総力戦
「よし、行くぞ! 9回で逆転だ!」
監督の水原が力強く選手たちに檄を飛ばす。それでベンチ全体に火がついた。
シーサーペンツのマウンドには、8回まで投げ続けた向井に代わって、クローザーの黒田が上がってきた。
今シーズン40セーブを超えるリーグ最多セーブのクローザーだ。8回まで向井が投げ続けたこの試合、9回だけを任された絶対的守護神。
「黒田か……」
なんとしても逆転してやると心は燃えているものの、黒田攻略が困難なミッションであることも全員理解している。
「おい、みんな聞け」
一人の選手が声を上げた。
「黒田が出てきた。手強いピッチャーだけど、そんなことはわかってる」
彼は言葉を続ける。
「北野は今日8回まで投げ続けてる。しかも限界を超えて投げてる。ブルペンを全員引き上げさせて、最後まで1人で投げ切らせると監督が決めたからってのもあるが、ここまで必死に投げてるんだ。だったら俺たちがやることはひとつだろ?」
別の選手が言った。
「2点取って逆転する。それだけだ。難しいことは何もない。たった2点だ。全員で繋いで、2点取って北野を勝たせてやろうぜ」
ベンチ内が沸いた。
「そうだ! その通りだ!」
「絶対に2点取ってやる!」
「北野のために勝とうぜ!」
北野はベンチの端でその光景を見ていた。
(もしかしたら、俺は今やっとこのチームの一員になれたのかもしれないな……)
春香に励まされ、水原監督に叱咤され、そしてチームメイトたちが自分のために懸命に戦ってくれている。いったいどれだけの人に自分は支えられているのだろう。
胸が熱くなった。言葉など出てこなかった。ただ絶対最後まで投げ切ると、そして勝つと、それだけを心に誓った。
9回表。アルビオンの攻撃が始まる。
マウンドに上がった黒田の表情は冷静そのものだった。今シーズン何度も修羅場をくぐり抜けてきた男の顔だ。
先頭打者の田中がバッターボックスに入った。
(黒田のボールは速い。でも今日の俺たちは絶対諦めない)
田中は初球から積極的にバットを出した。ファール。
2球目、外角のスライダー。これも食らいついてファール。
3球目、インコースのストレート。詰まりながらもバットに当てた。打球はファーストへの緩いゴロ。
ファーストが捕球して、そのままベースを踏む。アウト。
しかし田中は全力で1塁に駆け込んでいた。
「チクショウ!」
全身で悔しさをあらわにする田中の姿をベンチの全員が見ていた。
ワンアウト。
続く6番の松本がバッターボックスに入った。
2ボール2ストライクからの5球目、黒田が投げたのはインコースの速球だった。
松本は思い切りバットを振る。
打球は二遊間への鋭いゴロ。
「抜けたか!?」
しかしセカンドが横っ飛びで捕球して、そのまま素早くファーストへ送球した。
アウト。セカンドのファインプレーだ。
ツーアウト。ランナーなし。
ベンチに重い空気が流れた。あと1人でアルビオンの攻撃が終わる。このまま終われば、北野の今シーズンは終わってしまう。
北野はベンチの端で静かに両手を組み合わせた。
(頼む。まだ終わらせないでくれ)
7番の木村がバッターボックスに向かう。
木村はベンチを一度振り返った。
北野がいた。静かに、しかし真剣な目でグラウンドを見つめている。
(北野……)
木村は前を向いた。
黒田の初球はアウトコースの速球だった。木村はこれを見逃す。ストライク。
2球目、スライダー。これも見逃した。ボール。
3球目、インコースの速球。バットを出したがファール。
1ボール2ストライク。木村は追い込まれてしまった。
一旦バッターボックスを外した木村は、ゆっくりと深く息を吸い込む。
(諦めるな。粘れ。とにかく粘れ。喰らいつけ)
4球目、スライダー。木村はバットを止めた。ボール。
5球目、インコースの速球。食らいついてファール。
6球目、アウトコースのスライダー。またファール。
7球目、インコースの速球。木村はまた食らいついてファール。
彼の粘りにベンチが盛り上がってきた。
「粘れ木村!」
「諦めるな!」
8球目、スライダー。木村はバットを止めた。ボール。
とうとうフルカウントとなった。
木村はもう一度バッターボックスを外した。
黒田の表情に、初めてわずかな変化が見えたように思えた。
8球も粘られたことへの苛立ちではない。今日のアルビオン打線は簡単には抑えられないという認識が黒田の中に生まれた瞬間だった。
9球目。
黒田が投じたのはアウトコースへの速球だった。
木村のバットが鋭く振られる。
心地よい快音とともに打球は1・2塁間を鋭く抜けた。ライト前ヒットだ。
ベンチが爆発した。
「よっしゃぁ!」
「木村! よく打った!」
「繋いだぞ! いけいけ!」
ここで8番の神谷がバッターボックスに向かう。
(また俺にチャンスが回ってきたか)
神谷は打席に向かいながら、ちらりとベンチを見た。
北野が立ち上がってグラウンドを見つめている。その目には懇願するような色があった。
(アイツ……あんな顔もするんだな)
神谷は打撃にあまり自信がない。だが今日は前の打席で同点タイムリーを放っている。
(いま北野とバッテリーを組んでいるのは俺だ。アイツが今日どれだけのピッチングをしてるか、誰よりもこのミットで感じてきた。だから、その気持ちに俺が応える)
神谷はバッターボックスに入った。
黒田が初球の投球動作に入った。
インコースの速球。神谷は思い切りバットを振ったがファール。
2球目、スライダー。これは見逃した。ボール。
3球目、インコースの速球。神谷はまた思い切り振った。しかしこれもファール。
4球目、アウトコースのスライダー。神谷はバットを止めた。ボール。
5球目、インコースの速球。神谷は今度こそ振り抜いた。
鈍い、しかし確かな手応えがあった。
打球は左中間に向かって高く舞い上がった。
レフトが懸命に追いかける。フェンスまであとわずか。レフトが飛びついた。
だがボールはレフトのグローブをわずかに越えて、フェンスに当たり外野を転々と転がる。
カバーに入っていたセンターが素早くボールを捕る。
3塁コーチがグルグル腕を回している。
それを見た1塁ランナーの木村が、全く躊躇することなく3塁を蹴ってホームへ向かった。
センターからホームへ矢のような送球が飛ぶ。
木村がホームへ滑り込む。
「セーフ!」
同点だ。
ベンチが爆発した。アルビオンファンが総立ちになって叫んでいる。
「同点だ!」
「神谷! 神谷がまた打った!」
「まだまだ行くぞぉ!」
神谷が2塁に立ちながら、ベンチに向かって右手を突き上げた。
北野も立ち上がって拳を握りしめていた。
同点。まだ逆転ではないが、しかし1死2塁とまだチャンスは続いている。
ここが勝負所と呼んだ水原監督が、9番に代打の佐々木を送り込んだ。
黒田の表情が変わっていた。今シーズン40セーブ以上を記録してきた守護神が、今日初めて動揺を見せていた。
それを見たアルビオンベンチが一斉に声を上げた。
「今だ! 一気に行くぞ!」
「佐々木! 頼むぞ!」
「逆転だ!」
佐々木はその声を背中で受けながら、黒田を真っすぐに見据えた。
初球、インコースの速球。佐々木はバットを止めた。ボール。
2球目、スライダー。これも見逃した。ボール。
黒田が明らかに慎重になっていた。
3球目、アウトコースの速球。佐々木は踏み込んでバットを振った。
(よし! 捉えた!)
打球は右中間に向かって鋭く飛んだ。ライトとセンターが懸命に追いかける。
だが打球は右中間をキレイに割っていった。
2塁ランナーの神谷は、打球が上がったと同時に猛然とスタートを切っていた。3塁コーチが腕を回す。
神谷がホームへ向かって全力疾走した。そしてホームを駆け抜ける。
「セーフ!」
逆転。ツーアウトからの3連打でアルビオンは逆転に成功した。
球場が揺れる。
アルビオンファンが総立ちになって絶叫した。左翼外野スタンドから鳴り物が鳴り響き、佐々木コールが一斉に球場へ響き渡った。
シーサーペンツファンからは悲鳴のような声が上がった。
アルビオンのベンチも爆発していた。
「逆転だ!!」
「やったぞ!!」
「北野のために勝つぞ!!」
佐々木が2塁上で両手を高く突き上げながら吠えていた。
ホームベースを踏んだ神谷は、真っ先にベンチの北野を見た。
北野は立ち上がっていた。目が真っ赤になっていた。それでも泣くまいとしているのが神谷にはわかった。
神谷はベンチに戻ると北野の肩を叩いた。
「あとは頼んだぞ」
「……ああ」
北野の声が少し震えていた。
その後もアルビオンの攻撃は続いたが、追加点は奪えなかった。
1点差でアルビオンがリード。
全員が一丸となって繋いで、もぎ取った逆転劇だ。
北野はチームメイトたちひとりひとりと目を合わせた。言葉はいらなかった。
(ありがとう。絶対に、守り切りますから)
いよいよ最終回。9回裏。
北野がマウンドに向かう。




