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キミがいて夢になる  作者: スパイシーライフ


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最悪の可能性

 ブルペンでは険しい表情の若生2軍投手コーチが腕組みをしながら、投げ込み中の各ピッチャーへ目を光らせていた。

 乙倉は若生に挨拶をしてからピッチャーたちの状況を尋ねてみた。

 

「うん、おおむね順調だな。そう言って良いだろう。みんなこちらの期待通りに力をつけているし、これなら三原監督の期待にも応えられるだろう。夏場には必ずコイツらにもチャンスが巡ってくるだろうしな。もちろん誰が上がることになるかはわからんとしても、そのチャンスを掴むだけの力はみんな備えつつあると思うね」

 

 若生はさきほどまでの険しさから一変し、満足そうな表情で乙倉に現況を語った。選手たちの成長に手応えを感じているのは明らかだった。

 

「それは楽しみですね。ところで若生コーチ、北野のヤツはどんな調子です?」

 

 その名を出された途端に、若生の表情がにわかに曇る。

 

「変わりないね。相変わらずブルペンでは何の問題も無いのに、試合になるとまるでダメなままだ。アイツが投げてるところを見たか?」

「ええ、このあいだの紅白戦で見ました。確かにブルペンとは全くの別人でしたね。まるで良いところが無かった。今年は開幕1軍もあるんじゃないかと思ってたんですけどね」

 

 実戦になると豹変するピッチャーがいるのは事実だが、北野は今までそうではなかった。それが急にこんなに調子を落としてしまったのは、乙倉には不可思議としか思えない。

 

「調子が悪いのならブルペンでも冴えないはずですけど、そうじゃない。ということは調子うんぬんじゃないってことですもんね」

「そういうことだ。だから私も広岡監督も頭を抱えているのさ。どうすればアイツが復調するのかってね」

「それは、精神的なもの……でしょうかね」


 乙倉は単刀直入にそう切り出した。そして返ってきた答えは彼の思った通りのものだった。

 

「そうだろうな。もうそうとしか考えられん。だが問題は、そうだとしてもどうやって解決するかだ。カウンセラーに全て任せるべきなのか、それともこのまま何かキッカケが来るのを待つ方が良いのか。精神面となるとヘタをすれば完全にぶっ壊しかねんからな。だからまだ私たちも決めかねてるんだよ」

「イップス……ですか」

「考えたくはないがね。そうかもしれないと、私も広岡監督も考え始めてるところだ」

 

 イップス。


 それは何かしらの原因によってスポーツの運動動作に支障をきたし、自分の思い通りのプレーが出来なくなる運動障害のことだ。もともとはゴルフ界で用いられ始めた言葉だが、今ではスポーツ界全般で使われている。

 

 イップスが恐ろしいのは原因、言い方を変えればそうなるキッカケが未だに明確には判明していないという点だろう。


 研究者や指導者の間でも「技術的な問題から」と語る者がいるかと思えば「心因性のものから」と語る者もいる。

 技術的とか心因的とか言葉にすると一言だが、その示す範囲はあまりにも幅広く途方も無い。つまり実に様々な理由からアスリート達はイップスとなるわけだ。そして意見が分かれている状態なので当然明確な治療法も確立されてはいない。

 

 プロ野球の世界においては「選手がやめる原因の8割はイップス」と語る者がいるほど実はありふれている障害なのだが、いずれにしろイップスのためにピッチャーから野手へといったポジションチェンジを余儀なくされたり、あるいは克服出来ずに引退する選手も数多い。

 

(イップスか……もし本当にそうなら、こいつは難しい問題になってしまうな)

 

 原因は乙倉にもおおよそ推測が出来た。おそらく真鍋の引退が原因だろう。あんな形であれほど仲の良かった兄貴分が引退を余儀なくされたのだからショックを受けないわけがない。しかし、だからと言って……。

 

(たしかにショックだったろうけど、それでこんなにまでなってしまうものだろうか)

 

 残念なことと言うべきか幸運にもと言うべきか、乙倉自身はイップスとなった経験が無い。無いからこそ本当のところがわからない。北野は本当にイップスなのだろうか。真鍋のことがキッカケとなって、やらなければという想いが強すぎて、必要以上に肩に力が入り過ぎているだけじゃないのか。力み過ぎなだけではないのか。そうであってくれればいいのだが……。

 

 

「乙倉さん。そろそろまた収録の時間ですけど」

 

 いつの間にか収録再開の時間となったらしく、春香が彼を呼びに来た。

 

「どうかしたんですか? なんだか厳しい顔をしてましたけど」

「ん? ああ、そうかい? うん、そうだね」

 

 乙倉の歯切れは酷く悪かった。何かヘンだと思った春香は重ねて「どうかしたんですか?」と尋ねた。

 

「ああ、うん。実は北野がちょっとね」

「北野さんが? どうかしたんですか?」

 

 北野が不調に陥っていることは春香ももちろん知っている。彼女はそのことで日々心を痛めていた。

 

「春香ちゃんは北野と仲が良いよね。何かアイツに変わったこととかあったかい?」

「変わったことと言うとやっぱり……実は真鍋さんの引退が決まった頃から、時々なんだか気負い過ぎじゃないかなって感じられるようになって……」

「ああ、やっぱり」

 

 自分よりも接する機会の多い春香がそう言うのならば確かだろうと乙倉は思った。やらなくてはという想いが強くて気負い過ぎて、それが精神的バランスを崩す結果に結びついたのだろう。乙倉にはそれが1番近いように思えた。

 

「今までそんなことは無かったんですけど、ちょっと怖いくらいに思える時があったりして。鬼気迫るって言うのかな、そんな風に見えることが多くなって」

 

 春香は自分の知っている限りのことを乙倉に話した。

 

「北野さん、どうしちゃったんでしょうか……やっぱり今でも真鍋さんのことがショックで、それを引きずっちゃってるんでしょうか」

 

 表情を曇らせた春香を見ながら、乙倉は何とも言えない気持ちになった。彼女も今季の北野に期待していただけに、この状況はさぞ心配だろうと他人事ながら胸を痛めたが、それでも一応本当のことを話しておくべきだろうと思った。

 

「ショックを引きずってるだけならまだマシなんだけどね」

「それだけじゃないんですか?」

 

 乙倉は春香にイップスについて話した。出来る限り柔らかな表現で、いたずらに彼女の心配を煽らないように。

 

「えっと、つまり真鍋さんのことがキッカケになってそのイップスっていうのになった、っていうことですか?」

「じゃないかって監督やコーチは言ってるんだ。でもボクは今の春香ちゃんの話を聞いて、度が過ぎた自己暗示にかかって力み過ぎてるだけじゃないかとも思ってる」

 

 乙倉は簡単にイップスの説明をしたが、春香には完全に理解は出来なかった。

 

「問題なのは真鍋の引退がキッカケだとしても、じゃあどうやって治せばいいのかってとこなんだよ。コーチは技術的なことは教えられるけど、精神的なことも教えられる点はあるけど、でもさすがにイップスに対してはね……もしそうなら、これはハッキリ言って専門のカウンセラーが必要な領域だから」

 

 乙倉の話を春香はよく理解出来なかったが、北野が何か大変なことになっているということだけはわかった。

 

「もちろん北野がイップスだと決まったわけじゃない。ただその可能性は確かにあるし、だったらどうやって復調させればいいのかって、2軍のスタッフも頭を抱えてるみたいなんだ。ボクも早く以前のようなピッチングを北野に見せて欲しいんだけど、ただ問題が精神的な部分だけに簡単には……」

「難しい、ですか」

「そう言わざるを得ないね。もちろんイップスでなければそれに越したことはないんだけど」

 

 イップスで引退した選手もいる。その言葉は春香を恐怖させるのに十分だった。

 

「どうしたらいいんでしょう。何か北野さんにしてあげられることは無いんでしょうか?」

 

 春香はそう言ってみたが、乙倉はいかにも残念そうな表情で首を横に振った。

 

「有るかもしれない。でも、無いかもしれない」

 

 その言葉をどう理解すればいいのか。乙倉が何を言いたいのか春香にはわからなかった。

 

「優しく接すればいいのか、それとも厳しく接すればいいのか。正直精神的な問題だからそれすらわからないんだよ。本当にイップスだったら、春香ちゃんだけじゃなく僕らにも出来ることはないと思う。専門家に任せたほうがいいんだ。でもそうじゃなかったら、だったら春香ちゃんの助力で何かキッカケを得られるかもしれない。わかんないけどね」

 

 有るかもしれないし無いかもしれないという言葉の意味を、この説明で春香はやっと理解することが出来た。何かしてあげたい、力になりたいと心から思うけれど、どうやら事はそう簡単な様子ではなさそうだった。

 

「彼をどう立て直すかは監督やコーチが決めることで、僕ら外野の人間がどうこう口出し出来ることじゃないからね。だから春香ちゃんも今まで通りに接するのが1番良いと思うよ」

 

 わかりました、と春香が言ってひとまず話は終わり、2人は収録現場へと戻った。

 今の自分にできることはないかもしれない。けれどやはり何か、何でもいいから少しでも北野の力になりたい。そう願う春香だった。


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