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キミがいて夢になる  作者: スパイシーライフ


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どん底

 その感情をどう表現したらいいのか、北野には的確な言葉が全く思い浮かばなかった。悔しさと情けなさと不安と、とにかく様々なものがないまぜとなった感情だ。

 

 こんな気持ちになったのは生まれて初めてだった。

 

 

「しばらく外野手として練習するように」

 

 広岡2軍監督がそう告げたのは、もちろん北野のイップスを治すための策としてだ。イップスを治す方法は幾つか考えられおり、その1つが守備位置の変更、つまりコンバートだ。

 

 現代の高度化した野球では選手の守備位置はほぼ固定化されており、外野手なら外野の総てを、内野手なら内野の総てを全員が同じように守れるわけではない。それぞれのポジションごとに役割も動きも違うので、それらを総て同レベルでこなすのは至難の業なのだ。

 

 イップスは近い距離で力を加減して投げるときに起こりやすく、だから内野手のスローイングやキャッチャーの投手への返球そしてピッチャーの投球などで起こりやすいという説がある。

 その説によるイップスの治療法が外野手への転向であり、つまり力を加減せず常に全力で遠方に投げる癖を身に付けることでイップスを軽減させようというのが狙いだ。今回広岡が若生2軍投手コーチと相談した結果選択したのがこれである。

 そしてこれは北野を心理カウンセラーの元に赴かせてヒアリングをし、そのカウンセラーと相談して試すことにした策でもあった。

 

 それならば外野ノックだけをやればいいのではという疑問が湧くが、広岡達はここで1度北野の気持ちをリフレッシュさせようと考えた。1度ピッチャー以外のポジションに専念させて、精神的にリセットさせようというわけだ。

 プロとして他のポジションの練習をすることで何か刺激を得るかもしれない、新たな発見があるかもしれない、それが復調のキッカケになるかもしれない。そういう実例もある。

 

 もちろん広岡2軍監督はキチンとコンバートの趣旨を説明した。

 

 「しばらく外野手の練習をして、ピッチングのカンが戻ってきたらまたピッチャーとしての練習を再開すればいい。なにもずっと外野手をやれと言っているわけではないからな」

 

 おくまでもこれは一時的な処置であることを明言し、それを補足するように若生コーチも「これはあくまでも、もしイップスだった場合それを克服するための手段だから」と重ねて言った。

 

 おそらくそれは本当なのだと北野も思う。思うのだが、今の彼は自分自身に対してすら疑心暗鬼になっていて、広岡や若生の言葉を額面通り素直に受け取ることが出来なかった。不安を完全に消し去ることが出来なかった。

 カンが戻ったらピッチャーに戻ればいいと言うが、それは裏を返せば戻らなければそのままということだ。

 

 (そもそも本当に調子は戻るのか?)

 

 冷静に考えれば、野手としては過去も現在もなんら実績の無い北野をプロの野手としてコンバートするわけはないのだが、彼はそんなことすらも考えられないほど冷静さを欠いている。

 

 しかし調子が戻らなければ引退というのは正しい。コンバートの可能性が無いということはピッチャー以外に選択肢が無いということであり、つまりこのままなら引退するしかないということだからだ。

 この状態が続けば来年には、いやヘタをすれば今年戦力外通告つまりクビになるかもしれない。それがイヤならば調子を取り戻す以外に方法は無い。

 

(不安だけど、それでも今はやるしかないか。他に良い方法なんて何も思いつかないし、俺はピッチャーしか出来ないんだから)

 

 復活する方法を自分で思いつかない以上は監督たちの提言を受け入れるしかない。やるしかない。そう腹を決めた北野は広岡の提案を受け入れることに決めた。


 

 驚いたのは春香だった。乙倉と共に訪れた練習場で外野手と一緒に練習をしている北野の姿を見て、彼女は思わず首を傾げてしまった。


 (どうしてピッチャーの北野さんが外野の練習をしているの?)


 内野でノックを受けている光景は今まで何度も目にしているが、外野で練習をしているところは見たことがない。初めて目にする光景に彼女は戸惑った。

 

「乙倉さん、北野さんはどうして外野で練習しているんですか? こんなこと今までなかったのに」

 

 乙倉は既に監督やコーチから理由を聞いているので、慌てふためいている春香にそれをそのまま伝えた。理由を知った春香は安心したのと同時に、北野がそこまで調子を落としていることに胸を痛めた。

 

(あんなに一生懸命なのに、真鍋さんのためにって頑張っているのに、なのにどうしてその努力が報われないんだろう)

 

 神様はイジワルだ、と彼女はそう思った。それでも今の自分に出来ることは何も無い。春香はそれがとても歯がゆい。なんとかして彼の力になりたいのに……。

 

「北野さん、もしかしてこのまま外野手になっちゃうんでしょうか……」

 

 外野手が悪いわけではないし、春香もそんなつもりで言ったわけではない。ただ彼女はマウンドに立つ北野の姿が好きだった。それが見られなくなるのは、やはり少し……寂しい。

 

 そんな彼女の想いをよそに、乙倉はその心配を明るく笑い飛ばした。

 

「いやぁ、それは無いよ。北野が外野手とか……いや無い無い。無いね。絶対無いよ」

「どうしてですか?」

「どうしてってそりゃあ、野手だった者として言わせてもらうなら、野手なめんじゃねえぞって話だからだよ」

 

 投手から野手へのコンバート自体がそもそも簡単ではない上に、北野は内野手も外野手も経験が乏しいどころか無いに等しい。もちろんシーサーペンツに入ってからはピッチャーとしての練習しかしていない。

 

「北野はね、野手として何の実績も無いし学生時代にバッティングが特別優れていたわけでもないんだよ。僕の知る限りではね」


 ピッチャーとしての守備も及第点ではあるが、格段動きが優れているわけでもない。そんな選手が野手に転向して守備の名手となるのは、さすがに考え辛い。

 つまり北野翔という男がプロ野球の世界で生きて行くには、先発ピッチャーとして大成するしかないのだ。そんな男を戦力としてコンバートするなんて有り得ない。それが乙倉の考えだった。

 

「そんなことをする価値は、野手としての北野には無いね。だからアイツの外野手転向は100パーセント無い。そこは監督やコーチの話を額面通り受け取っていいと思うよ」

 

 そう言われて少しホッとした春香だったが、続けて乙倉が言った言葉は彼女をまた不安にさせた。

 

「安心するのは早いよ。それってつまり、復活出来なかったら引退するしかないってことだからね。逃げ道が無いわけだから」

「そう、ですよね……」

「外野への一時的なコンバートが功を奏するかは僕にもわからないけど、とにかく復活する目処が立たないと判断された時点で北野はクビになる。それぐらい今のアイツは追い込まれているんだよ」

 

 1年前だったら危なかったかもしれないね、と乙倉は付け加えた。1年前、つまり育成枠の選手だったら、このまま復活しなければ間違いなくオフにはクビだったろう、と。

 

「あくまで判断するのはフロントだから絶対ではないけど、高卒選手は基本的にプロ入りして身体づくりから始めるから、まあ5年間ぐらいは猶予をもらえるものなんだ。だからまあ、来年くらいまでは大丈夫……だと思うんだけどね」

 

 しかしそれは単に猶予がもらえただけで、春香にとっても北野にとってもあまり慰めにはならない。もしもこのまま今年を終え来年も調子を取り戻して復活することが出来なければ、結局は同じ結末だ。

 

(北野さん、どんな気持ちで外野の練習してるんだろう……)

 

 自らの意にそぐわない道を歩かざるを得ない気持ちは春香にもよくわかる。

 

 けれど今の北野はそれだけではない。


 クビになるかもしれないという恐怖を今まで春香は感じたことがない。鳴かず飛ばずだった頃でもクビになるかもしれないと考えたことは1度もなかった。

 今から思えば能天気な話だが、しかし本当に春香はそんなこと考えもしなかった。だから今の北野の本当の気持ちは……彼女にもわからない。

 

(北野さん、頑張ってね。挫けないでね。私、ずっとずっと応援してるから)

 

 それは彼女の心からの想いだった。

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