死力を尽くす
9回裏のマウンドに立つ北野だったが、疲労は限界に達していると言っても過言ではなかった。握力は落ちてきているし身体は重いし、普通の試合だったらとっくに交代しているだろう。
(初登板の時とは全然違うな……)
プロ初登板を果たしたあの試合。あの時9回ツーアウトまでマウンドに立っていたが、疲労は今日と比べ物にならないほど少なかった。
(簡単に勝てると思ってたわけじゃないけど、だからってまさかここまでキツい試合になるとも思ってなかったよな)
初登板の時の相手は京都ワルキューレ。もちろん彼らが弱かったわけではない。
思い返してみるとあの時は、とにかくプロのマウンドにようやく立てたという高揚感が優っていた気がする。スタミナに不安のあった自分なのに、あの日は最後まで投げ切れるという自信がなぜかあった。だからこそあれだけ快調に投げられたのだと思う。
それが今日はどうだろう。
試合序盤こそ快投を演じてスイスイと回を進めたが、中盤でシーサーペンツの粘りに苦戦し始め、後半は必死に踏みとどまっているというのが実感だった。
人間は本物のプレッシャーを与えられると、スタミナなど一瞬で奪われていく。
今の北野は監督の檄、チームメイトの後押し、春香の応援、そして様々な人たちの支えを胸にマウンドで立っているに過ぎない。
もしそれらが無かったら、自分はもうとっくに降板しているだろうと思った。
野手たちは北野に一言二言励ましの言葉をかけて、それぞれの守備位置へと散っていく。最後は神谷だった。
「この回で終わりにするぞ。自分のリズムを忘れんな。あのコの歌、ちゃんと音外さないで歌いきれよな」
「だから、そんな音痴じゃねえって」
「……言い返す元気があるなら大丈夫そうだな」
神谷はミットで北野の胸を軽く叩き「カノジョにいいとこ見せてやれよ」と言った。
「当たり前だ。負けるとこなんて春香さんに見せられるかよ」
「よし、その意気だ。あとアウト3つ。キッチリ取って試合を終わらそうぜ」
「ああ。あと少しだ。絶対に投げ切るぜ」
「腕をしっかり振り抜けよ。それだけ意識しろ。そうすりゃオマエは勝てるから」
北野が力強く頷くと、神谷も満足そうに頷く。そしてポジションへと戻っていった。
北野は左手を握ったり開いたりを繰り返してみた。やはり明らかに握力は落ちている。
ピッチャーにとっての握力は単にボールを強く握るためだけでなく、球の回転数やコントロール、そして疲労によるリリースのバラつきやボールのスッポ抜けを防ぐために非常に重要な要素だ。
(延長になったら、たぶんもうボールの抑えが効かなくなるだろうな……)
同点で10回裏のマウンドに立ったら間違いなくサヨナラ負けを喫してしまうだろう。
(つまり、俺が勝つにはこの回を無失点にしのぎ切るしかないってことか)
まさにこれ以上ないくらいの土壇場に追い詰められた心境だった。だが、同時に腹が据わった気もする。とにかく全ての力を出し切る。それこそ試合終了と同時にぶっ倒れたってかまわない。
「最後のひと踏ん張りだ。ここまで来て負けてたまるかよ」
北野は春香の歌を口ずさみながら、左手でロージンバックを入念に握った。
シーサーペンツの9回裏の攻撃は1番の南条から始まる。1番南条、2番新田、3番上条、4番小松と続く上位打線だ。新田のところでおそらく代打が起用されるだろうことを考えると、北野にとってこの場面で迎える打順としては最悪に近い。
打席に立つ南条はこの試合、何度も北野に煮え湯を飲まされている。
チームの勝利がもちろん最優先だが、個人的にも彼は雪辱を果たしたいと燃えに燃えていた。
(北野は明らかにもう限界に近い。試合当初のあの勢いはもう無い。今なら打てる)
プライド的にはもちろん絶好調の北野から打ちたいが、さすがにそういうことを言える場面でもない。
ここはとにかく北野からヒットを放つことで少しでも留飲を下げてチームに貢献する。それが妥協点であり、今の彼がすべきことだと本人もわかっている。
初球2球目とボールが続いた3球目、北野の投げた外角のストレートは勢いがある良いボールだった。だが、ほんの少しコントロールが甘かった。
わずかに外から内に入ってきたストレートを南条は的確にバットで捉え、打球はキレイに1・2塁間を抜けていった。1塁ベース上で小さくガッツポーズを見せる南条の姿が北野の眼に映る。
(大丈夫だ。切り替えろ。今のボールだって力は入ってたじゃないか。コントロールに気をつければ大丈夫だ。俺はまだやれる。大丈夫だ)
2番の新田のところに代打を起用するかと考えていたが、三原監督はそのまま新田を打席に送った。小技も上手い新田の方が様々な作戦に対応できると考えたのだろうか。
この場面、日本のプロ野球界のセオリーならば100%バントだろう。メジャーリーグではバントよりも打たせた方が結果的には良いと言われているが、こと日本においてはバント神話は根強い。
北野がバテているのは誰の眼にも明らかだ。しかしアルビオンベンチはブルペンで誰も準備をさせていない。となれば、延長戦になればシーサーペンツの勝ちはほぼ確定と言っていいだろう。
つまりこの回に1点取りさえすれば、もう勝利は事実上決まったの同然なのだ。だからこそここは100%バントだろうと誰もが思う。
しかし北野と神谷の脳裏には、7回裏の出来事が鮮明に残っている。同じように絶対バントだと思われていた場面で、三原監督はバスターを仕掛けてきた。
(同じ策もあり得る……)
バッテリーに迷いが生まれていた。
しかし新田は打席でバントの構えを見せなかった。ここは確実に決めるために、最初からバントの構えをしていい場面だ。
もちろんそれによって相手の守備陣形がバントに対応するよう変わるが、それを考慮した上でバント成功を要求される場面なのだから、ある意味バントする方も厳しい状況に置かれていると言える。
初球ボール。2球目もボール。苦しいピッチングが続く。
(くっそぅ。コントロールがイマイチ定まらねぇ)
北野はロージンバッグを左手の上で弾ませながらスタンドの春香を見た。両手を胸の前で合わせながら、祈るように自分を見つめている。
(細かいコントロールはもう無理だ。こうなったらもう勢いで押し切るしかない。今の状態で逃げたら絶対に打たれる。腕を振れ。ボールにありったけの力を込めろ。気迫で打ち取るんだ。それしか道は無いぞ)
3球目。ここで新田は突然バントをしてきた。打球は3塁側に上手く転がっているように見えた。送りバント成功だと誰もが思った。
「セカンド!」
神谷が叫ぶ。サードが猛ダッシュして来ているのが見えたからだ。
サードがゴロを直接手で取り、そのまま身体を大きく捻りセカンドに矢のような送球をする。タイミングは微妙だ。
南条が滑り込む。セカンドが捕球する。一瞬スタジアムが静まり返る。
「アウトォ!」
審判のコールがスタジアムに響き渡る。間一髪アウトだった。
タッチプレーでなくフォースアウトだったことも北野に味方した。
フォースアウトとは、バッターが打球を打ったことにより進塁の義務が生じたランナーに対し、守備側がランナーに直接タッチせず、進むべきベースを踏むかベースに触れることでアウトが成立することだ。
もしこの時タッチアウトが必要だったならセーフだったろう。コンマ何秒のレベルで両チームの明暗はハッキリと別れたのだった。
しかしまだピンチは続いている。
次のバッターは3番の上条だ。巧打もあるし長打もある。1アウト1塁だが、長打を打たれたら一気に同点に追いつかれるかもしれない。
(あと2人だ。春香さん、待っててくれよな)
上条がゆっくりと打席に向かって行った。




