大記録へ
9回の裏、いよいよ大記録達成を賭けて北野はマウンドに上がった。
スコアは0-2とアルビオンが2点リードしている。そしてこの回を3人で終わらせればプロ初勝利を飾ると同時に完全試合の達成だ。
この場にいるほぼ総ての人間は、記録達成をほぼ既定路線と考えていた。ワルキューレのファンですら、もう記録は達成されるものと覚悟を決めるほどに、それほど今日の北野のピッチングは素晴らしかった。
カツンッ、と乾いた音を残して、9回の先頭打者がかろうじてバットに当てた打球は、フラフラと力なく内野に上がった。
セカンドが大きく手を広げて捕球をアピールし、そのままガッチリとボールをグラブに収める。
それは今日の試合で初めての、三振以外でのアウトだった。
「よしっ!」
北野は思わず左こぶしでグラブをパーンと叩いた。
アウトにした瞬間、球場内は地鳴りのような大歓声に包まれた。大記録まであと2人。場内に居る人々のボルテージはますます高まっていく。
(あと2人、あと2人打ち取ればいいんだ。みんな完全試合が気になってるんだろうけど、俺はそんなのどうでもいいし)
完全試合なんてどうでもいい。1点までなら取られたっていい。とにかく勝つこと。今日の目的はそれだけだ。プロ初勝利をあげて、今まで支えてくれて来た人たちの喜ぶ顔が見たい。春香の笑顔が見たい。
(あとたった2人なんだ、絶対打ち取ってやるさ)
北野の感覚はますます冴えわたっていく。負ける気なんてしない。どんなコースでも、どんな球種でも、今なら思うままに投げられる。負ける気なんてするわけがなかった。
――打ち取られるのを恐れて追い込まれるくらいなら、初球から積極的に打ってやる。
アルビオンの次打者である山本は、そう心に決めて打席に入っていた。
ここまでの2打席は、悔しいながらも北野に完璧に抑えられている。
だが、だからといってこの第3打席をハナから諦めるわけにはいかない。
プロ初登板のピッチャーに完全試合を献上することだけは、絶対に避けたかった。
(慎重になってカウントを悪くしたらあのチェンジアップがくる。そうなったらお手上げだ)
それは、今まで打ち取られた全てのバッターが証明している。来るとわかっていても、あのチェンジアップは打てない。身体が反応してしまうのだから。
だったら、たとえこの状況でも初球からストライクが来たら打ちにいく。
(追い込まれたら、もうその時点で負けだ)
自分から仕掛けていかなければダメだ。彼はそう考えていた。
もう試合に負けるのは仕方がない。だがプロ初登板のピッチャーに完全試合を達成されるのだけは避けたかった。そんなのはプロとしてのプライドが許さない。
(1本、たった1本でいいんだ。何としてでもヒットを打つ。完全試合だけはやらせねーぞ)
初球。北野と神谷のバッテリーはストレートから入ってきた。
(外れてる!)
山本はそう思って見送ったが、判定はストライクだった。
(審判まで味方につけちまったのか? ったく、プロ初登板じゃねーのかよ)
こうなると、ストライクかボールか微妙であっても打ちにいかざるを得ない。どうやら全てが北野にとって良い方向に流れているらしい。
(プロ初登板なんだ。このまま完璧な状態のままなわけがない。まして完全試合をやってるんだ。プレッシャーはあるだろう。甘い球は必ずくる。それを絶対に見逃すな)
同じプロなのだ。負けるわけにはいかない。諦めるわけにはいかない。ファンに無様な負け試合を見せるわけにはいかない。
カウントが2ボール1ストライクになった4球目。北野が投げたのはストレートだった。
(やばっ!)
キャッチャーの神谷は心の中で叫んだ。北野が投げた外角へのストレートが、求めたコースよりボールひとつ分甘くストライクゾーンに入った。
それを逃さず積極的に打ちに行った打者山本のバットが一閃し快音を残す。
「あっ!」
その瞬間その場にいた全員が思わずそう言葉を発した。それほどに素晴らしい打球だった。
「抜けた!」
「ヒットだ!」
ワンバウンドした打球は、猛烈な勢いで1塁線を抜けたかに見えた。
だがその瞬間、1塁手が横っ飛びして見事にこれをキャッチ、そのままゴロゴロと回転してファールゾーンへと倒れこんだ。観客席が瞬間的に様々な叫びに包まれる。
「フェア!!」
塁審が大声でインプレーであることを告げる。これをアウトに出来れば1塁手の大ファインプレーだ。
だが打った打者は全速力で1塁へと駆けてくる。それはそうだろう。たとえ内野安打であっても完全試合は阻止出来るのだから。
1塁手は起き上がって自分でベースに入ったのでは間に合わないとすぐに判断した。
ピッチャーの北野はカバーのため、1塁へ向かって全力で駆けている。
1塁手はその北野に向かってボールを投げた。タイミング的にはアウトだと思われた。
その瞬間だった。
「あっ!!!」
再び球場内に観客の叫びが一斉にこだました。




