第四試合 1.コインランドリー
松浦譲二は椅子にもたれて、ドラム式洗濯機の円形の窓越しに、中で洗濯物がごうごうと回転する様をぼうっと眺めていた。
最近のコインランドリーは、定番の縦型洗濯機に混じって、ドラム式洗濯機という物も一つか二つ設置されるようになったらしい。縦型洗濯機との違いがよくわからないのだがとりあえず、譲二は物珍しさでドラム式の方を操作してみている。
窓があって、内部の洗濯具合が可視できるというのはなかなかおもしろいアイデアだな、と思った。ずっと見ていると、少し目が回りそうになるが。
目の前のドラム式洗濯機が洗っているのは、ブルームーンジムのマットやサンドバッグ、ウエイトトレーニングの機器を拭くのに使用したタオルだ。数日分なので十枚前後だろうか。
午前と午後、ときには夜など各部の練習終了後に拭き掃除を繰り返しているのだが、一日だけでもかなりの枚数を消費するし、水洗いでは落ちない臭いや汚れも溜まってくる。なので、こうして週に一回の頻度で、まとめてコインランドリーの洗濯機に放り込んでいるのだ。
これが夏になると数日おきに洗濯、というふうに目まぐるしくなると空太がこぼしていた。想像すると大変そうである。
洗濯が終わるまでまだあと数十分かかるらしく、待つだけというのも飽きてくる。手持ち無沙汰になり、譲二は室内を見回す。
正方形のリング一つ分ぐらいしかない面積のコインランドリー内には、譲二の他に利用者が一人だけいた。髪を明るく染めている女性で、椅子に座って足を組み、持参してきたと思われる雑誌をぱらぱらとめくっている。
外を見やると、壁際にでんと置かれた自動販売機、そのディスプレイから漏れる光が暗夜を淡く照らしていた。温かい飲み物もあるんだろうが、ぐっと我慢する。
無駄な出費はいけない。ジムに戻れば幾らでもお湯を沸かせて、茶葉を煎じれば温かいお茶なども飲めるのだから。
嘆息しつつ視線を戻すと、もう一人の利用者がこちらを見ていた。譲二は半ば反射的に目を逸らし、何でもないふうを装う。
(何か変な挙動をとってしまったかな……)
ずっと軍隊生活を送ってきたためか、一般社会の中で過ごしていると、戦時と平時の齟齬に戸惑うことも少なくない。この間も、近くの小学校の運動会で打ち上げられたと思われる空砲を銃撃音と勘違いしてとっさに伏せてしまい、空太に奇異の目で見られてしまった。腕立て伏せの体勢に移行してどうにかごまかしたが。
他にも、時報代わりに寺院の鐘が鳴らされたのをゴングと聞き間違えて構えをとってしまい、向こうから歩いてきた通行人をびっくりさせてしまったこともあった。憲兵に見とがめられて、注意でもされたりしたらとんでもない事案である。
ちらっと確認すると、女性はまだこちらをじっと見つめている。それだけでなく、心持ち上半身を乗り出していた。
こんなところでトラブルは御免こうむりたい。そう思った譲二は、一旦コインランドリーを出て、洗濯が終わった頃に戻ってくることにした方がいいと考え、自然な感じで立ち上がろうとした。
「お客さん。私のこと、わかる?」
が、間に合わず、声をかけられてしまう。中腰の姿勢で動きを止めた譲二は「……は?」と、間の抜けた返事をする羽目になった。
自身を指差している彼女を無視するわけにもいかず、まじまじと見る。顔見知りの人ではなさそうだ、と思った。
お客さん、と呼んできたのが引っかかる。美人局というやつではあるまいな、という疑念が鎌首をもたげた。
しかし、同時に、髪の色に見覚えがあるような気もしてくる。
「……あっ。先日行った、中華料理屋の……店員さん?」
譲二はやっと気づいた。鏡花と待ち合わせしてラーメンを食べた店の、注文を取りに来たアルバイターがこの目の前の子だったのだ。
「ううん、そうだけど……。それだけじゃなくって……」
金髪に染めている女は首肯したのちに、なぜか不満を示してきた。解答としては不完全ということなのだろうか。
申し訳ないのだけれども、他に心当たりがない。この町で譲二が構築している人間関係といえば、光次郎会長や空太らブルームーンジムの関係者だけだ。それらだって、狭く浅いものでしかない。
「えー、ちょっとショックなんだけど」
「すみません、人違いじゃないでしょうか」
今更ながら、邦彦の『知人に会ってしまったとしても人違いのフリをしろ』という助言がよぎった。譲二は警戒心を露わにする。
「うそ、待って。本当に覚えてない? だって、松浦譲二くんだよね」
一字一句たがわず名を言い当てられて、固まる。脱走兵の指名手配は世間の人々にも知れ渡っているのかと一瞬、考えてしまった。
「小学校高学年のクラスで一緒だったじゃん。私、柚江咲希」
そう名乗られた名前に、譲二は時間が止まる感覚を味わっていた。
覚えてる。知らないわけがない。だって、彼女は――
『――ごめんね、松浦くん』
陽が傾きかけている教室。廊下側を背に、学級日誌を胸に抱えた彼女は、そう言った。
その表情は、木目柄のビニル床が照り返すかすかな日差しに彩られていて、感情が読めない。
「……お。その反応は、記憶の中に符合するものがあったと見た」
いつの間にか立ち上がっていた咲希が顔を近づけてくる。確かに、目元などにあの頃の面差しがあった。
譲二は動揺を無理やりに押し隠して、顔を背けた。せめてもの抵抗にと、すっとぼける。
「……そうですね。やはり知らない、ということに行き当たりました」
「うっそだぁ~~~」
思い出してくれたと確信して、嬉しそうに微笑む咲希。もはや大局は決してしまったも同然だったが、ギブアップしたらそこで試合終了だ。
「いや本当に。別の人と間違えてませんか?」
「むー……。まだとぼける気? なら、あのこと言っちゃおうかな~」
「あ、あのことって、何だよ……」
思春期の男子なんざ格闘家と同じく、黒歴史には事欠かない生き物である。どうかお手柔らかに願いたい、と身構える。
「図工で余った木板を、松浦くんが空手の演舞みたいに割りたいと言い出して、クラスメイトに持たせたの覚えてる? それで踵落としをしたら角度が足りずに、クラスメイトのお腹を蹴っちゃって泣かせたのよね。松浦くん自身も、ズボンの股部分の縫い目がびりっと破けちゃって……」
「今思い出した! 柚江さんね! 思い出したから、それ以上は言わなくていいです!」
お手柔らかにどころか容赦がなかった。総合格闘技に初挑戦するキックボクサーを、開始一番のタックルでテイクダウンして、パウンドアウトもしくは関節技を極めるMMA選手の如し。
「はい、やっぱり松浦くんだったー」
譲二ははぁ、と肩を落とした。心の中で、忠告を守れなかったことを邦彦に詫びつつ。
「というか、よくわかったな」
「あのお店で注文をもらったときの声を聞いて、あれ、松浦くんじゃね? って思ったのよ。面影もあるし。向かいに座ってた子からも譲二って呼ばれてたし」
時すでに遅しだが、譲二は内心で己の不覚を嘆く。外では互いに名指しを控えるべきだった。
邦彦と光次郎会長の間でどのようなやりとりがあったのか不明だけれど、ブルームーンジムの面々にも特に本名は伏せていない。……のだが、もしかしたら偽名を作った方がよかったのかもしれない。
「……なんでこんなところにいるんだよ。俺らの地元はここじゃないだろ。中学か高校のときに越してきたのか?」
譲二と咲希は小学校こそ一緒だったものの、中学からは別々の学校になった。彼女が学区とは異なる他の中学校に進学したのだ。
そうして小学校の卒業以来、会うこともなく、譲二は咲希のことなどとうに忘れていた。今日、こうして思いがけず再会するまでは。
「それはこっちの台詞でもあるんだけどな。私は大学がこっちだから、下宿してるの」
「随分と実家から離れたところに進学したんだな」
もしかして、親への反抗的なやつだろうか。譲二は改めて彼女の髪の色を見やる。
「うるさいわね。それで、松浦くんは?」
「……俺は、その……」
口ごもる。しまった、知り合いに遭遇するとは思ってもみなかったから、言い逃れの口上なんてまったく考えてない。
ろくな返答が浮かばず、数秒が過ぎていく。
「……松浦くんさ、あの頃から大きく変わったねぇ。体つきもがっしりしているし、精悍になったというか」
話の矛先を変えてくる咲希。唐突ともいえる話題転換だった。
こちらが答えられないのを見て気を遣ってくれたというか、勘違いをしてくれたらしい。譲二は胸中で安堵する。
譲二が孤児院で暮らしていたことも彼女は知っている。だからか、何か勝手に誤解をしたのかもしれなかった。
「柚江さんだって。きれいになってて、最初は本当に誰だかわからなかった」
「ありがと。そう言われるのは、お世辞でも嬉しいな」
社交辞令ではなくて本心である。小学校のときの咲希は、どちらかといえば文学少女の雰囲気があったのを覚えている。おっとりしていて、誰にでも優しい子だった。
その温和な性格を表しているかのような平行眉がチャームポイントで……。譲二はふと気がつく。
「……あれ? 眉の形、変えた? 前はもっとこう、下がっていた気がするんだが」
「もー、そんなところまで思い出さなくていいの! 眉なんて、幾らかは切って整えるようになるに決まってるじゃん」
小学校の元クラスメイトは赤面する。おまえも小学校のときの恥ずかしい思い出を多少なりとも味わうがいいと内心、ほくそ笑んだ。
「このコインランドリーはよく利用するのか」
譲二は尋ねる。今後は偶然行き合ってしまうことがないようにと、咲希の行動範囲を探る目的で。
「ううん。……でも、ここには少しの間、通うことになるかも」
咲希が気落ちするように眉尻を下げた。図らずも、あの頃の面影がより濃くなる。
「実はね、下宿先の洗濯機が壊れちゃってさぁ。ホースから水が漏れるんだ。それで仕方なく、今夜はこっちに来て洗濯してるってわけ」
「なるほど」
「修理を依頼しているんだけれどね、なかなか業者の都合がつかないのと、部品をメーカーから取り寄せ中らしくて。自分でパッキンを買って交換すれば応急処置としていけるみたいなんだけど、洗濯機が重くて動かせないのよね」
「大変だな。早く直ることを願っている」
「もう、他人事だと思ってるでしょ」
ほっぺを膨らませる咲希。何年も縁が切れていた間柄なのに、十年来の知己のような掛け合いができてしまうのが不思議だった。
(期間や行動範囲は大体、把握できた。これ以上、この話題に深入りする必要はないだろう)
譲二は胸中でそう考え、ドラム式洗濯機の残り時間を確認しようとした。すると、咲希が閃いたとばかりに手を叩く。
「そうだ。松浦くんなら洗濯機を持ち上げられそうじゃない? これからアパートに来てよ。ねっ」
「はあっ!?」
不意打ちすぎる提案に、譲二は素っ頓狂な声を上げてしまった。咲希が「うわ、びっくりした」と両手を胸に持っていく。
元クラスメイトとの再会はこの場限りで、少しだけ話をして終わり。そうして、それ以上は関わりのないものと考えていたのだ。
「い……いやいや。夜だし、一人暮らしの女性の部屋に上がるのはちょっと……」
「それもそっか」
もっともな指摘をすると、咲希は素直に引き下がった。
「じゃあこうしよう。日を改めて、日中のときに来てくれる? 大家のおばあちゃんにもいてもらうから」
「……時間が合えばな」
譲二はそう返すのがやっとだった。対戦を要求されて、「タイミングが合えば」とスカすような応じ方をする総合格闘技の選手のようだ、と自棄になる。
「行けたら行く、みたいに言わないでよ。連絡先を教えて」
咲希がコートのポケットから折り畳み式の携帯電話を取り出す。相撲取り並みに押しが強い。
「ごめん。携帯電話、ないんだ」
「……えっ? あ、そうなの? そ、それは不便だね……」
予想外だったようで、咲希は驚きの表情を隠せない。それもそうかもしれない、と譲二は思った。この時世に携帯電話を持ってない人は少数だろう。
新たな移動通信システムで無線伝送の速度が劇的に改善した携帯電話は、この数年で急激に一般家庭にも普及し、瞬く間に連絡手段の主役に躍り出た。固定電話の契約数を上回る勢いで、右肩上がりに端末の所持率を増加させてきたのだ。
「家の固定電話番号はさすがにあるでしょ?」
譲二は考え込んだ。ブルームーンジムの代表電話番号ならあることはあるのだが、常識的に考えたら勝手に借りるわけにはいかない気がする。
もし咲希からの電話を空太や寧々がとってしまったら、ちょっとした騒ぎになって追及されかねない。端的にいえば、言い訳をするのが面倒くさい。
「ちょっと、ちょっと。私と連絡をとりたくなくてごまかしてるんじゃないよね? だとしたら傷つくんだけど」
「……説明はできないんだが、色々と事情があって。今の住んでいるところには、居候させてもらっているんだ」
腰に手を当ててきた彼女をどうにかなだめる。もどかしかったが、指名手配の身だということを話すわけにもいかない。
「……わかった。信じる」
納得したかどうかはともかく、咲希は折れてくれる。罪悪感的なものが芽生えた譲二は対案を出す。
「公衆電話とかからかけるよ。番号を控えさせてくれ」
「約束だからね? はい、これ私の携帯電話番号」
差し出された携帯電話のディスプレイに番号が表示されていた。
譲二は周りを見回して、壁のアンケート回答用紙入れに立てかけられていたボールペンを取る。が、用紙の方は切れていたので舌打ちする。
やむなく左手の親指の付け根辺りに、番号を書き写した。「それ、うっかり手を洗わないでよね」とやや呆れ気味の咲希。
書き終えて、譲二は見上げる。元クラスメイトの純真な瞳と視線がぶつかった。彼女が首を傾げる。
この邂逅は果たしてどんな結果を生むのだろうか。勾玉原のこの町で停滞している内に追いつかれてしまった過去の影に、えもいわれぬ不安が込み上げてくる。




