第九試合 1.控室前
試合会場へと通じている廊下で、猫渕空太は飲料水のペットボトルなどが入ったバケツを手に持って、所在なく立っていた。
ブルームーンジムが懇意にしているアマチュア格闘技団体。その主催大会のMMA試合に出場する予定の松浦譲二が、とある控室のドアを睨みつけている。
試合順的にそろそろアナウンスされてもおかしくない頃合いなのだが、当の本人はさっきからずっとこんな調子だ。溜め息をつき、不本意ながらも、空太は声をかける。
「おい、譲二。いつまでもそんなものを見てないで、自分の試合のことに集中したらどうだ」
譲二がこめかみに青筋を立てながら、振り向く。全身から熱気が発せられているのは、今しがた終えたウォーミングアップだけが理由ではないようだ。
「だってよ……、これを見たか?」
指し示している指の先、控室のドアに貼られた選手名の貼り紙を見やる。そのA4サイズの白い用紙には、「楢尾“KISS”俊広」と書かれていた。
「楢尾さんも出るんだな。それがどうかしたか? 今日の試合はそいつとの再戦じゃないぜ」
先日の譲二のアマチュア格闘技デビュー戦、その相手が楢尾俊広だったのだ。譲二の反則負けという裁定が下されたものの、楢尾側の行為にも問題があったとみなされて、後日、ノーコンテスト(無効試合)に変更されている。
つまり、二人の間には浅からぬ因縁ができているといっても過言ではない。しかし、今のところ、再試合はまだ組まれていなかった。
「そんなのはわかってる! 俺が言ってるのは“KISS”っていうところだ!」
声を荒げる譲二。周囲のスタッフ数人がびくっとしたのに気づいて、譲二が心持ち、声を落とす。
「この“KISS”っていうリングネーム、どう考えても……」
「おまえとの試合で起こしたいざこざからとって付けたんだろうな」
「だよな!?」
譲二の楢尾との試合、そして反則負けの内容というのが、レフェリーによるルールの最終確認の場で、睨み合っていた楢尾が突然キスをしてきて、譲二が思わず殴り返してしまったというものだ。
空太は再度、貼り紙の楢尾“KISS”俊広という文字を眺める。カタカナじゃなくて、英語のスペルなところがかっこいい響きになっていると感じなくもない。
格闘技の試合で口づけ行為をしただけでも前代未聞なのだが、それだけに留まらず、自身のリングネーム(及びキャラクター)にも展開しようとするとは、セルフプロモーションに余念のない男である。楢尾がどこへ向かおうとしているのか、いささか不明なのが気になるところではあるが……。
「好きにさせりゃいいじゃねえか。人のリングネームの一つや二つぐらい」
「よくねえよ! あの事故映像が、楢尾のプロモーション映像に繰り返し使われるかもしれないんだろ!?」
言われて、空太は想像してみた。キスシーンが何度もカットインされ、「相手がいい男だったら、またやるかもしれないですね」というモノローグと共にスローモーションで流されて……。確かに、それはしんどそうだ。
「ちくしょう。ダイレクトリマッチを組んでもらって、リングネームの変更権を賭けるように提案すればよかった」
譲二がそう悪態をつく。
ダイレクトリマッチというのは、他選手との試合を挟まずに即、同じ相手と再戦をすることである。前回の対戦が接戦だったり、微妙な判定決着になったりして、少しの差で勝敗が入れ替わっていてもおかしくなかった場合に行われることが多い。
その提案って、もし負けたらこっちのペナルティはどうなるんだ、と空太は思った。譲二の方も、松浦☆自演乙☆譲二とかになってしまうのだろうか。それはそれでおもしろそうだが。
と、会場から歓声が聞こえてきた。空太は通用口に垂れ下がっていた暗幕をめくる。
勝者となったらしい美濃部育大がリング上で、ロープ越しに観客へ向かって、「オイッ、オイッ、オイッ、オイッ!」と何度も拳を突き上げている。美濃部自身が命名している勝利パフォーマンス、スタンディング・リアル・フィストだ。
「美濃部さん、勝ったみたいだ。恒例の掛け声をして会場を盛り上げてる」
「そうか、さすがだな」
美濃部の試合が終わったということは、間もなく譲二の試合ということだ。ふざけたキス野郎のことはいったん忘れて、切り替えてもらわなければならない。
空太は振り返る。譲二は既に戦士の顔になっていた。
心配は杞憂だったようだ。ふん、と空太は鼻を鳴らす。
見上げた闘争本能だ、と思う。こいつのこういうところだけは認めざるをえなかった。
生きるか死ぬかの戦いを何度も体験してきたのでもなければ、このような顔つきはできそうにない。いったい、今までどんな修羅場をくぐり抜けてきたというのか。
「美濃部さんのセコンドについた会長と剣崎さんが、そのまま続けておまえのセコンドにもついてくれる。無駄にすんじゃねーぞ」
「ああ、わかってる」
プロレスラー見習いの身で、総合格闘技について助言をするつもりは毛頭ないのだけれども、このぐらいの野暮は許されるだろう。
空太はジムへの帰属意識が薄い譲二を特段、仲間だとは思っていない。思っていないが、同じ釜の飯を食っているよしみで、肩入れすることはやぶさかではない。
何せ、今日の対戦相手はあのドミニク・フライなのだ。ここでの戦績にまだ傷がついてない猛者で、美濃部が言うには駐留合衆国軍の退役軍人。誰もが恐れをなして退治に名乗りを上げないような外敵に、譲二は迷いなく志願をした。
空太は驚嘆したし、光次郎会長も最初は翻意を促していた。が、譲二は頑として譲らなかったのだ。あたかも、これが己の進むべき道なのだとでもいうかのように……。
圧倒的不利な格差マッチ。ランキング上位の選手と一ヶ月練習しただけの芸能人が対戦するが如く実力に大きな開きがあり、敗北は必至。
だが、ただでは死なせない。ブルームーンジムの総力を挙げて支援し、ドミニク・フライの鋼の肉体に何としてでも爪跡を残してやる。
それがジムの総意である。なればこそ、空太も骨を拾ってやることに否はなかった。




