表するくらいなら変えない方がマシだ。それだけの覚悟があるか?」
「あります。もちろんです」
この曲を書き始めた時、北野は2度目の骨折をして戦線を離れ、どうしようもない気持ちを抱えていたはずだ。
書き始めたその夜のことを春香はよく覚えている。泣きながら書いた。北野の身に振りかかった不幸があまりにも理不尽で、悔しくて悲しくて。
(この曲をお客さんに、北野さんに聴かせたい)
もちろん北野がライブには来られるかどうかはわからない。けれど曲に込めた気持ちは必ず届くと春香は思っていた。
田村はもういちど深いため息をついた。今度はさっきとは少し違う、どこか清々しさを含んだため息だった。
「全く、一週間前になってムチャ言いやがって。でもまあ……この曲だったら仕方ないな」
田村はそう言って立ち上がり、「さっさとスタッフのとこに行くぞ」と春香を促した。これからとんでもない大仕事が待っているのだ。無駄にできる時間なんて1秒たりともない。
「ところでさ」
3人での帰り道、小春が少し意地悪そうな笑顔で春香を見た。
「北野さん、1軍に上がったって言ってたよね」
「……うん」
「気になる?」
「……なる」
正直に答えると小春がケラケラと笑った。雪乃も微笑んでいる。
「いつ投げるとか、わからないんですか?」
雪乃がそう尋ねた。
「来週の、シーズン最後のシーサーペンツとの3連戦のどこかで投げるんだって。でもどの試合で投げるかはまだ決まってないみたい」
「決まっていても、外部の人間には洩らせないだろうしね」
「じゃあ、もしかしたら春香さんのライブの日に北野さんが投げる、なんてことも……」
「そうだね。あるかもしれないね。っていうか、私は不思議とそうなるような気がしてるの。なんでだろうね」
「それはやっぱり……運命?」
3人の表情に、柔らかな笑みが浮かぶ。本当にそうなったら、それは小春の言うように運命としか言い表せないかもしれない。
「でも、そうなってもならなくても私は絶対にライブを成功させる。そして、北野さんも絶対に結果を出してくれると信じてるの」
「かっこいいこと言ってるけど、ライブが終わったら絶対球場に駆けつけるつもりでしょ」
小春に見透かされて、春香は少し頬を赤くした。
「……まあ、ライブが終わったら、ね」
「やっぱりね」
3人はひとしきり笑いあった。
「春香の想い。キチンと伝わるといいね」
小春のその一言には、からかいと温かさとが半分ずつ混じっているような気がした。
「届く。きっと届くよ。お客さんにも、北野さんにも。私はそう信じてるもん」
物理的な距離は関係ない。ステージと球場、場所は違ってもお互いが全力を尽くす。それだけで十分だと春香は思っていた。
自宅に戻るなり、春香はすぐにギターを手に取った。一週間で曲を完璧に仕上げると約束したのだから、すぐにでも取り掛からなければいけない。
弦を爪弾くとメロディが静かな部屋に広がっていった。
一週間後、春香は初めてのアリーナで、この曲を歌う。
「もし登板日がライブと違う日だったら、北野さん観に来てくれるかな。一応チケットは送ったけど」
もちろん登板日直前なのだから調整もあるだろうし、同じ場所にはいなくても、心は繋がっていると信じている。
(頑張ろう。それしかないもん)
春香は目を閉じて、もう一度最初から弾き始めた。夜はまだ長かった。




