二転三転
神谷は北野の顔を見た。さっきまでとは明らかに違う顔をしている。
もちろん疲労の色は変わらないし、腕が限界に近いのも変わらないだろう。
しかしそれでも目の奥に、今まで見たことのない強い光が宿っていた。
(コイツ、また変わったな)
もう何度目だろうか。北野は追い詰められるたびに、ひと回り大きくなっていく気がした。
中学時代にバッテリーを組んでいて、北野のことはよく知っているつもりだった。だがそれでもまだ知らない顔を見せてくれる。
(本当に、こいつは面白い男だよな)
神谷は思わず苦笑いした。こんな場面で感心している場合ではないのだが、どうしてもそう思わずにはいられなかった。
「ライブを大成功させた春香ちゃんに、オマエの初勝利をプレゼントしようぜ」
時間的に、もう春香のライブは終わっているだろう。
だが神谷にそう言われた北野の耳には、終わっているだろうライブの、アリーナを揺らす地鳴りのような大歓声が夜空の風に乗って届いたような気がした。
(大成功だったんだろうな。だからこんなふうに感じるんだろうな)
春香はライブで全力を尽くしている。同じ空の下で、同じ時間に。
だったら自分も全力を尽くすしかない。
負けられない。自分のために。春香のために。俺のためにと頑張ってくれているチームメイトのために。そして……。
(俺に力を貸してくれた全ての人のために……俺は負けられないんだよ)
北野はまた思い出していた。育成枠として入団した日。誰にも注目されなかった日々。走って走って走り続けた練習場のグラウンド。イップスで思うように投げられなかったあの苦しい時期。真鍋が引退した日の悔しさ。足首の骨折、手首の骨折、それでも諦めなかった。移籍。福岡での新しい出発。
その時々で自分に力を貸してくれた人たちがいる。その人たちとの全ての時間が、今夜のためにあった。
内野手たちが守備位置に戻りながら、それぞれ北野に声をかけていった。
「踏ん張れよ、北野」
「ここを抑えたら本物だ」
「絶対に勝とうぜ」
「どんどん打たせていいからな。俺たちが全部アウトにしてやる」
北野はこの頼もしい男たち全員の言葉を受け取って、静かに頷いた。
1アウト満塁。
この場面で打席に立てば誰もが意気に感じる。外野フライ一本で同点になる場面、しかも優勝がかかっている試合なのだから結果を出せば間違いなくヒーローだ。
打者は今シーズン、チャンスに強い場面を何度も見せている6番打者だった。決して軽視できる相手ではない。
神谷がサインを出すより先に、北野は自分の中で決めていた。
(パラシュートチェンジで勝負する。たとえキレが落ちていても、今日一番の球を投げてやる)
カウントは2ボール2ストライクとなった。
(ここで決める!)
神谷からのサインはパラシュートチェンジ。北野は迷いなく頷いた。
セットポジションに入る。ランナーたちのリードを確認する。全員大きめのリードを取っていた。当然だ。どんな形でも1点を取りにいくつもりなのだから。
北野は深く息を吸い込んだ。
(腕が重い。足も重い。でも、まだ投げられる。まだやれるぞ)
足を上げ、全身を使い、腕がムチのようにしなやかに振られる。
放たれたパラシュートチェンジ。
だが、やはり疲労からなのか、試合当初よりもキレが少しだけ落ちていた。
打者がバットを出して捉える。だが、それでも真芯で捉えることは出来なかった。
打球は詰まり気味でショートへの緩いゴロになった。しかしホームでアウトを取るには厳しいところに転がっている。
ゴロが飛んだ瞬間、三塁ランナーは猛然と本塁に向かっていた。送球してもアウトには出来ないと即座に判断したショートは二塁に送球する。
それを受けたセカンドがベースを踏んでツーアウト。そして素早く一塁への送球が流れるように行われた。
綺麗なダブルプレーかのように見えたが、打球の緩さと飛んだコースが幸いし、一瞬の差で一塁はセーフ。その間に三塁ランナーが悠々とホームを踏んでいた。
(くそ……)
北野は思わず唇を噛んだ。
(打ち取っていた打球だったのに)
ツーアウトにはなったものの、ゲッツー崩れの間に1点を失った。スコアボードのシーサーペンツ側に数字が加わる。
再びシーサーペンツが1点リード。
球場のシーサーペンツファンから歓声が上がり、アルビオンファンから悲鳴が上がった。
北野はマウンドの上で帽子を脱いで、ぐるりと空を見上げた。
(また1点やっちまった……)
悔しかった。完璧に打ち取ったはずの打球で1点を失う。それが今日2度目だ。
だが今日の試合はそういう試合なのだとも思った。一分一厘も気を抜けない、一球一球に全てをかけなければならない試合。それがプロの試合というものなのかもしれない。
(ふぅ……1つ勝つってのは、こんなに苦しいもんなんだな……)
それでも北野はすぐに気を取り直した。
(まだ終わっていない。まだ2アウトだ。追加点を与えるな。集中しろ)
内野手たちが素早くマウンドに来て次々と声をかけた。
「引きずるな。2アウトだぞ。確実にアウトを取っていこう」
「ここが踏ん張りどころだ。頑張れ」
「次を抑えれば8回は終わりだ。9回に逆転すればいい。それだけだ。俺たちに任せろ」
北野は短く頷いた。
(ありがとう。みんな、ありがとう)
北野は思わず泣きそうになった。こんな場面で泣いている場合ではないのに、どうしても胸の奥が熱くなる。長く野球をやっているけれど、味方の存在をこれほど頼もしいと思ったのは初めてのことだった。
次の打者が打席に入った。今年キャリアハイの成績を残している7番打者。この日も1安打を放っている。
(厄介だな。でも、関係ない。俺は俺の球を投げるだけだ)
カウント1ボール1ストライクからの3球目、神谷からのサインはスローカーブ。
北野が頷く。セットポジションから足を上げる。腕が振られた。
大きく弧を描くスローカーブが外角低めに落ちていく。
打者は思わずバットを出した。
だがボールは彼が思っていた以上に大きく曲がって落ちた。バットの先っぽにしか当たらなかった打球はサードの方向に高く上がった。
「サード!」
サードがファウルゾーンに向かって全力疾走した。フェンスまであとわずか。サードは最後の一歩を踏み出しながら、グローブを懸命に差し出した。が、同時に激しくフェンスに激突し、反動でもんどりうって倒れた。
「ボールは?」
倒れたサードはそのままグラブを上に掲げる。グローブの中に白球が掴まれているのがハッキリと見えた。
「アウト!」
3アウト。チェンジ。
スタンドが沸いた。サードの闘志あふれるプレーにアルビオンファンが総立ちになって声援を送っている。
北野はサードに感謝しつつマウンドを降りながら、静かに息を吐いた。
(1点は与えた。でも最小失点で抑えられた)
サードが走り寄ってきた。
「ナイスピッチング! 最小失点で抑えたぞ!」
「ありがとうございます。今のファインプレー、助かりました」
「なーに、オマエが投げ続けているから俺たちも頑張れるんだよ。9回は絶対に逆転するから、もう一踏ん張りしてくれ」
北野は深く頷いた。
ベンチに戻ると、チームメイトたちが一斉に声をかけてくれた。
「よく抑えた北野!」
「最小失点だ! 9回に逆転するぞ!」
「まだ終わってない! 絶対に逆転してやるからな!」
北野はタオルを受け取って汗を拭いた。
あらためてスコアボードを見ると、やはりシーサーペンツが1点リードしている。夢でもなんでもなく、それはやはり現実のことだった。
9回表。アルビオンの攻撃。
マウンドに向井の姿はなく、クローザーが投球練習を行っている。
(向井さん、替わっちゃったのか。もっと投げ合いたかったけど……)
実はこの時、9回の登板について向井と三原監督の間でひと悶着あったのだが、もちろん北野はそんなことは知らない。
北野はタオルで汗をぬぐいながらベンチの端に腰を下ろした。
(みんな、お願いします。絶対に逆転してください)
心の中で皆が逆転してくれることを願いながら、膝の上で静かに拳を握りしめた。
試合はいよいよ最終回を迎える。




