第八試合 4.リング
首相撲からの膝蹴りは、譲二の顔面を直撃はしなかったものの、頬か側頭部を切り裂いたようだ。ロープ越しに鮮血が場外まで飛び散っていた。
それを、英里奈は目を逸らさず見ていた。何の感情も湧かない。
だって、これが彼自身の選んだ結果なのだから。こうなることは推察できたはずだし、自分は忠告もしたのだから。
「あれぇ~~? あの強化兵、思ったよりもはるかに強いな……。ちとまずいぞ」
顎に手を当てる曜一郎を横目に、英里奈ははぁ、と嘆息する。もう帰ってもいいかしら……という思いが少しよぎった。
少女兵の二発目の膝蹴りは、テンカオ気味に譲二の胸の辺りを直撃していた。苦悶の表情からすると肋骨が折れたかもしれない。
やっと首相撲から逃れられたかと思うと、完全に背を向けて逃げる譲二。ルール上、背中や後頭部への攻撃は禁止されているため、ヴァレリアは追いかけはするものの手が出せない。
その敗残兵にも劣る醜態に、英里奈は目眩がするのを感じた。これでは、出場しない方がましだったのではないか。
コーナーで退路を塞がれ、逃走者は再び首相撲の網に絡め取られる。しかし、なぜかそこでヴァレリアがバランスを崩した。
バックに回り込み、胴をクラッチしてコーナーポストに押し込む譲二。
有利なポジションなのだが、譲二は次の展開に行かない。動けないと言った方が正しいだろうか。ヴァレリアがクラッチを外そうとしてて、それに抵抗しているため殴ることはできないし、足も踏ん張っているのでろくに蹴りも出せない状況だ。
そうして膠着し、綿田が二人の肩を叩いてブレイクを宣言した。タイムとも言い放ち、セコンドの渚達に何か指示をしている。
渚はタオルを取り出して、コーナー付近のマットを拭き始めた。どうやら水で濡れていたらしい。
それでヴァレリアは足を滑らせてしまったのか、と英里奈は納得する。
「こりゃあ、七:二でヴァレリアが優勢だな……」
ぞんざいな声に英里奈が振り返ると、C分隊の隊長、ゴリラみたいな風体をした藤間和貫がバナナの皮を剥きながら歩いてくるところだった。挨拶する曜一郎に藤間は手を上げる。
やだ本当にバナナを食べてる……と思ったが、それよりも。
「いやそれ足しても十になってませんから。九にしかならないです。残りの一はどこへいったんですか」
「……そうだっけ? むう、数学は難しいな」
ゴリ……藤間は皮を剥き終えたバナナを頬張りつつ、首を傾げる。パンチドランカーだからではなく純粋なボケであってほしい、と英里奈は額を手で押さえた。
リングに目を戻すと、腰の引けたジャブを突き出していた譲二は、それをかいくぐられてオーバーハンドブローを当てられ、またロープ際まで後退させられていた。
「藤間さん。これじゃあ、二もないのではありませんか」
「いや、わからないぞ。現に、数分経ったがまだ仕留められてない。よく見ればなるほど、巧くやっているよ彼は」
だとしても時間の問題でしかないでしょう、と思いつつも、顎をしゃくる藤間に促されて、英里奈は部下の立ち回りに注目する。
助走つきの跳び膝蹴りをなんとかかわした譲二だが、腰が落ちてしまい、トップロープをつかむ。ヴァレリアは跳躍の勢いがつきすぎて場外に飛び出そうになり、かつぎ上げられているような体勢でロープにしがみついた。
その間に、譲二はまんまと接近戦の圏外へ離脱することに成功する。英里奈は眉をひそめた。
「今のロープつかみってOKなんですか?」
「ルールで禁止されている、れっきとした反則だよ。直前の打撃が当たったわけではないし、一瞬のことだったから審判も見逃した感がある」
英里奈の疑問に答えてくれる曜一郎。その口元がにやけそうになっているのが引っかかった。
駆け引きもなく距離を詰める膝小娘に、譲二はテイクダウンを敢行した。が、小気味よいステップで難なくすかしたヴァレリアは、譲二が四つん這いになってしまった瞬間を見過ごさず、フロントネックロック気味に捕まえる。
譲二は立ち上がろうとするが、脇に抱えて潰すように押さえつけるヴァレリアの方が膂力は上だ。
そして、彼女の膝は何も、スタンドでのみ猛威が振るわれるわけではない。あのようにマットを這っている状況でも――むしろ、そういったグラウンド状態の方が、危険度が増すのが戦慄の膝たる所以なのだ。
ヴァレリアの後ろに残している右足の踵が、弓が引き絞られるように、天井に向かって高く上げられた。両腕で頭をガードする譲二。
四点ポジションでの頭頂部への膝蹴り! 聞くに堪えない痛そうな衝突音が響いた。
くらってしまった強化適性なしの少年兵は、たった一発で、ヒキガエルのようにマットに這いつくばる。続けざまの二発目。容赦がない。
だが、気絶したところにその二発目を受けたのが幸いしたのか、意識を取り戻した譲二が動く。止めに入ろうとした綿田レフェリーが躊躇する。
引き込むようにして仰向けに移行し、四点ポジションの膝地獄からの脱出の代償として、マウントポジションの上を明け渡した。不利な展開に変わりはないとはいえ、先刻までの状況よりは多少マシになった形だ。
ヴァレリアは徹底的に膝で破壊したいのか、サイドにつこうとする。譲二も必死に両足や腕でクラッチしながら、尻でじりじりと移動して、それを断固拒否する。
そのようにして二人とも動き続けていたために、いつしかロープ際へと移動していた。
変わらず仰向けになっている譲二の頭が、ボトムロープの下からがっつり外にはみ出ている。あれでは、ヴァレリアの膝蹴りやパウンドもロープの壁に阻まれてしまう。
少女兵は腹立たし気にロープとロープの間から鉄槌を落とすが、やはりロープに引っかかってしまい、効果的ではなかった。
英里奈はあっと気づく。
「もしかして……意図的にロープを利用している?」
「そのようだ。さっきのロープつかみも然りだろう」
首肯する曜一郎。あそこは何もない荒野でも、金網で囲われたケージでもない。キャンバスマットがあって、四本のロープが張り巡らされている。
無論、総合格闘技におけるロープワークはルールで明確に禁止されている。しかし、譲二はあくまでも偶発的な形を装って、ロープを巧みに使っているのだ。
綿田レフェリーが二人をいったん止める。ヴァレリアがむきになって攻撃を続けていたために割って入るタイミングが伺えず、ストップまでに時間がかかってしまった格好だ。
そうして引き離し、ロープ付近ではなく中央寄りでマウントポジションを再開するようにと、誘導をしていた。
ヴァレリアはすぐに立ち上がってさっさと歩くが、譲二はマットに手をついて一息入れている。綿田が早く、と促した。それでも、緩慢な動作でのんびりと移動する。
ダメージを抜くための時間稼ぎだ、と英里奈にはわかった。なんて巧妙、いや、狡猾な。
ヴァレリアが上、譲二が下のマウントポジションが復元される。先の体位とは微妙に異なっていた。完全再現が難しいのは承知の上だが、それにしたって後者が指示に従わなさすぎる。
とうとう綿田が細かいところは諦めて、再開の合図をと、二人の肩を同時に叩いた。
英里奈は(おそらく曜一郎と藤間も)見逃さなかった。譲二がフライング気味に動いたのを。寝ている状態からの前蹴りで小柄な敵手を突き放して、すばやく起き上がる。
一番近くにいたレフェリーはもちろん気づいただろうが、当のヴァレリアが抗議するのではなく襲いかかったため、その暴風域から避難せざるをえなかった。
譲二に颶風が直撃する。ほぼ横殴りのフックパンチが鼻先をかすめた。続けざまに、振り子の要領で逆側から放たれたフックは間一髪、パーリングで捌く。
距離をとる譲二。パンチの嵐からは離脱できたが、ヴァレリアのローキックが足を薙ぎ払った。
足ごと持っていかれた譲二は半回転して、マットに尻もちをつき――いや、ロープに腕をかけて転倒を阻止する。すぐに、何事もなかったかのように構え直した。
ざわつく観客。綿田レフェリーが「タイム! タイム!」と叫んだ。
綿田は譲二をニュートラルコーナーへ促して、「ロープをつかんだらダメだよ」と注意する。譲二は曖昧に頷いている。
ともあれ、このタイムで彼はまたもや小休憩を獲得できることになった。ヴァレリアがあからさまに不満気な身振りで腕を広げる。
「彼は徹底したリアリストだな。彼我の力量差を認め、小物の戦術を受け入れて、致命的な一撃をくらわないように立ち回っている」
バナナを食べ終えた藤間がそう解説する。
リアリスト……現実主義者。英里奈は、かの少年がそうだとはとても思えなかった。彼はどちらかというとロマンチストのはずだ。
「この戦法は朽方さんが伝授を?」
「まさか。どのように戦うかと思ったら、ルールを逆手に取るとは」
曜一郎は言下に否定した。合気道の理念を考えればそれはそうだ。「失礼しました」と英里奈は頭を下げる。
何でもありの路上や、国際条約の目が届かない戦場の奥とは違って、リング上には厳格なルールが設定されている。それに対する違反が見つかった場合は、審判がただちに決闘をストップして、ルールを破った側に指導をしなければならない。
また、判定決着になったときの点数から減点するために、審判は反則の事実をジャッジ数名に伝達する必要もある。
その間、どうしても試合は一時停止してしまう。疲れてたりダメージが残ったりしている選手が回復できてしまうのだ。
「もしかしたら、ヴァレリアとやらが序盤で足を滑らせたのも仕込みかもしれないな」
「どんだけ策を張り巡らせているのよ……」
マットが水で濡れていた件も、譲二の作戦の一つだった可能性があると曜一郎が指摘する。F分隊の隊長としては、部下の数々の悪行に呆れ返る他なかった。
「リングだけに、ロープのように策を張り巡らせてか。フッ、上手いことを言う……。バナナを一房やろう」
「結構です。上手いことを言ったつもりもありません」
「減量中かね? おっと、これはセクハラになりうるんだったか。失敬した」
藤間からのバナナの勧めを辞退して、そういえばストッキングがきつくなってきたかしら……と嫌なことを思い出しながらも、英里奈は試合の趨勢を見守る。
自分でも気づかない内に、これ以上見る必要はないからもう帰ろう、という気持ちはとっくに失せていた。特別な力を持たない少年の反抗がどこまで通用するか、見届けてみたくなったのだ。
試合は、三度コーナーに追い詰められた譲二が、ヴァレリアの突進に対して、両手でセカンドロープをつかんで十六文キックを繰り出していたところだった。
もちろん反則だ。今度こそイエローカードが出される。
その直後に、第一ラウンド終了のゴングが鳴った。




