暗転
「あっ!!!!!」
その瞬間、その場にいた総ての者が同じように声を上げた。もちろんスタンドで観戦していた春香も、そして周囲の者たちも同様だ。
快音を残した打球はライナーとなって、投げ終わった北野の軸足である左足を襲った。
捕球を試みて反射的に右手のグローブを差し出したが、間に合わなかった。
次の瞬間左足首に衝撃を感じ、すぐに全身を強烈な痛みが駆け抜ける。北野はそのまま崩れ落ちるようにマウンド上で倒れこんだ。
その場にいた誰もが、一瞬我を忘れて硬直した。打者走者はアウトとなったものの、マウンド上で倒れたまま左足首を手で押さえ苦しげにうめく北野は、身動きすることすら出来ない激痛に襲われていた。
痛いなどというレベルを超えており、それはむしろ苦しいという方が的確だった。
「北野さん!!!!」
皆と同じように一瞬固まってしまっていた春香は、我に返ると思わず立ち上がり大声で叫んでいた。悲鳴にも似た叫びだった。
北野はといえば動くことができず、その表情は痛みで苦しそうに歪んでいた。すぐさまタンカが用意され、北野はタンカに乗せられて医務室へと向かった。
「北野さん!! 北野さん!! 北野さん!!」
顔を蒼白にしながら春香はスタンドの最前列に駆け寄り、フェンスの金網にしがみつきながら何度も何度も北野の名を叫んだが、彼がそれに反応することはついになかった。
タンカがベンチ裏に姿を消すと、春香は茫然としたままその場で観客席にストンと腰を落とした。代わりのピッチャーが出てきて試合は再開されたが、彼女の目にはもう試合など映ってはいない。
「春香……」
「春香さん……」
「春香ちゃん……」
乙坂も小春も雪乃もそんな春香の姿を前にして彼女にかける言葉を失っていた。それは彼らも初めて見る春香の姿だった。
ほんのついさっきまで北野の1軍入りを前にして嬉しそうにはしゃいでいた彼女の姿は、もうこの場所のどこにもない。あるのはショックで悄然とし、力なくうなだれる姿だけだ。
「あの、春香……」
どれほどの時間が経ったか。ようやく小春が声をかけたが、春香は返事をしなかった。
「春香さん! 春香さんってば!」
雪乃が声をかけてもダメだった。顔を見合わせて困り果てる2人の姿を見て、今度は乙倉が声をかけた。
「春香ちゃん! 春香ちゃん!」
乙倉はそう声をかけながら、春香の肩を後ろから軽く何度か揺さぶった。それでようやく自分が呼ばれていることに気がついた彼女は、緩慢な動きでゆっくりと後ろを振り向いた。
「……乙倉、さん?」
「大丈夫かい? なんだか顔色が悪いよ?」
「……はい。大丈夫、です……」
そう力なく答える春香の表情からは、生気が全く失われていた。虚ろな目で北野が引き上げたベンチを見つめる彼女の痛々しさを目の当たりにして、3人ともかける言葉を見つけられない。
「とりあえず北野が運ばれた病院に行ってみようか」
乙倉の提案で4人は北野が救急車で運び込まれた病院へと足を運ぶことにした。球団スタッフから場所を聞き出した乙倉は、自分の車に3人を乗せて一路病院へと車を走らせる。
「大丈夫だよ、春香。きっと大したケガじゃないって」
「そうですよ。その時はすっごく痛いけど意外と軽いケガだったとかあるじゃないですか。北野さんもきっとそれですよ」
小春と雪乃は何とか春香を元気づけようと口々に励ましたが、春香の不安げな表情は変わらなかった。
「そうかな……そうだといいけど……」
春香の様子をルームミラーで見ていた乙倉は、自身も同じ気持ちであると同時に(もしかするとマズイかもしれない)とも思っていた。
打球の当たり方といい、あの痛がりようといい、彼の経験則から言えば骨まで影響を受けた可能性が高い。タンカで運ばれたということは自力では歩けないほどの痛みだということだからだ。
病院に着いたものの、北野はまだ診察中だった。春香たちはそのままそこで待つことにした。
待っている間、4人には重苦しい空気がのしかかり、時折一言二言会話をするぐらいだった。北野が心配でひたすら無事を祈っている春香、そして何を話せばいいのかわからない他の3人。会話など成立するわけがない。
どれほどの時間が経っただろう。やがて北野が松葉杖を突きながらロビーへと姿を現した。その姿を見つけた春香は一目散に彼の元へと向かった。他の3人はその場に残り、遠巻きに見つめていた。
「あ、あの……北野さん……いま、大丈夫ですか?」
「ん? ああ、春香さん。来てたんだ。大丈夫だよ」
北野の表情は言葉とは裏腹に冴えなかった。
「痛みは、痛みはどうなんですか? すごく痛みます?」
「あ、いや、今は麻酔が効いてるから……でも麻酔が切れたらどうなんだろうね。一応痛み止めをもらうことになってるんだけど」
「あの……その、それで……お医者さんは何て?」
「ははは……足首の骨にでっかいヒビが入ってるってさ」
北野は顔の半分だけを笑顔にしながらそう言った。
レントゲンを撮った結果、足首の骨にヒビが入っていた。骨に異常がある時点で長期間投げられないことは確定し、当然1軍昇格も白紙だ。
足首の故障、しかも骨の異常では走ることもままならないので下半身は衰えてしまう。完治してまたイチから鍛え直して実戦復帰するまでに一体どれだけの日数が必要になるのか。絶好調といってもよかったこのコンディションまで戻すのにどれぐらいかかるのか。考えるだけで目の前が真っ暗になる北野だった。
いや、果たしてこれほどの状態にもう一度なるのか。そもそも治った時に再びチャンスは訪れるのか。自分が故障したことで誰かが代わりに1軍入りするのだろうが、その選手が活躍したら……
まったくもって笑い事ではないのだが笑うしかない。絶対に掴まなければいけないタイミングでのチャンスを、彼は掴み損ねてしまったのだ。
春香はただ北野を見つめることしかできなかった。実績の乏しい若手選手にとって、数ヶ月のブランクがいかに大きいものか。今の彼女にはそれがわかるだけに、北野のショックを考えるとかけるべき言葉を見つけることができない。
「北野さん……あの…私、何て言っていいか……」
ようやく口を開いて何か言葉をかけようとするものの、何を言っても薄っぺらい慰めの言葉にしかなりそうにない気がした。
「ツイてないよなぁ。あのまま終わってれば、多分間違いなく上に行けたと思うんだ。最後のストレートなんてさ、今まで投げた中でも最高の感触だったんだよ。それが狙い通りのコースに行ったんだ。絶対打ち取れてたはずだよ。なのに……それがまさか一瞬で全部パーになるとは夢にも思わなかった」
「でも、でも、もう1軍に上がれるレベルだって今日で証明したわけだし、もう投げられないわけじゃないんだし、骨がくっついて投げられるようになれば、またきっとチャンスは来ますよ。絶対来ますよ。だから……」
春香はなんとか励まそうとしたが、北野は力なくかぶりを振った。
「……俺ね、最近物凄く調子が良くて、特に今日は自分でも信じられないくらい手応えあったんだ。今ダメなら本当にもう上に行くチャンスは無いだろうなっていうくらい手応えあったんだ。あのフレッシュオールスターの時みたいに、もう打たれる気が全然しなくて、どこにでも狙い通りに狙い通りの球が投げられる感じでさ。実際結果も残せたしね」
北野はそこで1度言葉を切ったが、春香はとても口を挟むことができなかった。
「ツキって、あるんだなって、今日初めて実感したよ。絶対上に行くんだって、行けるんだって思ってやってきたし、今日で絶対上がれるって確信してたんだ、実際出来てたんだ……でも、結局ツイてないヤツはダメなんだな。そういうヤツは結局最後の最後でこうなっちゃうんだよね、きっと。チャンスを掴める時に掴めないヤツって、やっぱりそこどまりなんだよね。俺の限界がこの辺なのかもしれないなぁ、なんてね」
「どうしてそんなこと……そんなこと言わないでくださいよぉ。まだたった1回チャンスを逃しただけじゃないですか。ケガが治ればこれから何度だってチャンスはありますよ。きっとありますよ」
北野が相当気落ちしていることはイヤでも伝わってくる。春香は懸命に励ます努力を続けたが、どうやらその想いは今の北野に届いてはいないようだった。
「1回じゃないよ。今まで何回もチャンスを逃してきたんだ。だから今回が最後のチャンスかもしれないって思ってたし、それぐらい後が無い気持ちで投げてたんだよ。自分の為に、俺自身の為に本気で投げてたんだ……その結果がこれさ」
春香にはもう何もかける言葉が思い浮かばなかった。いま自分が何を言っても慰めにも、いや気休めにすらならない気がした。
松葉杖をついた北野は、付き添いのチームスタッフと車に向かった。そのまま宿舎まで送り届けてもらうのだ。話を終えて戻ってきた春香に、小春と雪乃が心配そうな表情で歩み寄った。
「北野さん、どうだった?」
春香は首をゆっくりと左右に振った。
「足首の骨に大きなヒビが入っているんだって」
「ヒビだけですか? 折れていないんだったら意外と早く治るんじゃないんですか?」
「ううん。ダメなの」
春香はダメな理由を雪乃に説明した。
「足首の骨だから走れないでしょ? トレーニングしないでいれば下半身の筋肉が落ちちゃうし、投げられないから肩の筋肉も衰えちゃうし、それをまた鍛えて元に戻すのってすごく時間がかかるの。治ってリハビリして投げられるようになっても、時間的に今シーズンにはもう間に合わないから、だから北野さんもあんなに落ち込んじゃってるんだと思う」
「そうなんですか。ごめんなさい、私よく知りもしないで気休めみたいなこと言っちゃって」
「あんなに元気の無い落ち込んでる北野さんを見たのは初めて……」
そう言ったまま春香はまた黙り込んでしまった。小春も雪乃も顔を見合わせてただ立ち尽くすしかなかった。




