意地と意地
この場面で打席に立つシーサーペンツの上条は、4番の小松とともに長くクリーンナップを務める打線の中心を担う3番打者だ。
今シーズンは打率3割2分、ホームラン31本、打点102というキャリアハイの数字を残しており、それはどれをとってもリーグトップクラスの数字を誇る。
「優勝したらMVPは上条かもしれない」
ファンからも評論家からも、そうした声は多い。それほど今シーズンの上条は活躍したのだ。
そんな彼は、今日も2打席全てで粘り強く北野と対戦している。まだヒットは出ていないが、両打席ともフルカウントまで持ち込んでいる。
(キャリアハイの成績を残しただけはあるってことか。小松さんとは違う意味で怖い人だよな)
小松が必殺仕事人的な雰囲気なのに対して、上条は先手必勝で自ら動いていくタイプだと北野は感じていた。だが、いずれにしろ厄介な相手に変わりはない。
「ふぅ」
北野は思わずため息をついた。簡単に勝てるわけはないと当然考えていたが、自分の想像以上の試練が次から次へと押し寄せる。
(この場面でクリーンナップだもんな。俺、なんか罰当たりなことしたっけか?)
もちろんそんなことは何の関係もないだろう。これは、ただ単に成功を手にする前に立ちはだかっている試練。それだけのことだ。
だが、だからこそ、ここを抑えきれれば俺も本物だという気持ちもあった。本物になりたい。北野は心からそう思っている。
神谷からサインが出た。ストレート。まず相手の反応を見る意図だろう。
北野はセットポジションから静かに足を上げた。腕が鋭くしなり、ボールが放たれる。
インコース高めのストレート。
上条は一瞬動いたバットを止めた。ボール。審判の判定はやはり辛かった。
(今日の主審は、なんか判定が俺に辛いよなぁ)
北野は内心でそう愚痴ったが、しかしそれも引きずるようなことではない。人間である審判による判定のズレは想定内のことで、それでいちいちイラついていたらピッチャーなんかやっていられない。
(だったら文句のないところに投げてストライクと言わせりゃいいだけさ)
むしろ闘志を掻き立てられる北野だった。
神谷が素早く出した次のサインはスローカーブだった。
ストレートの後にスローカーブ。緩急で揺さぶる基本的な配球だ。
だが上条はこれまでと同じく動じなかった。大きく曲がってくる北野独特の軌道を描くスローカーブを冷静に見極めて見逃した。
だが判定はストライク。
カウントはワンボール、ワンストライク。
上条の目がスゥっと細くなった。次は何が来るか。慎重に見極めようとしている。それが北野にもわかった。
(そうだよな。ここまで2打席俺と対戦して、ある程度わかってきてるはずだ)
だがわかっていても打てないのがパラシュートチェンジだ。
神谷がサインを出した。パラシュートチェンジ。北野は深く頷いた。
セットポジションから足を上げ、腕しなるように腕が振られる。
ストレートと全く同じ腕の振り。上条のバットが動く。
だがボールは急激にブレーキをかけて、左右に揺れながら落ちていく。
バットは空を切った。いや、違う。
「ファール! ファール!」
審判のコールが場内に響いた、三振ではない。ファールだった。
しかし上条のバランスが完全に崩れていた。
(あんな体勢なのに、それでもバットに当てんのかよ)
さすがの反応だと北野は思った。
ツーボール、ツーストライク。次が勝負だ。
神谷がタイムを取ってマウンドに向かった。
「どうする?」
「ストレートでいく。インコースに思い切り投げ込んでやる」
神谷は少し驚いた顔をした。
「パラシュートチェンジじゃないのか?」
「上条さんもそう思ってるはずだ。だったらストレートで詰まらせる」
神谷は北野の目を見た。迷いが一切ない。
(なるほど。こいつ、ちゃんと頭を使って投げてるな)
神谷は頷いてポジションに戻った。
スタンドの声援がさらに大きくなっていた。シーサーペンツファンの怒号にも似た応援と、左翼外野のアルビオンファンの必死の声援が入り混じって、マウンドに立っているのに球場全体が揺れているような錯覚を覚える。
北野はその声を全身で受け止め、マウンドの上で静かに息を整えた。
(落ち着け。今日勝つために俺はずっと頑張ってきたんだ。思い出せ、今までのことを)
育成枠として入団した日。
誰にも注目されなかった日々。走って走って走り続けた練習場のグラウンド。
イップスで思うように投げられなかったあの苦しい時期。
真鍋が引退した日の、あの悔しさ。
足首を骨折して、手首を骨折して、それでも諦めなかった。
そして移籍。
福岡での新しい出発。
全ての苦労は今日のためのものだ。今日ここで勝つためのものだ。
(だから絶対に、ここで負けるわけにはいかないんだよ。約束したんだから)
北野はゆっくりと足を上げた。
ストレート。渾身の一球をインコースへ思い切り叩き込む。
上条は次もパラシュートチェンジが来ると読んでいたため、少しだけ始動を遅らせた。そう決めていた。
だがボールは上条の手元まで一切曲がらずに向かってきた。
(しまっ……!)
完全に差し込まれた。
バットの根元に当たった打球は力なく転がり、サードへのゴロになった。
サードがしっかりと捕球して、素早く一塁へ送球する。
「アウト!」
しかしランナーは三塁まで進んだ。ツーアウト三塁。球場のどよめきがさらに大きくなる。ランナーが三塁まで来た期待感に膨らむシーサーペンツファンが声を張り上げた。
アルビオンのベンチから声が上がった。
「ナイスピッチング北野! あと一人だ!」
「最後まで投げ切れ!」
北野はグローブで口元を隠して、静かに息を吐いた。
(よし。上条さんを抑えた。でもまだ終わっていない。次は小松さんだ)
腕が限界に近づいている。7回裏まで投げ続けてきた腕は、もう悲鳴を上げ始めている。やはり練習と実戦は違う。実戦では、スタミナは想像以上に減っていくのだ。
それでも北野は降りるつもりなど全くなかった。
だが、このタイミングで水原監督がマウンドに上がってきた。
「えっ! マジか!」
「ここで交代!?」
誰もがそう考えた。ここで北野を交代させるのだと。
「北野っ!」
水原監督が北野を呼んだ。
厳しい、しかしどこか力強い声だった。
「はい。なんですか、監督」
「この試合、オマエにやるわ」
「はぁ?」
意味が分からず戸惑っている北野に、水原はもう一度言った。この試合をオマエにやると。
「お前はここまで最高のピッチングをしてきた。それはわかってる。だがな、最後の一人を抑えてこそ完投勝利なんだ。腕が重かろうが足が動かなかろうが、最後まで諦めるな。お前ならできる。やってみせろ!」
水原は言葉を続ける。
「この試合、もうリリーフは出さん。オマエが何十点取られてもな。ここまで来たら最後まで、たとえ12回まで行っても1人で投げ抜け。いいな?」
マウンドに集まった内野手全員が驚愕の表情をあらわにした。だが次の瞬間には納得の表情に変わる。
もともとこの試合の勝ち負けはチームの順位には何ひとつ関係がない。言うなれば北野のための試合のようなものなのだから。
わかりましたと返事はしたものの、正直半信半疑の北野だった。最後までとなったら最長で12回まで投げるということだ。れほど長いイニングを投げたことは今までに一度だってない。スタミナ不足の不安はもうなくなったとはいえ、果たして投げきれるのだろうか。
「……監督も思い切ったな」
ベンチに戻る水原の背中を眺めながら、野手の1人がそう言った。
ここまできたら北野と一蓮托生ということか、と神谷は思った。
だがしかし彼は水原監督のその策に賛成だった。来シーズンのために北野のケツを叩いているんだろう。目先の試合の勝ち負けではなく、北野というピッチャーの成長を第一に考えているからこその続投だ。
「いいじゃねえの。俺らが絶対点取ってやるから、勝とうぜ」
「……ああ、そうだな。投げきってみせるよ」
ここから先のイニングは今まで以上に厳しくなるだろう。だがもうやるしかない。
「北野! 頑張れ!」
「あと一人だ! お前ならできる!」
「最後まで投げ切れ、北野!」
チームメイトたちも一斉に声を上げた。その声が重なって、波になって、北野を包み込む。
北野は一度だけ深く息を吸い込んだ。
(ありがとう。みんな、ありがとう)
胸の奥に何かが込み上げてきた。
野手たちが守備位置に戻り、 北野は静かにマウンドの土を足で均した。
(春香さんのライブはもう終わったかな)
ふと春香のことを思い出した。時間的にはもう終わっているはずだ。今頃テレビで見てくれているだろうか。それともラジオを聴いているだろうか。
(勝つ。絶対に、勝つ)
次に会うのは初勝利をあげた後だ。そのためには何がなんでも投げ抜いて勝ってやる。北野はそうやって自らを奮い立たせた。




