8回裏
北野がマウンドで熱投しているその最中、一足先に春香のアリーナライブが終了した。結局アンコールを3曲も歌ってしまったが。
アリーナという大きな会場で初めて行うライブだったので不安もあったが、終わってみれば大成功だった。
総てを終えて舞台袖に下がってきた春香に向けて、スタッフが一斉に大きな祝福の拍手を送った。春香は興奮冷めやらぬといった様子で若干涙ぐみながら、周りを囲むスタッフたちの拍手と祝福の声に丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「みなさんのおかげです」
「こんな大きなステージを成功させることができて嬉しいです」
本当は疲れてクタクタなはずなのだが、それでもそんな素振りを微塵も見せずに春香は1人1人の手を握りながらお礼を述べていった。
彼女と出会ってからスタッフ達は知ったことがある。この世には誰からも好かれる人間が本当にいるのだということをだ。
椎名春香というこの女の子のために、彼らは全力を尽くしライブを成功に導いた。このコのために。
控え室に戻った春香たちは、中に入った途端3人で抱き合って喜んだ。
「春香! よかったね。最高のライブだったよ。今までの苦労が報われたね」
「ありがとう、小春ちゃん」
「春香さぁん……」
雪乃は感激のあまり涙ぐんでいた。
「泣かないで、雪乃ちゃん。私にも涙が移っちゃうよ」
しばらくの間ライブ成功の余韻に浸っていた3人だったが、やがて小春が思い出したように声を張り上げた。
「あ、そうだ。春香! テレビ、テレビ点けなくちゃ。北野さんの試合、どうなったか見なくちゃ」
そう言われて、春香は慌ててテレビを点けた。写った画面には8回裏のマウンドに上がるため準備をしている北野の姿が一瞬写り、すぐにCMへと切り替わった。
「1対1の同点なんだ……」
「北野さん、頑張ってるんですね」
「勝てるといいなぁ……」
(北野さん、頑張って。私ちゃんと見てるよ。私のライブは大成功だったよ。だから北野さんも勝って)
祈るような気持ちでテレビを見ていたその時、控え室を誰かがノックした。マネージャーの田村だった。
「おい春香。何してるんだ! 行くぞ!」
「えっ? えっ? 行くって、どこにですか?」
「決まってるだろうが。新横浜スタジアムだよ。行きたいんだろう?」
「えっ? で、でも。自分だけさっさと帰るなんて」
「スタッフの総意なんだよ。じきにタクシーが来るから今すぐスタジアムに行くぞ! 早く用意しないと試合が終わっちまう!」
スタッフの皆が望んでいることだと田村は言う。本当だろうか。今回のライブを成功させたのは自分の力だけではなく、関わった人間総ての協力があったればこそだ。
「そりゃ行きたいですけど、でもまだみなさんは仕事があるのに……スタッフさんたちに失礼なんじゃ」
「だからみんなの総意だって言ってるだろうが。早く用意しないと車が来ちまうぞ」
春香と田村が揉めていると、スタッフの1人が春香を呼びに来た。
「椎名さぁーん、車来ましたよ……って、2人とも何してるんですか?」
スタッフが首を傾げているのを見て春香が事情を説明すると、そのスタッフは「何だ、そんなことですか」と言って笑いだした。
「椎名さん、それはマネージャーの田村さんが言う通りですよ。誰も椎名さんがスタジアムに行くのを反対なんてしてませんから」
「えっ、で、でも、どうしてみんな私がスタジアムに行きたいって知っているんですか? 誰にも話していないのに」
「そりゃあ田村さんがみんなに頭を下げて説明したからですよ」
スタッフはそう言ってニヤニヤしだした。
「えっ? マネージャーさんがそんなことを?」
「そうですよ。スタジアムに行かせてやりたいから、ライブが終わり次第すぐに会場を出るけど許してやって欲しいって、一人一人全員に頭下げて回ってたんですから。知らなかったんですか?」
春香はそんなこと知らなかったし気づきもしなかった。自分の知らないところで田村がそんなことをしてくれていたなんて。
「まあそういうわけですから、気にしないで早く行ってください。タクシー待たせてありますから」
「……そういうことだ。みんなが快く送り出そうとしてくれてるんだから遠慮なんかすんな。ほら、行くぞ!」
「で、でも、まだシャワーも浴びてないし」
「そんなこと言ってる場合か!」
春香は小春と雪乃の方に視線を移した。2人とも力強く頷いていた。
「春香! 早く行っといで」
「そうですよ。北野さんが初勝利する時は、そこに春香さんがいなきゃダメですよ」
「……2人とも、ありがとう。田村さん、すぐ支度しますから」
春香はすぐに荷物をまとめ始めた。
(北野さん、待っててね。今行くから。北野さんが初勝利をあげるところ、私ちゃんと見に行くからね)
北野はきっと勝つ。
その時にはその場にいたいと春香はずっと思っていたが、今日ライブと試合が重なったと知った時点でそれは半ば諦めていた。
それがみんなの気遣いで叶うことになったのだ。一刻も早くスタジアムに行きたい。彼女の心はもうすでに北野の元へと飛んでいた。
神谷の一打で同点に追いついたアルビオンだが、残念ながら逆転とはいかず、試合は同点のまま8回裏を迎えた。
しかし、疲れの見え始めた北野にシーサーペンツ打線が牙を剥き始める。
「なかなか厳しいな」
神谷がそう言った。8回裏。シーサーペンツは疲れの見え始めた北野に容赦なく喰らいついた。
「同点の場面で1アウト満塁だからな。確かに厳しいわ」
苦笑いを浮かべながら北野がそう答えた。内野手が全員マウンドに集まっている。
「心配すんな。打たせりゃいいんだ、打たせりゃ」
「そうだぜ。なにも三振に取る必要なんかないんだからさ」
「打たれたって俺らが守り切ってやるさ。安心しろや」
皆が口々に北野を励ます。
そしてそれは、ベンチも同じだった。
「監督、どうします?」
ヘッドコーチが水原監督にそう問いかけた。
「どうするって、何がだ?」
「いや、本当に北野をこのまま投げさせるんですか?」
「もちろんさ。そう言ったろう?」
「しかし、明らかに北野は限界に近いですよ。このままじゃ逆転されてしまいます」
「だから、それでもかまわんのだよ。もうこの試合の勝ち負けはどうでもいい。大事なのは北野がこの試合で一皮むけて成長できるかどうかなんだから」
「しかし、だったらここで北野に喝のひとつも入れたらいかがです?」
「ふむ、そうだな。それはもっともだ。ならばこうしようか」
水原からある提案を告げられたヘッドコーチは当然のように反対したが、水原は聞く耳を持たなかった。しぶしぶながら彼は、投手コーチに監督の意向を伝えたのだった。
新横浜スタジアムのブルペンは外野スタンドの裏にあるが、そこへの出入りはグラウンドからする。当然誰が入って誰が出て行ったか丸見えだ。
1アウト満塁のピンチを迎えマウンド上で北野を中心に内野手たちが輪になっていると、突然球場内がどよめき始めた。ブルペンに控えていたアルビオンの3人の投手が全員ベンチへと戻り始めたからだ。
3人とも肩に自分のバッグを背負っている。
「どういうことだ?」
やがてベンチから投手コーチがマウンドに向かって歩いてきた。
「わかってるだろうが、交代はしないぞ。そして監督からの伝言だ。もうオマエを替えるつもりはない。だからブルペンの連中も全員ベンチに下げる。何十点取られても最後まで投げきれ。以上だ」
この高揚感をなんと表現したらいいのだろう。北野は生まれて初めて気力が沸いてくるという体験をした。
監督はこの試合を本気で自分に任せてくれたのだ。その期待に応えなければ男じゃない。
「いけるな?」
「もちろんです。任せてください」
北野の目がやる気に満ちていることを確認したコーチは、一言二言アドバイスをしてベンチに戻っていった。この場面であれこれ多くを語っても始まらない。
「これはまたずいぶん大胆なことを」
シーサーペンツのベンチでは、三原監督が敵将の行いに舌を巻いていた。投手にとってこれほど効く喝はそうないだろう。だがそうそうできることではない。
「こんなことをして、万が一アクシデントがあったらどうするつもりなんでしょう」
若生コーチもまた敵将の采配に驚きを禁じえない1人だった。
「その時はその時だと腹をくくったんだろう。そういったリスクに総て目をつぶって北野に任せたんだ。アイツにとってはこれ以上ないほどの励ましになるだろうさ」
これで北野は息を吹き返すかもしれない、と三原は思った。
(追加点は望めないかもしれんな)
投手コーチがベンチに戻っていくのを見送ると、北野はもう一度マウンドの土を足で均した。
状況は1アウト満塁。球場全体がざわめいていた。
シーサーペンツファンからは不安と期待が入り混じった声が上がり、アルビオンファンからは「北野!」という声援が飛んでくる。
「オマエ、まだ春香ちゃんの歌、歌ってるよな」
突然神谷がそんなことを口にした。
「ああ。それがどうかしたか?」
「音、ズレてんぞ。彼女の曲ぐらい、サビまでちゃんとしっかり歌え」
もちろんマウンド上で歌っている北野の音程が外れているかどうかなど、キャッチャーの神谷にわかるわけがない。
だが北野は、彼がそんなことを言った意味を察していた。神谷もまた監督と同様に自分に向かって檄を飛ばしているのだと。
「そんな音痴じゃねえよ」
苦笑いを浮かべながら北野がそう答えると、周りを囲んでいる野手たちから笑いが起こった。彼らもまた、北野がマウンド上で何かを口ずさんでいるのを不審に思い本人に尋ねていたからだ。




