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キミがいて夢になる  作者: スパイシーライフ


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出された結論

「福岡ね、行こうと思う」

 

 目の前の景色が急速に色を失っていく。

 北野の出した答えは、やはり想像していた通りのものだった。春香は言葉を失い、膝から力がスーッと抜けていき、危うくその場にへたり込むところだった。

 

「まあ、もともと断れるわけでもないからね。普通のトレードと一緒でさ、辞める覚悟がなきゃ断れないんだよ。もう春香さんにもわかるでしょ?」

 

 日本のプロ野球界において選手にトレードを拒否する権利が無いことは、球団と交わす契約書にハッキリと定められている。だから選手は球団と契約を結んだ時点で、トレードに出されることも了承したことになるのだ。

 したがってトレード拒否はいわば契約違反であり、当然ペナルティを課せられることになる。

 

 拒否したうえで元のチームに残った選手の例が無いわけではないし、おそらく選手が拒否したがために破談になったであろうと推察される後日談も有るには有る。

 

 しかしそれらは総て1軍で何年も結果を残し続けていた選手達の話であって。北野クラスの選手であればトレードを拒否したら事実上引退するしか道は無い。

 

 一般企業で辞令に逆らうことが出来ないように、プロ野球の世界ではトレードのような球団同士の取り決めに対して選手が逆らうことは、契約上まず出来ないのだ。

 

 人的補償として選ばれた選手は移籍を拒否した時点で資格停止選手となり、処分が解除されるまで試合に出られないという決まりがある。

 資格停止とは文字通りプロ野球選手としての資格を一時停止されるわけで、球団がこの処分を解除しない限り試合に出ることはできない。拒否した選手の処分解除をするメリットが球団側に無いならば、あるいは後に続く選手が出ないための見せしめとされたならば……残されている道は引退しかない。


(そんな……こんな決まりがあるなんて……これじゃあ絶対に拒否できないじゃない……)

 

 これらの決まりがあると知った時、春香は自分の願いが決してかなえられないものだとハッキリ理解した。

 イヤだけれど、とてもイヤだけれど、だからといって北野の選手生命を奪うようなことを願えるわけがない。


(でも……でも……)

 

 頭で理解しているからといって感情までは抑えられない。

 春香はそれでもやはり「福岡には行かないよ」と言って欲しかった。今まで通り横浜に居るよと、ずっとここに居るよと言って欲しかった。そう言っていつものように笑って欲しかった。

 

 それが無理であることはわかっていても、それでもその願いを捨てることはできない。できるはずがない。そう簡単に割り切れるはずがないのだから。

 

「でも、福岡ですよ?」

 

 自分でも変なことを言ったなと思うが、頭には何も言葉が浮んでこず、咄嗟に口を出てきたのがこのセリフだった。

 

「福岡だと何かマズいことでもあるの?」

「そういうわけじゃないですけど……でも……」

 

 夢なら今すぐに覚めて欲しい。これが夢なのだとしたら間違いなく悪夢だ。こんな悪夢、一刻も早く覚めて欲しい。なのに、この悪夢は覚める気配を全く見せないのだ。


(どうして? どうしてなの?)


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。ケガが治って、順調に回復してきて、来年こそ彼の晴れ姿を1軍のマウンドで見られると思っていたのに……そのマウンドが福岡だなんて、想像すらしていなかった。

 

「球団事務所で話を聞いてさ、早めに返事をしなきゃいけないし、それからずっと考えてたよ。それで思ったんだ。結局さ、俺は28人のプロテクト枠から外された。それが総てなんじゃないかって。それがシーサーペンツの俺に対する評価なんだろうってね」

 

 北野のセリフは、どこか淡々としていた。

 それはもう先を見据えて割り切ったからなのか、それとも自分を納得させようとしているのか、それはわからない。

 ただ春香の頭の中には、もうどうしようもないんだなという絶望感だけがあった。

 

「それは……それはそうかもしれませんけど……でも……」

 

 春香は懸命に言葉を探した。

 何かを言わないと、言わないと、そうしないと総てが終わってしまう気がしたのだけれど、探せば探すほど言葉が見つからない。もどかしいほどに何も言葉が出てこない。


 そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、北野は言葉を続ける。

 

「それにさ、支配下選手枠は70人なのにプロテクトされるのは28人だけでしょ? その他の42人の中から俺を指名してくれたわけじゃん。1軍で投げたことが無いうえにケガ明けの俺をだよ? それって相当高く評価してくれているんじゃないかって思うんだよね」

「それもそうですけど……でも……」

 

 おそらく北野の言っていることは正しい。アルビオンは彼の実力を高く評価しているからこそ指名したに決まっている。

 

 もちろんそんなことはわかっている。

 

 わからないのは、なぜ北野なのかということだ。アルビオンの補強ポイントに合致した選手は北野ではないハズなのに。以前読んだスポーツ紙にはそう書いてあったし、乙倉も他の人たちも口を揃えてそう言っていたのに。なのに……。

 

「それはわかりますけど、でも……でも……」

 

 でも、でも、でも。


 春香はそれしか言えない自分が歯痒かったが、決めるのは北野自身であって彼女ではない。

 その北野が移籍すると言っている以上、もう彼女にそれを止めることなどできるわけもない。そんな権利など自分には無いのだから。

 

 北野はさらに話を続けた。

 

「もともと拒否出来るもんでもないし、問題は俺の気持ちだけだからね。このまま残っても先が見えないなら、ここで心機一転したほうが自分にとっても良いんじゃないかと思うんだ」

 

 何も知らなかった昔なら、きっと北野に対してもっと食い下がれただろう。行かないで欲しいとハッキリ言うことも出来たかもしれない。

 

 だが今の春香にそんな行動は取れなかった。それは彼を困らせるだけだとわかっているからだ。

 シーサーペンツに関わるようになり、プロ野球の世界のことを知った今では、北野がどうしてその答えに至ったのか理解できるだけに何も言えない。

 

 喉元まで出かかっている僅かばかりの言葉ですら、口に出すことは躊躇われた。

 言えばそれはきっと北野の出した答えを、彼の意思を否定することに繋がる。そんなただのワガママを言って北野の気持ちを傷つけたくはない。困らせたくはない。

 

「俺ね、プロ入りした時は何も考えてなかったなぁって今にして思うんだ。育成枠だったし、とにかく早く支配下選手になりたい、ならなきゃってそればっかり考えててさ、プロで何をしたいかとかどんなピッチャーになりたいかとか何も考えてなかった」

「今は……違うんですか?」

 

 北野は、うん、と小さくだがハッキリ強く答えた。

 

「自分の力不足なんだけど、このままシーサーペンツに残ってもこれ以上は望めないのかなって思ってさ。移籍した方がチャンスは多いような気がするんだ」


(そんなことない。そんなことないのに……)

 

 おそらくそんなはずはない。北野本人が考えているよりも、彼はずっとずっとチームから期待されている。春香はそれを三原監督やコーチから直接話を聞いていた。

 だからこのままシーサーペンツに残ってもチャンスが減るなどということはないはずだし、それは本人にも伝わっているはずだ。伝わっているはずなのに……。


 そこで彼女は、ようやく気づいた。

 

(そっか……北野さんは自分を納得させるためにそう言ってるんだ。移籍した方がチャンスが増えるんだって、そう自分に言い聞かせて納得しようとしてるんだ)

 

 春香は諦めるしかなかった。

 もう自分の声は決して北野に届かない。

 彼女が何を言ったところで北野が移籍を翻意することは決してないとハッキリわかったら、悲しくて寂しくてどうしようもなくなった。涙を必死にこらえるのが精一杯だった。

 

「……本当に行っちゃうんですか?」

 

 搾り出すように春香はそう言った。自分でもハッキリわかるほどに声がかすれて震えていた。

 

「うん。そのつもり。明日球団事務所に行って返事してくるよ」

「……どうしてですか?」

 

 春香のその問いかけは、怒りや悲しみや憤りといった色々なものが入り混じった口調だった。

 

「えっ?」

「どうして北野さんなんですか? どうして他の人じゃなくて、北野さんなんですか?」

 

 その問いかけは答えようのないものだ。それはアルビオンの人間にしかわからない。

「アルビオンの補強ポイントはリリーフ陣だって新聞に書いてありました。乙倉さんもそう言ってました。北野さんはリリーフが苦手だってみんな知っているのに、なのにどうして北野さんなんですか?」

「うーん……それは俺にもよくわからないけど、アルビオンの水原監督ってさ、俺が一昨年のフレッシュオールスターで投げた時に敵側の監督だったんだよね。もしかしたらそれが関係あるのかなって想像はしてるんだけど」

「でも、でも、リリーフで実績のある人でプロテクトされていない人もいるじゃないですか。なのにどうして北野さんなんですか?」

 

 北野は、それは俺にもわからないよ、とだけ言って口をつぐんでしまった。

 

「わからない……私にはわかりません。どうして北野さんじゃなきゃいけないんですか。わからない……わからない、よ……」

 

 こんなことを言うつもりじゃない。こんなことを言っちゃいけない。


 ――わかっているのに。


 こんなことを言ったら北野が困るに決まっているとわかっているのに、それでも一度ほとばしり出た感情はもう止められなかった。

 

 さっきまで言いたくても何も言えなかったのに、言わなかったのに、言わずにいられたのに。

 だがひとたびポロリと口を開き始めた今は、もう自分でも感情をコントロールすることが出来なかった。

 

 2人の間に息苦しいほど長い長い沈黙の時間が流れ、やがて春香がポツリと呟いた。

 

「福岡は……福岡は、遠すぎますよ……」

 

 春香はそう言うと、うつむいたまま再び黙ってしまった。

 

 前なんて向けなかった。


 うつむいた彼女の目に映る視界はボヤけている。顔を上げて前を向くときっと涙が流れてしまうだろう。涙だけは見せちゃいけないと春香は思った。もうこれ以上北野を困らせることはしたくなかった。

 

 冷静に考えればそれほど深刻な話ではないのかもしれない。

 いや、きっと深刻ではないのだろう。

 

 今までのように会おうと思えばすぐに会えるという環境ではなくなるが、海外に行くわけでもないのだから休みの日に福岡へ行くことは出来るし、北野が1軍に上がれば横浜やそれ以外の関東圏で投げることもあるだろうから、その時に会うことだって可能だろう。

 

 大昔ならいざ知らず、今は新幹線でも飛行機でもさほど時間をかけずに福岡まで行くことが出来る。まして自分はもう子供ではないのだから、行こうと思えばどこにだって行くことは出来るはずだ。

 ラインだって電話だって出来るのだから連絡は取り合えるし、簡単には会えなくなるということ以外には特に大きく変わることは実は無いのだろう。


(でも違う。そうじゃないの……)

 

 なぜなら春香にとっては、それこそが一番大切な部分なのだ。北野がこの横浜にいるからこそ、何かあったらいつでも会えるのだ。今日のように突然訪れても会うことができるのだ。


 会おうと思えばいつでも会える。それこそが最も重要なことであり、その安心感こそが心のよりどころだったことに彼女は今日初めて気づいた。

 

(今だってなかなか会えなくなっちゃってるのに、福岡と横浜だなんて……もしこれからもっとお仕事が忙しくなったら、そしたらますます会えなくなっちゃうよ……)

 

 それに仕事や休みの日を利用して福岡へ行くとしても、彼女のスケジュールと北野のそれが合う保障など何もない。

 

 お互いのスケジュールを合わせるのは、実際には難しいことだろう。これでは次に会えるのがいつになるのかわかったものではない。


 今までは会えるのが当たり前だったから、そうでなくなった時の喪失感が想像出来ない。想像出来ないから尚更それが怖かった。大切なものが自分の目の前から消えてしまいそうで。


(でも……そんなこと、言えないよ……)

 

 そんなことは口が裂けても言えはしない。自分の感情だけをぶつけるような真似は、もうこれ以上出来ない。

 ただでさえ今もうすでに北野を困らせてしまっている。だから春香は下を向いたままただ黙っていることしかできなかった。


 そんな彼女にかける言葉を見つけられず、北野もまた口をつぐんだまま春香を見つめることしかできなかった。

 

「私、帰ります」

 

 急にそう言うと春香はクルリと北野に背を向けて、そのまま出口の方に向かって駆け出した。不意をつかれた北野は足が前に出ず、ちょっと待ってと言うことしか出来なかった。

 

「えっ!? ちょ、ちょっと待って春香さん! 春香さん!」

 

 呼び止める北野の声に振り向くこともなく、春香は小走りに駆けていく。

 

「春香さん! 春香さんってば!」

 

 北野は追わなかった。


 追えば追いつくことは簡単に出来たろう。

 だがそれでどうするというのか。追いかけて追いついて、それから春香にどんな言葉をかければいいというのか。そう考えたら、足が一歩も前へ進もうとしなかった。

 

「どうしようもないじゃないかよ。どっちみち拒否は出来ないんだから……」

 

 何がすんなり結論が出ただよ、と北野は自分自身に腹立たしさを覚えた。

 

 すんなりなんかじゃない。移籍話が持ち上がってから、ずっとずっと悩んでいた。

 それでもいくら考えても福岡に行くしかなくて、いくつも言い訳を探して無理やり自分を納得させたのだ。

 

 本当は福岡になんか行きたくないけれど、今まで通りここに居たいけれど、でもどうしようもないじゃないかというその気持ちは諦めにも似たものだ。

 それを案外すんなり結論が出たなどと、よくもそんな大ウソをつけたものだ。

 

「春香……」

 

 誰もいなくなった空間を見つめながら、北野はその名を呟いた。

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