第三試合 1.アルバイト
松浦譲二は、ブルームーンジムの住居部分に居候させてもらっていることについて、光次郎会長の厚情に全て甘えるわけにはいかないと考えている。
『家賃は要らないよ。子供が心配することじゃない。その代わり、空太と一緒に、家の中の掃除や敷地周りの掃き掃除などをしてくれればいいから』と会長は言ってくれたのだけれど、せめて光熱費や食費、日用品代といった実費の類は納めるべきだろう。もう子供ではないのだから。
ジム会員の減少に伴って会費による収入は縮小していると考えられ、光次郎自身もずっとプロレスのオファーがなく、本業におけるファイトマネーもゼロのはず。ジムの維持費だけでも赤字となっている可能性が高い。
というわけで、譲二は独断で生活費を返済すべく、週に数回、アルバイトを入れていた。ちなみに、アルバイトのいくつかは空太と寧々それぞれからの紹介である。
「よ……っと。これ、コツがいるな……」
今日はその内の一つ、会社ビルの床面にワックスがけを行うバイトに従事している。光次郎会長には午後の部の欠席と、夜間の練習希望を届け出済みだ。
譲二はポリッシャーを操作して、ロビーの床に塗布されている古いワックスを剥離及び洗浄しているところだった。ポリッシャーというのは、円形のブラシが付けられた電動の清掃機器で、電力でブラシを高速回転させて効率よく床の洗浄ができるという代物だ。
床に直接、液体洗剤を散布してからポリッシャーでそれらを薄く伸ばしているのだが、ポリッシャーの動く方向をコントロールするのが案外難しい。ハンドルの上げ下げで左右及び前後に移動させることができるのだが、慣れない内はついつい手や腕に力を込めてしまう。
「っとと……、危ねえ」
壁や自動ドアにポリッシャーを間違ってぶつけてしまわないように、譲二は慎重に操作をしていく。元々ロビーにあった観葉植物等は外に一時避難済みだ。
古いワックスの剥離があらかた終わり、洗剤や剥離剤の残りをモップですばやく拭き取った。更に送風機を設置して、床面を乾燥させていく。
除塵のために掃除機の準備をしていたら、自動ドアの開く音が聞こえてきた。このビルの社員だろうか。通行禁止の表示を掲げているので大丈夫だとは思うものの、譲二は顔を上げる。
「やあ、勤労少年。励んでいるか」
しかし、入ってきた人物はスーツ姿ではなく、私服だった。ゴールデンポニーテールというらしい、頭頂部付近の高い位置で一つに結わえてから垂らしている髪型がまず目に入る。次いで、マフラーを巻いているためか幾分幼く見える、中性的な印象の顔も。
譲二や鏡花らの脱走を手引きしてくれた、私設解放軍〈アンチ・幻想〉の旗頭、天辻邦彦だ。相も変わらず、女と見間違えそうな顔立ちをしている。
その隣には鹿島芙美香もいる。フェイクファー素材の耳当てが、高い鼻と美人顔とのギャップを作っていた(本人は意図していなさそうだが)。
「……邦彦じゃないか! 鹿島さんも。どうしてこんなところに?」
「君の働きぶりを見に来ようと思ってな」
幾らかからかうような口ぶりの邦彦。「ふざけるなよ」と譲二は返した。
さっきも勤労少年がどうとか口にしていたが、おまえらもそう変わらない年齢だろうに、と思いながら女子のような背丈の彼を見下ろす。が、邦彦はフェイスオフ時の飄々した選手の如く、こちらの視線を意に介さない。
「というか、今までどこにいたんだよ。ずっと音沙汰なしだったから心配していたんだぞ」
そう、邦彦らは譲二をブルームーンジムと光次郎会長に引き合わせてくれたまではよかったのだが、それ以降はなしのつぶてだったのだ。連絡先もなく、大通りや広場の往来で何度も彼の姿を探したことか。
「私達の方でも色々あるのだよ。そう質問攻めにしないでくれたまえ」
手のひらを見せて、制止するようなジェスチャーをしてくる。それで、色々言いたいことがあったはずの譲二は口を閉じざるをえなかった。
解放軍の指導者というだけあって邦彦は言葉が巧みで、いつの間にか従ってしまいそうになる。端的にいえば、カリスマ性が溢れ出ているのだ。
邦彦はぐるりとロビーを見回し、自動ドアの外に視線を移す。次いで、送風機で乾燥中の床面を見やった。
「ここは人目につく可能性があるな。清掃作業のこれにはまだ時間がかかりそうだから、休憩中ということにして場所を変えよう。上着を持ってきたまえ」
「どこへ行くんだ? 現場責任というものがあるから、あまりここを離れることはできないぞ」
「わかっているとも。さあ、早く」
譲二はジャンパーを取ってきて、羽織った。上着を、ということは外へ出るのだろうかと予測する。人の行き来があって余計、衆目を集める気がするんだが……
邦彦は外へ出るのではなく、エレベーターホールの方へ歩いていった。芙美香も何も言わずについていく。
「譲二よ。確か、おまえは更に北へ向かって、火雲列島付近で防衛線を張っているK1軍やプライド軍のどれかに紛れ込みたいという話だったな?」
ホールの壁にはめ込まれているフロアパネルの、エレベーターを呼びよせるボタンを押そうとする指を止め、邦彦はそう確認をしてくる。
火雲列島というのは、日鶴国土の最北端に沿って並んでいる大小様々な島の呼称だ。戦火が最も激しく、格闘兵を集結させていると聞くため、譲二が探している親友もそこにいる公算が大きい。
「ああ、そうだ。ここにはいつまで引き留められなければならないんだ」
譲二は意気込んで肯定する。その直後、フロアパネルの上方向の矢印ボタンが押されて、点灯した。どうやら、行き先は上の階らしい。
エレベーターのドアが開き、邦彦、次いで芙美香、最後に譲二の順でエレベーターのかごに乗り込む。
かご内の側面にあたる壁にもたれて、譲二は腕を組む。反対側の一角に立ちつくす芙美香と目が合った。
「そういえば、芙美香の紹介は特にしていなかったな。今更不要か?」
邦彦が譲二と芙美香を交互に見やり、そんなことを言ってくる。脱走直後はとにかく必死で、移動中は目先のこと以外、ろくに雑談もなかったのだ。
「必要ない。名前は憶えている」
「私はかし……」
譲二は首を振ったが、改めて自己紹介をしようと思ったらしい彼女の出端をくじく形となってしまった。エレベーターのかご内になんとも気まずい空気が流れ、身の置き所がなくなる。
「……フッ」
芙美香が耳元の髪をかき上げて、背を向けた。
壁に手と額を押しつけて、背を丸めている。明らかに落ち込んでいた。
「……譲二よ……、この閉鎖空間でなんてことをしてくれるのだ……。もうちょっとこう、女心をだな……」
童顔を歪め、冷や汗を垂らしたゴールデンポニーテールの少年からの説諭めいた苦情。彼女は繊細なのだぞ、とも付け加えられる。
「ち、違う。でも鹿島さん、すみません。あまり時間もなさそうだから本題に入りたくて」
また今度、改めてお願いしますと譲二は許しを請う。芙美香は体の向きを戻し、こくりと頷いてくれた。
ぐっ、とわずかに全身にかかった重力を感じる。エレベーターが上昇を開始したのだ。
ドア横の操作パネル近くによりかかっていた邦彦が、天井を見上げて監視カメラがないことを確認する。そうして、こちらを見据えてきた。
「さて、その本題だが……。脱走兵として指名手配のリストに載せられている我々が、日鶴軍や駐留合衆国軍に再度、加入するのは不可能だ。脱走に〈アンチ・幻想〉が関わっていることは気づかれているだろうし、君もリングスの落とし子なのだからな。軍法会議や矯正を経ずに、尋問で洗いざらい自白を強要されて最終的には廃人となるのが落ちだろうよ」
突きつけられる現実。覚悟していたこととはいえ、軍組織への反逆の罪は重く、どこへ行くにもずっとついて回る。
「当たり前だが、何事にも結果がつきものだ。大きな選択には、特に」
私設解放軍の旗頭はわずかに沈痛な表情を浮かべる。それを見て、譲二は、解放軍〈アンチ・幻想〉の結成時、おそらく彼らも多くのものを手放さなければならなかったのだろうと察した。
もしかしたら、犠牲にしていくしかなかった人達もいるのかもしれない。譲二と鏡花らがプライド軍の小隊からの離脱を決めたときと同じように――
「……有働渚といったか……。彼は君の真の友人だったよ」
心を読んできたかのように、邦彦が神妙にそう呟いた。あるいは彼も、自身や解放軍ではなく、譲二と同様に、渚のことに思いを馳せていたのかもしれない。
それで譲二は瞬時に涙ぐみそうになって、顔を上向かせる。
あの穂尾での脱走は万事、成功の運びとなったわけではない。現在位置の発信機器を体内に埋め込まれているという一人の仲間を、断腸の思いで残していかざるをえなかったのだ。
それでも、背中を押してくれたその仲間のおかげで、譲二は今ここにいる。友の覚悟の上に成り立っていればこそ、こうして日々を無為に過ごすことに平然としていられるはずがなかった。
「……話を戻そう。さりとてなんとかしたいというならば、偽造の身分証明書を取得する他ない。別人として陸軍の歩兵に志願するのが最善かつ、唯一の方法だ。今のところはな」
再入隊は至難。だが、方法がまったくないわけではないという。
倫理や法律に反していることに手を染めるのは本意ではなかった。が、この際、それしかないならば、不法行為を重ねることにためらいはない。
「しかし、身分証明書の用意にはどうしても時間がかかる。作るのではなく買う場合は、金もな。早く友のもとに馳せ参じたいという君の気持ちを思うと心苦しいのだが、こればかりはどうもにな」
「……いや、何から何までおまえらに頼りっきりなのに、わがままを言って悪かった。邦彦、感謝しているよ。ありがとう」
譲二は頭を下げる。穂尾の郊外住宅地で出会ってからずっと、邦彦は手を尽くしてくれている。
脱走の手引きから、潜伏場所への案内のみならず、北行きの切符の手配まで……彼らと出会わなかったら、解放軍の存在なしでは、とてもここまでは来られなかった。文字どおり、邦彦や芙美香は命の恩人なのだ。
その恩人の双眸がらんと輝く。
「それにしても……君は望みどおりに穂尾のプライド軍から抜けることができたというのに、今度は北部の混成団に入り込むためにどうにかしろとは……実におかしな話だ。そう思わないか?」
邦彦がフッと笑んだタイミングで、エレベーターかごのガラス張りとなっている背面から黒い壁が下に流れて消え、代わりに外の景色が出現した。どうやら、譲二と邦彦らが乗っているのは展望用エレベーターだったらしい。
台車を押していく運送業者の作業帽、携帯電話を耳に当てたサラリーマンが渡っている横断歩道、信号待ちで停止しているタクシーなど、地上の風景が遠ざかっていく。
譲二は半ば無意識に半歩、ガラスから下がった。「高い所は苦手?」と芙美香。
「……そんなことは。……ただ、リングスに入所するまで住んでいた所には、こんなに高い建物はなかったから。落ち着かないだけだ」
羽稲島へ行く前の譲二は孤児院にいたのだが、その周辺にビルなんてものはなかった。高層建築物といえば五階まであった集合住宅、つまり団地くらいだ。あとは、屋上駐車場つき三階建てのデパート。
「なら、君はキックボクシングの試合入場時、高いところからリフトが降りてくる形式の花道登場の仕方は難しそうだな」
「何の話だ」
地上から目を逸らして、向かいのオフィスビルの窓ガラスや、降りてくる空と雲を眺める。遠くで広がっている雲の切れ間から、幾筋もの金色の陽光が下方に差し込んでいた。
「天使の梯子ね」
振り向いて空を見上げていた芙美香がぽろっと、感慨深そうにこぼす。天使の梯子というのは、あのように光線が降り注いで見える美しい自然現象の、別名の一つだ。
低い角度で太陽が雲に隠れているとき、雲と雲の隙間から、天使が上り下りするためのような光の柱が地上に向かって伸びることがある。正式名称は薄明光線だったか、と譲二は記憶を引っぱり出す。
それを眺めていると唐突に、ちょっとした浮遊感に襲われる。上昇中のエレベーターが減速し始めたのだ。後少しすれば目的の階に着く。




