第五試合 1.デビュー戦
どのような競技でも、鍛練だけしていれば強くなれるというわけではない。練習ではできていても、実際の試合でそれが発揮されなければ意味はない。
技や対処方法というのは、本気で対峙してくる敵手との実践で身につきこそすれ、加減ありの限定的な反復練習だけで取得したつもりになるのは早計にすぎる。
格闘技は特に、実戦感覚というものが大切で、これは定期的に試合や実戦に近いスパーリングをしないと錆びつきやすい。試合勘が鈍る、という言葉もあるくらいだ。
途方もないゴールを胸に抱いていても、マイルストーン的な近場の目標がないと、日々のトレーニングが作業的というか惰性気味になってしまう。中小目標として戦わなくてはいけない状況を自ら作り出しておけば、それに向けて自分自身を追い込んでいける。
ゆえに、松浦譲二は、ブルームーンジムを通じて、老舗のアマチュア格闘技団体にエントリーしていた。そして、今日がそのデビュー戦となるのだが……
「……納得いかないです。あれで俺の負け扱いになるんですか」
結果は敗戦。非公式ではあるが、譲二のアマチュア格闘技の戦績は黒星スタートとなった。
譲二は腹立ちまぎれに振り向こうとしたが、チーフセコンドを務めてくれた寺越光次郎が背中を押してくる。次の試合の円滑な進行のために、闘い終わった選手は花道をすみやかに退場しなければならない。
その後ろには、バケツや飲料水のペットボトルを持った美濃部育大も見えていた。年長者の二人が休日返上でセコンドについていただいたというのに、この結果では申し訳なくて、譲二は己のふがいなさに嘆きたくなる。
「本音を言えば、私も同じ気持ちだよ。だが、規定は規定だ」
光次郎がとりなしてくる。譲二は不満を呑み込んで、足を動かした。
それでも、未練がましくリングを見上げる。と、コーナーポスト付近で丸椅子に座っている勝利者の楢尾俊広と目が合った。
こともあろうに、人差し指と中指を唇に当てて、ウインクされる。譲二は再びイラッとした。
控室へ戻った譲二はヘッドギアを脱いで、「ちくしょう、やっちまった」と頭を抱える。最悪の心境だった。
猫渕空太が床に敷かれたヨガマットから立ち上がって、出迎えてくれる。譲二よりも前の順番で先に試合を終えていた空太は、既に私服のパーカーに着替えていた。
慰めは要らない、と譲二は口を開こうとしたのだが……
「ぎゃっはっはっはっ! やーい、負けてやんの!」
腹を抱えて指差しで笑われた。傷心の敗者にこの仕打ちである。子供か。
「俺の方は勝ってきたから、今日の勝負は俺に軍配が上がったな! あー、良い気分だなー!」
空太がこれ見よがしにと、頭の後ろで手を組んで、譲二の周りを歩き始めた。譲二はふつふつと怒りが沸いてくる。
「……MMAのイロハがほとんどできてない、大味な試合だったくせに」
勝敗に関しては言い返せないのだが、そのまま認めるのも癪なので、ぼそっと呟いた。空太だって、手放しで褒められる試合とはいえなかったはず。
「あぁ? そりゃあ、俺は純粋な総合格闘技の選手じゃないからな。会長から勧められたというのもあって、おまえにつきあって出てみただけで。でも、勝ちは勝ちでーす」
「よくもまあ、あんな試合内容で勝ち誇っていられるな。俺だったら恥ずかしくて、しばらくはおとなしくしているね」
「やだやだ。僻みはみっともないねぇ」
「なんだと、この野郎! 俺はまだ体力が有り余っているから、ここでやってもいいんだぞ!」
「そりゃおまえは試合が始まる前に負けちまったからな! 威張ることじゃねえよ!」
幼稚な応酬の末に我慢が限界を超えた譲二は、空太ととっ組み合いを始めた。さながら、総合格闘技の大会の控室でいざこざや乱闘を引き起こす、外国人選手のようだ。
美濃部と光次郎がそれぞれを羽交い絞めにして、引き離す。空太がなおも譲二につかみかかろうと身をよじるが、美濃部の屈強な両腕がそれを許さない。
「譲二、後で覚えてろよ!」
「それはこっちのセリフだ、空太」
睨みつけるものの、譲二は幾らか冷静を取り戻していた。落ち着かせようとしている光次郎会長の腕に、もう大丈夫ですと手を添える。
「二人とも、それまでだ」
と、剣崎詠美が間に割って入る。厳密にはブルームーンジムの関係者というより外部の人間である彼女も、わざわざ今日の試合を観戦しに来てくれたのだ。
ジムお抱えのトレーナーはいつものトレーニングウェア姿ではなく、ブラウスにスキニーパンツを履いていたりと、大人の女性らしくおめかししていた。控室がにわかにざわめく。
「元気があるのは結構だがな、控室には他の選手やセコンドもいるんだ。迷惑になるだろう!」
腕を組む詠美。めずらしく怒っている。
「剣崎さん……。はい、すみません」
その剣幕に、譲二は神妙になって頭を垂れた。空太も口をつぐむが、まだむすっとしている。
詠美がうん、と頷き、「熱いのはいいことだ!」と呵々《かか》とばかり笑う。
「ちょ……ちょっと、詠美さん。ここ、男性選手の更衣室。女人禁制なんだよ。今まさに服を脱いでる人だっているからさ~……」
後ろから詠美の袖を引っぱって、連れていこうとする麦林寧々《むぎばやしねね》。ぎゅっと目を瞑って顔を真っ赤にしていた。
言われて見渡してみるとなるほど、確かに何人かがズボンを下ろしかけて固まったり、タオルで股間を隠したりしていた。譲二と空太の喧嘩よりも、詠美の登場の方がよっぽど迷惑になっているまである。
「あっと、これは汗顔の至り! すぐに退出するので、どうぞ着替えを続けてください。申し訳ない!」
寧々に腕を抱えられて破顔しながら退室していく詠美。なんというか、豪放磊落な人だと思った。
「松浦の反則負けのことで、少し運営と話というか抗議をしてくる。風邪をひかないように着替えて、待っていてくれ」
そう言って、光次郎会長も控室を後にする。ドアが閉められる前に、譲二はその背中に届くようにと、「手間をかけて申し訳ありません」と頭を下げた。
譲二のアマチュア総合格闘技のデビュー戦は残念ながら黒星となったが、その負け方というのがKOや判定ですらなく、反則負けだったのだ。
試合開始直前の、リング中央でのレフェリーによるルールの最終確認と、グローブタッチの場。そこで事件が起きた。
リングの中央へと歩いていく際、少し前に出すぎた譲二は、額と額がくっつく至近距離で対戦相手の楢尾俊広と睨み合う状態となってしまった。当然、相手も引かない。
レフェリーが注意事項の説明をしている最中、突然、楢尾が唇をとがらせてちゅっとキスをしてきたのだ。譲二は一瞬、何をされたのか理解するのが遅れて、呆気にとられてしまった。
額同士をくっつけての睨み合いが解除されて、わけがわからず呆然としながらも、楢尾がニヤリと口の端をつり上げたのを見たとき、譲二はフックパンチを見舞っていた。ゴングが鳴る前に、である。
無防備な顎にパンチがきれいにヒットして、楢尾は後ろ向きに倒れていく。そうして、譲二は、目の前で見ていたレフェリーに深刻な違反行為を指摘され、即座に失格を言い渡されてしまったというわけだ。
思い返しても理不尽に感じる。先に一線を越えてきたのは相手の方といえるのではないか。
(くそっ、唇の感触も一緒に思い出してしまった)
譲二は手の甲で口元を拭う。なんだって、あのバチバチの空気と状況で、あいつはどうして口づけをしてきたんだ。
ばさっ、と頭にタオルがかけられる。振り向くと、美濃部が険しい顔を見せていた。
「格闘技は勝負の世界、勝つこともあれば負けることもある。それはいい。だがな、寺越会長の顔に泥を塗るようなことはするなよ」
「美濃部さん……。すみません、反省しています」
「猫渕もだ。未成年であろうとも、外やこういった所では社会人として見られているのだという自覚を持て」
矛先を向けられて、空太が背筋を伸ばす。返す言葉もないというのはこのことだ。
譲二も空太も、ブルームーンジムの所属選手として、この大会に登録を申請している。アマチュア団体といえども、いわばジムの看板を背負って出場している身なのだ。
にもかかわらず問題を起こしでもしたら、周りの人やスタッフ及び観戦者などに、あのジムは管下の選手にいったいどういう社会教育をしているのかと思われることだろう。そういった風評が流れてしまえば各団体との契約にも影響が出かねない。
ジムの気風や体質が疑われるような言動は慎むべきだった、と譲二は自戒する。ひとかたならぬ厚情を賜っている会長やジムの信用を失墜させてはならない。




