第七試合 5.携帯電話
譲二は夜の道を急いで走っていた。等間隔に並んだ街路灯の、今にも切れてしまいそうな弱々しい光によって、歩道が青白く照らされている。
携帯電話を開いて、画面に表示された時刻を確認する。待ち合わせに遅刻するかしないかのぎりぎりの時間だった。
ちなみに、この携帯電話端末は譲二の所持品ではない。身分証明書を持たず、まとまった金もないため、通信契約や端末の購入ができる道理があるはずもなかった。
約束に遅れそうだと慌てて準備をしていたところに、空太が「連絡が必要だろ。ほれ、持ってけ」と貸してくれたのだ。「一つ貸しだかんな」とも付け加えてきたのだが……素直にありがたかった。
(もう先に着いて待っているかもしれない。やっぱり連絡をしておこう)
そう思い立った譲二は、足を止めずに、携帯電話のダイヤルボタンを順に押していく。電話のかけ方などの基本的な操作も、空太から教えてもらっている。
記憶している番号を入力して、最後に通話ボタンを押した。電話がつながり、端末を耳に当てる。
『もしもし。松浦くん?』
受話口から聞こえてきたその声の主は、柚江咲希だった。譲二の小学校時代の元クラスメイトである。
『もしかしてもう待ってる? こっちも後少しで着くよ』
そう、譲二の約束の相手というのは咲希のことなのだ。数週間前にコインランドリーで会ったとき、彼女の洗濯機を修理する協力を頼まれたのだが、今夜、その履行をすることになっている。
本当は日中に作業ができたらよかったのだけれど、互いのアルバイトや学業などのスケジュールが折り合わなくて、やむをえずこの時間帯になってしまった。一応まだ夕方ではあるものの、立冬のため日の入りが早まっている。
遅れそうだから寒かったらどこかコンビニにでも入って待っていてくれ、と口にしようとした譲二の脳裏に、ふいにとある光景がよぎった。
それは、矢橋鈴莉の施術中に見たあの夢だった。火の粉が降ってくる夜の森と、胸に負った致命的な刺傷……。
言葉を呑み込む。どうしてか走るのがためらわれて、歩きの速度になっていく。
なぜこのタイミングで思い出したのかわからない。が、あたかも重要な啓示のように譲二は思えた。
『……松浦くん?』
やや訝しげな咲希の声。譲二は「あ……いや……」と口ごもった。
とうとう足が止まる。
譲二は空を見上げて、息を吐いた。ここの夜空は、穂尾諸島のそれよりも幾分、明るい。つくづく、戦地ではないのだなと思い知らされる。
認めよう、と譲二は思った。心のどこかで浮かれていたのかもしれない。
身の程を知るべきだ。自分は陸軍のお尋ね者で、いずれはここからもいなくなる身。
あの夢のとおりに、戦場へ戻って、いつかは戦死していくかもしれない運命なのだ。そんな人間が、無辜の者と深く関わるべきではない。
「……やっぱり、行くのはやめておくよ」
『えっ……ど、どうしたの?』
「今更でごめん。でも、何だかよくない予感がするんだ。洗濯機は元々の業者と再度、都合をつけてくれ」
受話口から漏れ落ちる無言の間。ややあって、
『……ドタキャンとか非常識なんだけど』
当然だが怒っていらっしゃる。埋め合わせもできない譲二は非難を甘んじて受け入れるしかない。
『もっと松浦くんの恥ずかしい思い出を暴露してもいいの? ほら、あなたが階段の踊り場にあった大きな鏡の前で時々、一人で得意げにシャドーボクシングをしていて……』
「その先は言わないでェ!」
元クラスメイトに黒歴史の第二弾を開帳されそうになった。一人シャドーボクシングを見られていたという恥辱に悶えかける。
「どうか許してほしい。俺と一緒にいるところを憲兵とかに見覚えられでもしたら、おまえにも迷惑がかかるかもしれなくて」
『……反政府活動とかでもやってるの?』
「……ま、まあそんなところだ。俺と会ったことも、誰にも言わないでくれたら助かる」
譲二は自分の顔がしかめっ面になっているという自覚があった。反国民などと思われるのは不本意もはなはだしいが、それでごまかせるというのなら、断腸の思いなれど致し方ない。
ある意味では、小隊からの脱走や解放軍〈アンチ・幻想〉への加入は、現政府への反旗といえなくもなかった。解放軍の天辻邦彦らは、イノキ・ゲノム・ウィルスによる超人改造には迎合しないという立場を表明しているだけなのだが。
『……また嘘をついてる』
一度ならず二度までも察しのよさを発揮してきた彼女に、勘弁してくれと譲二は呻く。こいつが格闘技をやっていたら、読み合いがお手の物の選手になっていたに違いない。
『私は洗濯機の修理だけじゃなく、近況を聞くのも楽しみにしてたんだけど、松浦くんの方は別にそこまでじゃないんだね。なんか、温度差にへこむ』
「なあ、柚江……」
譲二は矢も盾もたまらず、送話口のマイク部分に向かって呼びかけた。つい、小学校時代のように名前を呼び捨てにしてしまう。
『とにかく、洗濯機のことはもういいよ。こっちでなんとかするから。じゃあね』
ぷつりと通話が切られる電子音。携帯電話のディスプレイを見ると、通話終了の文字が流れていた。
譲二は頭を抱えて、その場であてどなくぐるりと歩き回る。人気がまったくないのをいいことに、悪態もつきたくなった。
「やっちまった。最悪だ」と言いながら控室への廊下を戻る選手の気持ちが、今ならわかる気がした。
彼女を巻き込みたくないという点に関しては、本心だ。とはいえ、もう少し言い方というものがあったかもしれない、と譲二は自戒する。
悪態の代わりに溜め息をつき、この携帯電話は空太に返さなければならないからと思って、通話履歴から咲希の電話番号を削除する。リダイヤルする勇気は、なかった。
きびすを返して、元来た道を戻る。ポールライトの青白い光が頼りなさげに足元を照らしていた。
譲二はとぼとぼと歩きながら、なぜこんなことになったのだろう、と考えてみた。格闘技の試合はKOや判定で明確に勝ち負けがついて、何が敗因なのかもある程度分析できるが、人間関係はどうもそうはいかないらしい……。
と、前方から歩いてくる二人の影。
詰め襟の軍服を身にまとい、軍帽とロングブーツ仕様の軍靴を履いている。二人組の憲兵だった。
譲二は慌てて、携帯電話をいじるふりをする。自然な振る舞いで顔を俯かせて、目を合わせないようにするためだ。
それと、携帯電話は身分証明書を持たない者には買えない。携帯電話を所持していることは、脱走兵ではないというカモフラージュになりうる。
憲兵の二人はこちらを一瞥するのみで通りすぎていく。譲二は心の中で安堵した。
ふと、見下ろしていた携帯電話のディスプレイに、演技ではなく初めて気がつく。待ち受け画面が表示されているのだが、その背景が写真になっていたのだ。
空太が自撮りしたと思われるその写真はブルームーンジムの練習の合間に撮ったもののようで、美濃部や光次郎会長に詠美トレーナー、寧々《ねね》までもがピースサインなどを作って、その一枚に収まっていた。
この数ヶ月で来なくなったり辞めていったりした元ジム生の面々も、何人か確認することができる。おそらく、かなり以前に撮影したものなのだろう。
空太がブルームーンジムと、その人達を大切にしているということがたっぷりと伝わってくる写真だった。そこに自分が写ってないということにわずかな寂寞感を覚えながらも、譲二は小さく微笑する。




