第八試合 2.歩道
譲二の顔を見てとり、寧々は嘆息する。ごまかしはきかないようだ。
まさか、関わりの深くない彼に気づかれるとは思わなかった。空太のやつが余計なことを吹き込んだのかもしれない。
「……私のお母さんは、光次郎おじさんの妹ということになるんだけど」
いつまでも車道に突っ立っていては危ないことこの上ないので、自転車を押して歩道へ移動する。譲二もついてきて、寧々がブルームーンジムの方向へと自転車の向きを変えたため、彼と歩道で向かい合う形になる。
「お母さんは光次郎おじさんとずっと仲たがいしてるんだよね」
感情を込めずに呟く。心が冷えていく感覚があった。
動揺する譲二の姿を見て、寧々は少しだけ留飲を下げる。けれども、直後、胸中に自己嫌悪が広がっていった。
「ブルームーンジムを建てるとき、住宅ローンの審査で光次郎おじさんの返済能力が懸念されたみたいで、ジムに抵当権を設定するだけでは不十分だと言われちゃったの。それで、頼み込まれて仕方なく、お母さんが連帯保証人になったんだ」
プロレスラーは収入が不安定な職業だからね、と付け加える。ましてや、光次郎は中堅どころのレスラーなので、給与やファイトマネーの額もそこまでよいものとはいえなかったそうだ。
「でも、案の定、光次郎おじさんは途中からローンが払えなくなって、結局、私のお父さんとお母さんが肩代わりしたって聞いてる」
借金や相続問題然り、家族間の金銭トラブルは親子や兄弟姉妹にたやすく亀裂を入れる。そもそも、母と光次郎が元から良好な関係だったのかどうかもわからないのだ。
「こんなところで立ち止まってたら注目を浴びそうだし、歩いていこ」
寧々は自転車を押して歩き、譲二を促す。通行人はほとんどいないけれども、だからこそ逆に目立ちかねない。
スケートボードを脇に抱えた譲二が先導するような並びで、二人はジムへと戻る道を歩いていく。目線こそ交わらないものの、彼の背中は寧々に意識を向けたままだとわかる。
冷え込む心に比例するかのように、外気は小雪という節気に偽りなく、徐々に初冬の冷寒を連れてきている。そういえば、早朝は時々、吐息もわずかに白くけぶるようになってきた。
「……他にも、光次郎おじさんがまだ駆け出しの頃、収入が手売りのチケット代だったから、お母さんが知人の分も含めて何枚か買ってあげていたんだって」
沈黙を埋めるように、寧々は母の回想話やおぼろげな記憶を語っていく。
「なんなら、光次郎おじさんが試合で怪我をしたときも、お母さんが病院にかり出されて、当座の入院費用を支払っていたんだから」
そのときの母親の態度がどんなだったか、寧々はもう思い出せない。ただ、面会した光次郎の入院着やギプスが痛々しくて見ていられず、次からは一緒についていかないでロビーや車の中で待っていたのを覚えている。
幼かった頃は無邪気に、プロレスラーの伯父を誇らしく思っていたこともあったかもしれない。でも、大きくなっていくにつれて、あの人の身勝手さや経済観念の不足が目につくようになってきた。
何より、母がしわ寄せを受けて苦労してきたのだ。娘であり、母親の一番の味方でもある寧々が、光次郎と距離を置くようになったのは無理からぬことである。
「お母さんは光次郎おじさんのことを嫌ってる。家でも私に『あの人の話はしないで』と言ってくるし」
「なら……なんでジムを手伝っているんだ? 逆に疎遠になるのが普通なんじゃないのか」
譲二が振り返って、こちらの矛盾した行動を指摘してくる。諦観の思いで寧々は目線を下げた。
この返答で、彼の中で像を結んできた寧々の虚像が砕け散るに違いない。だが、かまうものかという投げやりな気持ちが勝っていた。
「……私は、これまで好き勝手やってきてお母さん達に散々迷惑をかけた光次郎おじさんが、全てを失って落ちていくところを近くで見ていたいだけ」
戦時下での自粛と、物資の一部を軍需生産に割り当てかつ人的資源を動員するために、プロレスの興行は大半が制限の憂き目に遭っている。
そうして厳選された大会にはメジャーな選手が集結するため、中堅レスラーでしかない光次郎に出場の打診が来ることはほとんどない。つまり、ファイトマネーがゼロに近くなるということだ。
加えて、ブルームーンジムの練習生も退会が相次いでいる。副収入のジム会費までもが激減しているのだ。
このままいけば、いつか光次郎はブルームーンジムを畳まなければならなくなるだろう。伯父の夢の終わり、それを目の当たりにしたとき、どんな気持ちになるのか寧々は想像もつかない。
「……本気で言っているのか」
立ち止まり、剣呑さを帯びていく譲二の表情。先の発言で幻滅されたようだ、と胸にちくりとしたものを感じる。
だけど、同時に少し嬉しくも思った。だってそれは、光次郎会長が新参の彼にも慕われているということだから……。
どうにもうまく整理できない感情に蓋をして、寧々は殊更に悪ぶってみせる。顔を上げて、その視線を真っ向から見返した。すると、
「……いや。親族間のことに、部外者が口を出すことじゃなかったな。すまない」
と譲二が謝ってきたので、やや拍子抜けしてしまう。
彼には責める資格が十分にあるのに、と思う。それだけの、軽蔑されるべき醜いことを口にしたのだという自覚が寧々にはあった。
「ただ、一ついいか。……現在も仲たがいしているのはお金が原因だと思ってるなら、それは違うんじゃないか」
「……え?」
「会長はおまえの母に返済を履行しているよ」
寧々は目を見開く。打ち明けられたその事実に、雷に打たれたような衝撃を受けていた。
「ジムの光熱費や大会への参加費など銀行振り込みの仕分けを空太と一緒にやっているから、おまえの母宛てに送金をしていることも確認できている。間違いないと思う」
「ど……どこにそんなお金がっ」
自分の声がうわずっているのがわかった。当然だ。もし返済が本当ならば、寧々は思い違いをしていたことになる。
だが、ありえない。光次郎の収入経路は大半が休止状態で、なけなしの貯蓄も生活費のために切り崩されて先細りしているはず。
何か別の就労をしている様子も見受けられない。そんな伯父が、まとまった金を工面できるわけがないのだ。
「そうだよな。正直、そこら辺は空太も俺にもわからないんだ」
「なら、どうしてっ……。どうして、光次郎おじさんとお母さんは……」
百歩譲って、返済が実行されているというならば、二人の関係も改善に向かっていていいはずだ。それなのに、未だに修復されてないように見えるのはいったいなぜだというのか。
一度入ってしまったヒビは、完全には元に戻らないということなのか。あるいは、この問題は寧々が思っているよりももっと根深い何かがあるのか。
譲二が口を開きかけて、押し黙る。寧々は直感的に、もしかしたら彼はその解についても聞き及んでいるのかもしれないと悟った。
「言ってよ!」
つい声を荒げてしまう。彼の方が部外者なのに、なぜ当事者の自分はのけ者にされているのだという不平に、カッとなってしまった。
「……この間ついに退会届を出していった古株のプロ会員がいただろ。その人が前に教えてくれたことがあって、おまえ、幼少のときにプロレスラーになりたいと言って会長を困らせていたそうだぞ」
「……覚えてない」
寧々はそう返すのがやっとだった。「だろうな」と譲二。
でも、まだ幼かった時分に光次郎の練習風景や試合を見ていれば、所詮子供なので、そう口にしたことがあっても不思議ではない。ブルームーンジムで遊ばせてもらっていた記憶は枚挙にいとまがないのだから。
「で、これもその人からの又聞きなんだけど……。女の子のおまえを格闘家という大変な道に歩ませたくないと考えたおまえの母は、会長と話し合って、姪への接近禁止をお願いしたそうなんだ」
子にはできれば苦労してほしくないという親心だろう、と譲二が付け加えてくる。
「会長はそれを了承し、以降、おまえの家族と伯父の交流は断絶したという話みたいだな」
「嘘よっ……嘘っ……」
寧々は愕然としていた。よもや、伯父と母の絶縁の理由が自分にあったなんて。
もしそれが真実だというならば、光次郎への反感は筋違いであり、申し訳が立たなさすぎる。身の置きどころがないというのは、まさにこのことだ。
「こ、光次郎おじさんはいつも……私に関わろうとはしなくて……。借金をしているところの娘だから、私は腫れ物扱いされているんだとばかり……」
「会長はおまえのことを愛しているさ。確かに言葉はなかったかもしれないけど、おまえがジムに通ってくるのを許容している。……これが会長とおまえの母の雪解けの証左じゃなくて何だというのか」
譲二が断言する。かつてあったかもしれないわだかまりや不和は時間が洗い流してくれて、今ではもう優しさに変わっているはずだと。
寧々はもう何も言えなくなっていた。目元に涙が溢れてきて、自転車のハンドルをぎゅっと握ったまま、俯く。
そうなのだ。思い返せば、光次郎伯父はこちらの態度がどうであろうと、いつも寧々のことを気にかけてくれていた。寧々が屋外トレーニングの補助を買って出るようになってから日傘などを常備したり、遅くなって外が暗くなったら空太や詠美トレーナーに途中まで送るようにと指示をしたりしていたのだ。
いつだって、子供は親の心を知らない。しかし、親達はいつも人知れず、子を思っている。自分の愚かさ加減に、後悔の波が押し寄せてきて溺れそうになる。
「……ごめん。俺なんかが勝手に言っちゃってよかったのかわからないけど……、つまらない誤解で家族に悪感情を抱いたままっていうのはもったいないと思うから……」
ジムに戻ろうか、と譲二が再び歩き始める。しかし、寧々は足を動かせなかった。
譲二がちらっと振り向いて、こちらを見かねてか、ふっと表情を和らげる。
「……俺、実は空太に勧められてさ、会長のプロレスのビデオを見たんだ。フェイバリットのムーンサルトプレスを目の当たりにして、もう一目でファンになったよ」
そして、唐突にそんなことを言った。
「たぶん、生で見ていたおまえの母はもっと、そうだったんじゃないかな……」
寧々ははっとする。いつだったか押し入れの中で見つけた、プロレスの古雑誌の切り抜きが丁寧にしまわれていたクリアファイルブックを思い出す。
母の胸の奥底にある、本当の想い……。嫌気が差しながらも、決してそれだけではなく、その裏返しといえる憧憬や誇らしさもまだ残っているのかもしれなくて。
(……私も、お母さんと同じなんだ……。憧れて、失望して……。でも、やっぱり気になって……)
晩秋の風に吹かれ、母娘で同じ感情の起伏を辿っていたことに数奇めいたものを感じて、寧々は呆然と立ちつくしていた。




