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誰が悪いわけでもない。
打者の山本は、完全試合を阻止するために全力で1塁ベースへと駆け込んだ。
北野は1塁のベースカバーのために懸命に走った。
1塁手は大ファインプレーを演じたものの、自分が入ったのでは間に合わないと判断してカバーの北野へとボールを投げた。
3人が3人ともに、いま自分がしなければならないことを全力で行っただけだ。
そう、誰が悪いわけでもないのだ。
だが1塁手の送球は、ほんの少しだけファールゾーン側に逸れた。不完全な態勢で投げざるを得なかったので、それも致し方ないだろう。
北野はその球を、身体を思い切り伸ばしてキャッチし、そしてベースを踏んだ。
その次の瞬間、なんとしてでもセーフになろうとした打者走者は猛烈な勢いで、まるでラグビーのタックルのように彼の背後から激しく激突した。
北野の身体が一瞬宙に浮く。
「ぐぁ!!」
押し潰したような叫び声を発しながら、北野は勢いよく叩きつけられるように前方へ倒れこんだが、その時彼は身体を守るため無意識のうちに左手を地面についてしまった。
しかも自分の全体重が左手にかかるような倒れ方で。
「アウト!!」
塁審が打者走者のアウトを宣告した。これで記録はまだ続くこととなったが、誰もが今は全く別のことを心配していた。うつぶせに倒れこんだまま北野が起き上がらないのだ。
その時北野の身体には、激しい痛みが左手首から全身を駆け抜けていた。開いている目に写る風景は、まるで写真のネガフィルムのように暗転して見えた。
(あ、この光景、見覚えがあるわ……)
あれはそうだ。去年足首を骨折した時だ。
(また骨にイッたか……)
北野は痛みを懸命にこらえながらそう思った。だがすぐにもう何も考えられなくなった。時間とともに増す手首の痛みに耐えるのに必死だったからだ。
「タイム!!」
水原監督が慌ててタイムをかけ、投手コーチとトレーナーが脱兎の勢いでマウンドへと駆け出した。
「手首か?」
トレーナーの声に北野は苦しげに頷いた。トレーナーは急いで左手首を見たが、すぐに息を飲み言葉を失った。
「これは……」
北野の左手首はすでに腫れあがっており、彼の経験から骨にまで影響が及んでいることは容易に想像出来た。
「北野。吐き気は? 悪寒はあるか?」
北野が搾り出すような声で「そんな気もします」と答えた時、トレーナーは判断を決めた。間違いなく骨に異常をきたしている。そうでないとしてもとても投げ続けられる状況ではない。
トレーナーは心配げに見守る投手コーチに向かって首を大きく左右に振り、次にベンチに向かって大きく両手でバツ印を出した。この瞬間、完全試合は露と消えた。
悲劇は、あまりにも突然に、そして誰も予想をしていない形で北野の身に降り注いでしまった。
「うあー、ダメかぁー」
「マジかよー」
「えぇー、そんなぁー」
トレーナーがバツ印を出した瞬間、スタジアム中が失望を露にする溜息で包まれた。
この場にいるほとんどの者は、つい今の今まで北野のパーフェクトゲームに期待していたし達成されるだろうと思っていた。
あと1人、あとたった1人で日本プロ野球界、いやおそらく世界初の記録が達成されていたのだ。
なのにこの結末。現実とはなんと非情なのだろうと誰もが思った。
それでも観客たちは、痛みに顔を歪めながらベンチへと消えていく北野の背中に向けて、精一杯の声援と拍手を送った。敵も味方も関係なく、素晴らしいパフォーマンスを見せてくれた北野を称えた。
だがそれは北野の耳には届いていなかった。ベンチ内の誰もが心配そうな表情をしていたが、それも彼の目には見えていなかった。
(やっちまった。またやっちまった……)
完璧なピッチングだったのに……なのにどうして……。
北野は手首の痛みに耐えながら悔しさに唇を噛んだ。あと少し、あともう少しだったのに。
春香がそのニュースを知ったのは仕事帰りの車の中だった。
「えっ!!」
車に乗り込むやいなやスマホでスポーツニュースを見始めた春香だったが、そのニュースを見て思わず声を上げてしまった。その内容は彼女の期待していたものではなかった。
「んっ? どうした春香。何かあったか?」
車を運転していたマネージャーがビックリしてそう尋ねたが、春香は何も答えずそのままニュースを凝視していた。
「そんな……ケガで病院にって……」
てっきり初勝利を上げたものだとばかり思っていた。そのニュースを楽しみにしていたというのに、目に飛び込んで来たのは考えもしていなかったバッドニュースだ。
足首の骨折で昨年後半を棒に振り、心機一転移籍した今シーズンはオープン戦から大活躍して遂にプロ初登板。なのにまたケガだなんて……。
春香は生まれて初めて神様を恨んだ。
(どうして北野さんにばっかり、そんなに試練を与えるの?)
彼が何をしたというのだろう。やり場の無い怒りと悲しみが、彼女の心を暗く厚く覆った。
「春香。おい春香、どうしたんだ? 誰がケガしたって?」
ようやくマネージャーの声に気づいた彼女は、慌てて何があったのかを説明した。
「北野君が? そりゃあ心配だな」
「あの、ちょっと電話してみてもいいですか?」
マネージャーの許しを得て春香は電話をかけてみた。
(時間遅いかな? 病院にいるのかもしれないし、10回鳴らして出なかったらすぐ切ろう)
北野は5回ほどコールをしたところで電話に出た。
「春香さん? どうしたの?」
「どうしたのって、北野さん。私今仕事帰りで、それで車の中でスポーツニュース見てたら北野さんがケガで病院に行ったって書いてあって」
「ああ、そうなんだよね」
「診察結果はどうだったんですか? 大きなケガじゃないんですよね?」
北野はポツリと「左手首を骨折してるって」と答えた。春香の目の前が真っ暗になる。
「また骨折だよ。去年は足で今年は手だって。俺、カルシウム不足なのかな」
「どれくらいかかるんですか。治るのに」
「医者が言うには、骨自体は1ヵ月くらいでくっつくらしいんだ。ただその間はガッチリとギプスで固めちゃうから、それを外してから手首が上手く動くようになるまで、もう1ヶ月は最低かかるんだってさ」
またリハビリだよ、と北野が力なく笑っている様子が、スマホから伝わってきた。
「じゃあ最低2ヶ月はかかるんですね。でもそれだったら夏前には復帰出来そうじゃないですか」
「うーん……でもろくにトレーニングできないからねぇ。それに痛みがなかなかひかないこともあるらしいし、調整して1軍で投げられるようになるのは秋くらいになっちゃうかもね」
「でも、それでも今シーズン中に復帰出来そうじゃないですか」
「上手くいけばね。治りが遅かったり調子が戻らなかったりするかもしれないから、わかんないけどさ」
「そう……なんですか」
自分でもわかるくらいに春香は動揺していた。また骨折して一番ショックを受けているのは本人なのだから、自分が動揺しちゃいけないとわかってはいるのだが、それでも心の乱れを隠し切るのは難しかった。
「もう少しでプロ初勝利だったのに……残念でしたね」
あと1人打ち取れば、完全試合でのプロ初勝利という歴史的な記録を成し遂げるところだっただけに、もう出番は無いと思っていたのだろうリリーフピッチャーは急遽マウンドへ上がることになってしまった。
気持ちの切り替えが上手く出来なかったのか、彼は打たれて同点に追いつかれてしまい、その瞬間北野のプロ初勝利すらも露と消えた。
「仕方ないよ。あんな形でいきなり登板することになったら誰だった動揺するだろうし、リリーフの出来ない俺が責められないし」
「そうですけど……でも、せめて勝って欲しかったです」
「そりゃあそうだけど。でもケガしたのは自分が悪いからね。仕方ないよ」
「そんなこと……別に北野さんは悪くないですよ。ケガなんて不可抗力じゃないですか。そんな自分を責めるようなこと言わないで」
二人の会話はそこでしばらく止まった。やがて北野が口を開く。
「……順番から言えばさ、次は新横浜スタジアムでのシーサーペンツ戦だったんだよね。実は密かに楽しみにしてたんだけど残念だよ」
「そうだったんですか……私、見たかったです。新横浜スタジアムで北野さんが投げるところを……」
時間が時間なので春香は5分ほど話したところで電話を切ったが、気持ちは深く沈んでいた。
考えてみれば利き手を骨折している人間に電話をするなんて非常識だったろうか。どうすればよかったのか、どうしたらいいのか。
車の中で考え込む春香に、マネージャーは何も声をかけなかった。いや、かけられなかった。




