あとひとつ
「あの人が北野さんですよね? なんか前に会った時よりもカッコイイかも」
マウンドに上がり投球練習を始めた北野を見た雪乃は、春香にそう話しかけた。小春もそれに同調する。
「そう……かな? 北野さん、カッコイイ……かな?」
「いいなー春香さん、あんなカッコイイ人がいて。羨ましいですぅ」
「え? いや、別に北野さんはそんなんじゃないってば。雪乃ちゃん誤解してる」
久しぶりに見るマウンド上の北野は、以前よりもやはり逞しく見える。身体を鍛えた結果なのか、それとも他に理由があるのかはわからなかったが、春香の目には自信に満ち溢れて見えた。
試合での北野は、春香の願い通り好投した。
「おいおい、北野のヤツ凄すぎないか? いくらなんでも調子良すぎだろ」
春香とともに観戦していた乙倉がそう感嘆するほど、まさに手が付けられないほどのピッチングを北野は披露していた。
4イニングを投げて打たれたヒットは1本だけ。ストライクゾーンの四隅を丁寧につき、緩急を上手く使って相手チームの打者達を寄せ付けずに三振の山を築いていく。
四球も死球もゼロで全く危なげないピッチング。ほぼ完璧といっていい内容だった。
「北野さんって凄い人なんですね。全然打たれてないですよ?」
野球のルールなどよく知らない雪乃が、感心したような声でそう言った。
記者たちも、これはもう北野の昇格は確実だろうと話していた。視察に来ている三原1軍監督の表情にも2軍のスタッフたちの表情にも、極めて満足げなものが見て取れる。
「これは日下部の穴どころか、それを埋めて余りある結果を出してくれるかもしれないぞ」
三原が興奮気味にそう口走ると、2軍スタッフの誰もが同様のセリフを熱く語った。
北野のピッチングには、やはり華がある。思わず惹きつけられてしまう魅力がある。彼が1軍に上がってくれば、相乗効果でチームな様々な影響を及ぼしてくれるだろう。
「私は……これが見たかったんだ」
もはや三原の頭の中では北野の1軍昇格は既定路線。彼の頭の中は、もうそれ以降のチーム運営プランでいっぱいだった。これでAクラスは確保できる……そう思わせるに十分だったのだから。
「次のイニングを投げきったら交代だ。最後までビシっと締めろよ」
4回を終わった時点で投手コーチの若生からそう言われた北野は「はい」と言って小さく、しかし力強く頷いた。最後をしっかり締めて1軍への切符に花を添えろよというコーチからのメッセージに表情が引き締まる。
「よかったね、春香ちゃん。もう北野の昇格は確実だよ。今2軍でこれ以上のピッチングが出来るピッチャーはいない。いや、上の先発陣でもこれだけ投げられるヤツは向井以外いないかもしれない。もう絶対に間違いないよ」
乙倉が少し興奮気味にそう言った。
「はい……ありがとうございます」
「よかったね春香」
小春と雪乃からも祝福の言葉を貰った春香は、2人の方を向いて微笑みながら「うん」と言って頷き、再びマウンドに視線を向けた。
予定ではあと1イニング投げて北野は降板する。あと1イニング、打者を3人討ち取れば間違いなく北野は1軍への切符を手にするだろう。
(真鍋さんがあんなことになっちゃったり、調子を崩して焦っちゃったりしたけど、でもようやくここまで来れたんだね、北野さん。よかった……ホントによかった)
春香の脳裏にはこれまでの様々な思い出が次々と鮮やかに甦り、嬉しさのあまり危うく涙をこぼしそうになった。
5イニング目も好投は続いた。
(慌てるな。焦るな。誰のためじゃない。自分のために投げるんだ。そしてその姿を春香さんに見てもらうんだ)
北野の頭の中には、もうそれ以外なかった。これ以上ないくらいに集中できている。どんな球でも、どんなコースにも自由自在に投げられそうな気がする。これは……。
(そうだ! あのフレッシュオールスターだ。あの時と同じ感覚なんだ)
あの時と同じように最後までビシッと締めたい。そして1軍昇格を勝ち取った姿を春香に見てもらいたい。
きっと彼女は大喜びしてくれるだろう。その笑顔を見たい。ただそれだけが今の北野のモチベーションになっている。
2人の打者を簡単に打ち取り、最後のバッターも2ストライクに追い込んでいた。あと1つストライクを取れば、北野は念願の1軍昇格を果たすことが出来る。
誰もが最早そうなるだろうと思いながら見ていた。それを疑う者など、もう誰もいない。それほど北野のピッチングには安定感があった。
春香は両手を胸の前で組み、祈るような想いでマウンド上の北野をジッと見つめていた。
北野自身はといえば。全く浮かれてなどいなかった。あと1つストライクを取れば1軍だなどという意識すらなく、ただ目の前の打者を打ち取る以外のことは頭にない。
キャッチャーの出したサインは外角低目のストレート。北野はサインを見て頷き、ゆっくりと、そして大きく振りかぶった。
(この1球で決める!)
自分の全力をこの1球に総て注ぎ込んで決める。それだけだ。
北野の投げたストレートは、まさに糸を引くという形容詞以外に例えようもないものだった。自分でも投げた瞬間にわかった。今までで最高のストレートだと。それが狙い通りのコースに行ったのだ。打ち取ったと確信した。
だがバッターは北野の思い通りに打ち取られるわけにはいかない。彼は彼で最大限の抵抗を試みた。
外角低目のストレートに狙いを絞っていたわけではない。バッターにとって最も打ちづらいコースに的を絞るわけがない。
それでも彼はそのコースに手を出した。体は前に突っ込まず、ステップと同時にグリップが出ず、そして体が開かぬまま思い切り外角へ踏み込まれたそのバッティングフォームは、偶然にも外角低目の打ち方としては理想的なものとなっていた。
振り払うように一閃されたバットが快音を残した。
「あっ!!!!!」




