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キミがいて夢になる  作者: スパイシーライフ


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107/111

約束

 いよいよ9回裏が始まろうとしていた。

 2対3でアルビオンが1点リード。このまま9回裏を0点に抑えれば、北野は念願の初勝利と手にすることが出来る。


(良いピッチングなんて出来なくてもいいさ。もう点はやらない。そして勝つ。そんだけのことじゃねーか)


 もう身体は限界なのかもしれない。だが、それでも勝つ。北野の頭にはそれしかなかった。

 

 そんな気合充分でマウンドに向かう北野だったが、その頃シーサーペンツ側のベンチ脇あたりのスタンドが、妙にざわめき始めていた。

 

「あれ、誰だ?」

「なんかライブ衣装みたいな格好してるけど」

「え、ちょっと待って。あれ、椎名春香じゃないか?」

「なんでここにいるんだ? しかもあの格好で」

 

 ざわめきは、じわじわと広がっていく。

 

 春香はスタンドのフェンス際まで来ていた。ライブのステージ衣装のまま、息を切らせて、頬を紅く染めていた。

 それでも視線だけは真っすぐにグラウンドを見つめていた。

 周囲の観客たちは、次々と春香に気づき始めていた。


「本当に椎名春香だ」

「春香ちゃんだ。間違いないよ」

「たしか今日、ライブがあったんじゃないのか?」

「ライブが終わってすぐ来たのかな。あの衣装のまま」


 ざわめきが波のように広がっていく中で、春香はそれに構わずグラウンドを見つめ続けていた。

 マウンドに向かおうとしていた北野が、ようやくそのざわめきに気づく。

 何だろうと視線を向けると、スタンドのフェンス際に春香がいるのを見つけた。

 

(えっ!?)

 

 北野は思わず足を止めた。春香と目が合った。

 

 次の瞬間、春香は満面の笑みを浮かべて、右手で作ったVサインを高々と掲げた。

 北野にはそれが何を意味するのか、一瞬で理解できた。

 

(そっか……ライブ、大成功だったんだ)

 

 胸の奥が熱くなってくる。

 ライブを大成功させて、そのままここに駆けつけてきてくれた。あの衣装のまま。息を切らせながら。

 

 同じ日に、それぞれの場所で全力を尽くすと約束した。春香はその約束を果たして、今度は自分のために駆けつけてきてくれたのだ。


「北野さーん! 次は北野さんの番ですよぉ!」


 春香の声がマウンドにまで聞こえてくる。

 春香の顔は笑っていた。しかしその目は真剣で、北野に向かって何かを伝えようとしていた。

 

(わかってる。絶対に勝つ)

 

 北野は春香に向かって、静かに頷いた。



 ベンチ脇のスタンドがざわめいているのに気づいた向井がベンチから立ち上がって、フェンス際へと歩いていった。小松もその後に続く。


「なんか騒がしいと思ったら、春香じゃないか」


 春香を見つけるなり向井はそう言った。

 

「オマエ、そこで何してんだ? たしか今日はライブがあったんじゃなかったか?」

「あ、向井さん、小松さん」

「春香ちゃん、ライブはどうだったんだい?」

 

 小松がフェンス越しに声をかけた。

 

「大・大・大成功でした!」

 

 春香は満面の笑顔でそう答えた。

 

「そうか。そりゃよかった。でもオマエ、それステージ衣装じゃないのか? なんでそのままここに来るんだよ。着替えてからでもよかっただろ」

「だって、着替える時間がもったいなかったから……」

「だからその衣装のままで来たのか。まったく、お前らしいな」

 

 向井は苦笑いした。

 

「走ってきたのかい?」

 

 小松が尋ねると、春香は少し恥ずかしそうに頷いた。

 

「はい。マネージャーさんが車を用意してくれたんですけど、スタジアムの近くまで来たら渋滞していたので、途中から走りました」


 向井と小松が顔を見合わせた。

 

「まったくオマエは、どんだけ必死なんだよ」

 

 向井が呆れたように言ったが、その口元は緩んでいた。

 ベンチの中でその会話を聞いていた選手たちからも笑い声が上がった。

 

「春香ちゃんがそこまでするなら、俺たちもそれなりにしなきゃダメだな」

「そうだな。まあ全力で打ちにいくけどな」

 

 ベンチの中が和やかな空気になった。

 小松がフェンスに手をかけながら春香に言う。

 

「春香ちゃん、北野のやつ、今日は本当に凄いピッチングをしてるぞ。俺たちが全然打てないんだから」

「本当ですか?」

「本当だよ。あのパラシュートチェンジ、何度見ても打てる気がしない。俺は今日2三振だよ、恥ずかしい話だけどさ」

 

 小松は苦笑いしながらそう言った。それは称賛以外の何物でもない。

 

「でも」と小松は続けた。「俺たちだって優勝がかかってるんだ。このまま負けるわけにはいかないんだよ。春香ちゃん、北野のことが心配なのはわかるけど、ここから先は、みんな全力で打ちにいくからね」

 

「もちろんです」と春香は即座に答えた。


「思い切り打ってきてください。でも北野さんは絶対に抑えますから」


 春香がキッパリとそう言うと、小松はふっと笑みを浮かべた。

 

「言うじゃないか。じゃあ勝負だな」

「はい。勝負です」

 

 向井がその会話を聞いて「ははは」と快活に笑った。

 

「いい根性してるじゃないか。さすが北野が惚れ込んだだけはあるな」

「む、向井さん! そういうことは大きな声で言わないでください!」

 

 春香の顔が真っ赤になった。話を聞いていた周囲の観客たちからも笑い声が上がる。

 

「あらら、図星だったか」

「も、もう! 向井さん!」

「あはは。でもまあ、正直に言うとな」

 

 向井は笑いを収めて、少しだけ真剣な顔になった。

 

「北野のあのピッチング、俺もプロになってから初めて見るレベルだよ。あのチェンジアップは本物だ。バッターがあれだけ打てない球を投げるピッチャーは、そうそういない」

「……ありがとうございます」

「礼を言うのはオマエじゃなくて北野本人だけどな。まあでも、北野に伝えといてくれ。今日のピッチング、俺は一生忘れないってな」

 

 向井の言葉に、春香の目が潤んだ。

 

「伝えます。絶対に伝えます」

「よし。じゃあ俺たちも試合に戻るとするか」

 

 向井と小松がベンチに戻ろうとした時、向井が振り返って春香に言った。

 

「春香、最後にひとつだけ言っていいか」

「なんですか?」

「今日のラスト、俺たちは全力で勝ちにいく。それは間違いない」

「はい」

「だけどな」

 

 向井はニヤリと笑った。

 

「もし北野がそれを抑えきったら、それはもう本物ってことだ。そういうことだろ?」

 

 春香は一瞬驚いたような顔をして、そして笑顔になった。

 

「はい! そういうことです!」

「よし。じゃあお互い全力でいこうぜ。負けないぞ」

「こちらこそ。負けません」

 

 向井はもう一度「ははは」と笑って、今度こそベンチに戻っていった。

 小松も戻り際に春香に言った。

 

「応援してやりな。精一杯ね。アイツも春香ちゃんの声援があれば、もう少し頑張れると思うから」

「はい!」

 

 春香はもう一度フェンスを両手で握りしめて、マウンドを見た。

 北野がセットポジションに構えていた。

 9回裏が始まろうとしている。


 

 試合の緊張感が戻ってきた。周囲の観客たちも春香たちの会話に笑っていたが、今は全員がグラウンドに視線を向けている。

 

 春香はフェンスを握りしめたまま、北野の背中に向かって呟いた。

 

(北野さん……絶対に勝って。私、ここで見てるから)


 声には出さない。でも必ず届く気がした。マウンドの北野の背中が、わずかに揺れた気がしたから。

 

 春香はもう一度だけ、北野に向かってVサインを送った。

 今度はライブの成功を伝えるためではなく、お互いの約束を果たすことを願ってだ。

 

 9回裏。最後の攻防が始まった。

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