第七試合 1.職員室
もう学生ではなくとも関係なしに、職員室へ行く用事というのはいつになっても緊張するものらしい。
松浦譲二は、キャスター付きの事務用チェアーに座って足を組んでいる瀬々英里奈の前に、気をつけの姿勢で立っていた。さながら生徒と先生のようだ、と自嘲する。
管理棟の一区画、佐官や士官がデスクワークに使用している職員室には、窓ガラスを透過して西日が差し込んでいる。そのオレンジ色の光の中、微細な埃や塵がふわりと漂っているのを譲二は眺めていた。
英里奈は、体はほとんど譲二の方を向いているものの、首と顔はデスクに回されていて、一枚の書類を片手に持ってためつすがめつ見ている。
その表情には、困惑と不機嫌が混在していた。
「……これはどういうこと?」
目線だけをこちらに動かして、横目で問うてくる。予想していたとおり、辛辣な声音だった。
「今度の合同演習の種目の一つである、MMAのワンデイトーナメントへの出場申請書です」
「それは見ればわかるわ。そんなことを聞いてるんじゃないの」
譲二の返答をぴしゃりと斬り伏せる英里奈。チェアーがぎしついた音を上げて、座位と直立という違いはあれど先生と生徒は正対する形となった。
互いに見えるようにと、彼女は申請書をデスクの上に滑らせる。
「これにあなたの名前が書かれているのは、トーナメントに出場したいって意思表明よね。……どういう風の吹き回し?」
あたかも、進路調査票にプロレスラーと書いてきた生徒に対して言うことはあるかと促すような、視線が見上げてくる。
「軍人の端くれとして微力ながらも、披露演習の遂行や、防衛を任されている混成団の熟練と充実を知らしめるのに役立てれば、と」
「よくもまあ、いけしゃあしゃあと歯が浮くような台詞を……。心にもないことを口にしないでちょうだい」
英里奈はデスクに肘をつき、その手を額に添えて、「はぁ……」と息を吐き出す。頭を傾けるその動作で、前髪を留めている紺のシンプルなヘアピンがきらっと夕光を反射した。
信用がないものだなと譲二は内心、思った。まあ、そのとおりなのだが。
「軍務はやる気が出ないけれど、トーナメントの試合には出場したい、と。それって筋が通ってないんじゃないかしら」
痛いところを突かれてしまい、譲二は押し黙る。自分自身でさえ、それはそうだと思う。
斜陽が襟首までのショートボブや整った眉を燃えるような色に染め上げているにもかかわらず、彼女はいつだって冷然としていて理性的だ。
「あなたは何がしたいのよ?」
総合格闘技やキックボクシングの試合前に、「この一戦のテーマは何ですか?」と聞いてくる記者やアンバサダーばりに抽象的で、難しい質問だった(あれの模範的回答はいったい何なのだろうか)。
「……職務態度は、すみません。これからは改めるようにします」
「違うわよ。あなたの隊内での振る舞いについては、もう諦めている。そうじゃなくて……」
F分隊の隊長はわずかに言い淀む。言葉を選んでいるらしく間が空き、ややあって。
「芯というか一貫性というか。そういったものがブレているんじゃないの、ってこと」
譲二には、彼女が何に言及しようとしているのか理解できなかった。
確かに一貫はしていない。それはわかる。兵士としての責務を果たさないというのなら、トーナメントにもわざわざ志願する必要はない。そういうことだろう。
しかし、どうも、そこのところを指摘しているわけではないように感じられる。もっと、根源的な何かを問うているかのような……。
つかの間、譲二は英里奈の探るような視線を受け止めざるをえなかった。目を逸らしたくなる衝動に襲われる。
「……ふう。いいわ」
嘆息の後に続いた短い了承の言葉。それに、譲二は「えっ?」と聞き返す。
「トーナメントへのエントリーを許可すると言っているのよ。せいぜい怪我しないことね」
英里奈はおもしろくもなさそうにボールペンを取り出した。書類の上長確認欄にサインをしてくれる。
「あ、ありがとうございます……」
なぜだかわからないが、今度こそ見限られたという予感が譲二の頭をよぎった。いやおかしい、ずっと前から失望されていたじゃないか、とそれを振り払う。
「わかっているの? ヴァレリア・シウバやマリナ・ルアと戦うことになるのよ。あの二人はここの軍隊の中でも手がつけられない強さだわ」
現実を突きつけるかのように、G分隊の悪女コンビの名前を出す英里奈。心配しているわけではなく、十回以上やっても勝ち目がないのにと、徒労に終わるどころか痛めつけられるだろうと遠回しに呆れているのだ。
「策はあるのかしら。朽方さんから助言は?」
書き終えた英里奈は、垂れてきた髪の毛の一房を耳にかけて、顔を上げる。
彼女が敬称付きで口にした朽方曜一郎というのは、譲二に個人的に合気道を指南してくれている先輩下士官のことだ。従来の合気道とは異なり近接格闘仕様に偏重した朽方流合気道を操って、超人改造されてない生身の体のまま魔改造兵と渡り合っている猛者でもある。
埒外の人物をちらつかせられて譲二は少し面食らったが、思い直す。英里奈と曜一郎は士官同士、接点を持ちうるのは普通のことだ。松浦譲二という共通項もあるのだから。
「いいえ。策も何も……トーナメントのことはまだ言っていません。ししょ……朽方曹長には個人的に指導してもらっているだけで、関係のないことですし」
「そうね」
彼女の方から名を出してきたにもかかわらず、意外にあっさりと脇に置かれる。どうやらさほど本題というわけではなかったらしい。
「じゃあ。あなた、……友達はいるの?」
譲二は「は?」と半ば反射的に返しそうになった。過去の幻影が古ぼけたフィルムのようなざらついた感じで流れる感覚、をすぐに打ち消す。
「ここにはいません。……いるわけないじゃないですか」
「有働渚くんや千賀雅紀くんは、違う?」
否応なしに二人の同僚の姿が譲二の瞼の裏に浮かぶ。垢抜けた感じのエアリーヘアに好青年さが現れている顔と、斜めに不揃いの前髪と口角が上がりっぱなしの顔が。
不意に、初めて会ったときの記憶がよみがえった。渚は『お互いこんなところに回されて大変だと思うけど、よろしく』とにこやかに握手を求めてきたのを覚えている。『オレは千賀雅紀。セガとかまっさきーと呼んでくれよなっ』と雅紀は案山子のようなポーズをとってきたが、誰もまったくそう呼んでないことに気づくのに数日もかからなかった。
「……と思います。彼らは同じ分隊の仲間というだけだ」
「そう。残念だわね」
大して残念でもなさそうに、鉄面皮のまま、英里奈は文書に目を落とす。次いで、おとがいに手を当てて考え込む仕草をした。
譲二は眼前の上官の意図が知りたくなって、尋ねる。学校ごっこでもあるまいし、友達なんて必要なのだろうか。
「なぜそんなことを聞くんですか?」
「……え? セコンドの任命に決まってるじゃない。二名までで、一人以上必要なのよ」
合点がいく。競技として格闘技の試合をするならば、確かにセコンドが要る。
前ラウンドと次ラウンドの合間の一分では、水の摂取や傷口の圧迫止血、打撲箇所を冷やす行為などが認められている。
だが、疲れている選手がグローブを着けたままの手で、制限時間内にそれらを行うことは困難だ。そのため、選手の付添人たるセコンドが代わりに、水の用意や止血などの手当てといった支援行動をとることがルール上、許されている。
「格闘兵ではない私がセコンドなんかイヤでしょ。本当は朽方さんがよさそうなんだけれど……生けるレジェンドだもの、恐れ多いわね」
競技者の身体的なケアだけではなく、作戦変更の助言や策の伝授というふうにモチベーターも、セコンドの重要な役目となる。そのため、セコンドには実技経験が豊富で、感情的にならず冷静に試合展開を見極められ、的確に言語化してアドバイスできる人がよいとされる。
「セコンドは渚と雅紀でかまいません。……人数合わせなので、誰でも同じです」
「わかった。グラウンドの展開も考慮して、沼井さんも補欠に入れておくわ」
結局、F分隊メンバーのスライドじゃないか。譲二は胸の内でそう考えた。その内心を読まれたのか、
「なぁに? あなた達はフォーマンセルと言ったはずよ。仲良くしなさい、と子供に諭すみたいなことは言わないけれど……協力ぐらいはし合いなさいな」
F分隊の隊長は目を細めてもっともらしいことを言う。からかっているふうに、薄い唇がわずかに形を変える。
くだらないと思いつつ、わざわざ反発するようなことじゃない(しかも直属の上司だ)と、譲二は黙っていた。
「……私にも、外に友人がいるわ。……たまにしか会ってないけど」
英里奈は、茜色に彩られた窓の外を見やる。その呟きには郷愁じみた響きが混ざっていた。
「彼女の方が歳は上なのに、がさつでだらしなくてね……。この前も厄介事を持ち込んできたりして……」
譲二はその横顔を覗き見る。担任の先生にも親友や彼氏がいたりするというのをなかなか想像できないのと同じように、英里奈の言う友人とやらの姿を思い浮かべてみたが、うまくいかなかった。
「でも、結構、面倒見がいいところがあるのよ……」
多面的な性格といったらよいのか、ちょっとつかみどころがない友人だな、と譲二は聞いて思う。自分だったらそういうやつとは難しいというか苦手な気がするのだが、合う合わないは人それぞれだ。
「……あっと。ごめんなさい、どうでもいい話をしちゃって」
はっとした英里奈は取り繕うかのように、足を組み直したりする。譲二は当たり障りのない返しをするしかなかった。
「そのご友人とまた会えるといいですね。……では、失礼します」
「う、うん」
退室するために振り返った視界の端、天井付近の壁にスピーカーが取り付けられているのが目に入った。
今にもチャイムが流れてきそうに思えて心持ち身構えてしまうが、鳴ることはないと譲二は自分に言い聞かせる。まだ日が沈んでいないため勘違いしそうになるが、定時は既に過ぎているのだ。
ここのところ日に日に、日中の時間が長くなり、日の入りの時刻が遅くなっている。夏がもうそこまで近づいてきているのだ。
「おつかれさまでした」
そう会釈すると、本当に疲れたというような目を向けられる。それも一瞬のことで、英里奈は「おつかれさま」と機械的に頷くと後はもう見もせず、デスクに向き直って事務作業を再開する。
譲二は静かに後ろ手で戸を閉めて、職員室を後にした。




