第八試合 1.選手控室
体育館の更衣室、つまりMMAトーナメントに出場する選手達の控室で、朽方曜一郎は松浦譲二の手にバンテージを巻いていた。
「師匠、すみません。お手数をかけてしまって……」
パイプ椅子の背もたれ部分を前にして座っている譲二が恐縮して、頭を下げる。曜一郎は手を止めず、そのベリーショートに声をかける。
「いいんだとも。瀬々にも、試合前に顔を出してやってほしいと頼まれたしな」
譲二がちら、と部屋の隅を見やる。が、彼の直属の上官である瀬々英里奈はつんとすましていて、目を合わせようともしなかった。
聞こえていただろうに、と曜一郎はその態度に苦笑いする。
「おまえの同僚が務めるそうだからセコンドにはつかないが、これぐらいはな」
バンテージは、パンチを打つ際に痛めるリスクを軽減するために、拳や手首を保護する厚手の伸縮性包帯だ。これを手にしっかり巻き付けて固定することで握りが強化され、怪我を恐れずに、思いっきりパンチが振るえるようになる。
巻き方にちゃんとした手順やコツがあり、本来は自分でやる方がフィット感などに納得がいきやすい。しかし、今回のように練習というわけではなく試合前のときは、人に巻いてもらう方がメンタル的に楽な場合がある。
「……正直、師匠が来てくださって助かりました。試合前だからかどうもナーバスになってしまって」
今日のMMAトーナメントは、現場視察に来ている政府の役人へ近接格闘術の練度を披露する、演習の目玉だ。トーナメント戦の名称は正道館グランプリ、略して正道館GPとなった。
譲二はそれの出場選手に志願しており、こうして、十数分後にはゴングが鳴らされるであろう準決勝の第一試合目を控えている。
「緊張するかね?」という曜一郎自身も愚問とわかる問いに、「そりゃあしますよ」との返答。
準決勝戦の対戦相手はG分隊の強化兵に決まっていた。名前は思い出せないが、武道に対する思想や矜持がほとんど見られず、曜一郎の好みではないタイプだった。
「いいか、譲二よ。朽方流合気道の心得は覚えているな?」
「は、はい。……闘志は燃えども冷静に、呼吸は静かに、目は気を読み、手と足は流麗に。……ですよね」
合気道は、受ける攻撃に力のみで対抗しようとせず、相手の気に自らの気を合わせて捌いたり技を返したりする武術。精神的な境地をもって相手に応じることが重視されるために、対手を含めた天地の在りようを見定めることが何よりも求められている。
ゆえに、呼吸を整え、冴え冴えとした頭で、間合いや気の流れをしかと見極めて、手と足を円転自在に操れるようにしておく必要がある。
「うむ。戦闘ではどんなことも起こりうる。パニックにならず、頭の中で復唱しておけ」
バンテージを巻き終え、曜一郎は譲二の両手にグローブを嵌めてやる。ボクシングやキックボクシング用の物とは違って、指の部分が覆われてないオープンフィンガーグローブだ。
投げ技や寝技なども認められる総合格闘技において、オープンフィンガーグローブは、このように露出している五本指でつかむという動作を可能にした形状が特徴となっている。
「それと、肝に銘じるのは心得だけでよい。合気道の技術的なことは無理にやろうとするな。未熟というものあるが、これは総合格闘技の試合なのだからMMAをしろ」
「わかりました」と頷く譲二。
「おまえにはこんな老兵の真似事など似合わんよ。おまえらしく戦え」
曜一郎はそう言って、グローブの密着具合を譲二自身に確認させる。問題なさそうだった。
「よし。ではミット打ちをしようか。ウォームアップだ」
立ち上がってパイプ椅子を片づけ、狭いながらもミット打ちのスペースを作った。そうして、曜一郎はミットを両手に嵌める。
まずは軽くジャブ。次にジャブとストレートのワンツー。何回か繰り返したら、フックやアッパーカットを織り交ぜた三連打。防御が疎かにならないように時折、打ち返す動作をして回避の動作を取らせる。ミットの構える位置を変えて、ミドルキックや膝蹴りも打たせた。
「……見事なものね」
英里奈がぼそっと呟く。集中している譲二の耳には届かなかったようだ。
「こんなものでいいだろう。良い感覚のまま試合に臨むに越したことはない。後はシャドーボクシングなどをして体を冷やさないようにな」
出過ぎた真似はこのぐらいにし、一下士官及び見物人として身を引こうとした曜一郎はしかし、譲二の物言いたげな顔に気づく。
「どうした? あまり上手いことを言ってやれなくてすまないが……」
そう詫びると、少年はかぶりを振った。次いで、思い詰めたような、まっすぐな目で見てくる。
「朽方師匠は……なぜ、現役格闘兵を続けているんですか? ドラゴン――辰野さんは一線を退いたというのに」
曜一郎は顎をさする。これは予期しなかったタイミングで埒外の質問が来たな、と思った。
その答えが彼にどう作用するというのだろう。人の何でもない話を聞くことで緊張が幾分かほぐれる、というのはあるかもしれない。ならば、考えてみるのも一興か。
「……未練と、惰性が半々、かなぁ」
「未練……ですか」
どう返すのが正解なのかわからないといった教え子の表情を見て、もしかして、やめどきを見失って戦績を汚しているロートルの格闘家に似たようなものと気を遣われてないかと曜一郎は危惧する(合気道の達人は保護などされていないッッ)。
師匠としての威厳のために、すみやかに何か言い訳……ではなくて補足をしなければならない。
「何と言えばいいのやら……。格闘技に対してやり切った、もういいかとはまだ思わなくてな。……戦場に忘れ物をしている気がするんだよ」
これは事実だった。朽方曜一郎は闘争への飢えと渇きを自覚しており、未だに前線を彷徨って、かつての好敵手を追い求めている。
いつか果てが見えるのかはわからない。もしかしたら、道半ばで尽きるかもしれない。そもそも、内を焦がす飢えと渇きの正体が何なのかも不明なのだ。
「あと、小学校に入ったばかりの息子がいるんだが……」
「息子!? 師匠、結婚していたんですか?」
「えっ!?」
曜一郎が息子の存在をカミングアウトすると、案の定というか、譲二は驚きの声を上げた。やや失礼な口ぶりのように思えたが、まあいいと見逃す。
後ろで英里奈までもが物音を立てたのも、曜一郎は大目に見ることにする。世俗などに興味はない求道者のように思われているのだろうか、と己の評判が心配になりつつ。
「おう、既婚者だとも。妻子がいるぞ、羨ましいだろ。……巷では合気道の鬼神だなどと言われているが、実は妻の方が怒ると鬼もかくやという羅刹でな。ものの見事に、尻に敷かれているぞ。わっはっはっは」
「ええー……。師匠、自分のキャラを理解してくださいよ……。ショックっす」
「何たる言い草!? レジェンドを敬いたまえよ!?」
結婚して妻子がいることの自慢をしていたと思ったら、いつの間にかキャラクターの不整合を批判されていた。あまりの不条理さに曜一郎は憤る。
「ったく……。話を戻すぞ。息子はあまり体が丈夫でなくてな、入院と退院を繰り返しているんだが」
ありふれた、さして隠すようなことでもない話だ。曜一郎は、病院の近くにと妻が探して借りたマンションの風景と共に、妻子を思い浮かべる。
白いベッドの上で上半身を起こして破顔する息子の姿に、胸がうずく。
「そんな息子を放ってこのとおり長期派遣の生活をしているのだから、妻はおかんむりでな。もう帰ってこなくていいとまで言われている。息子にも何となく合わせる顔がない感じで、こうして駐屯任務に逃げ込んでいるわけだ。それがさっきの惰性というやつだな」
父親失格の男は自嘲した。もちろん入院や検査の費用を稼がなければいけないというのもあるにはあるのだが、それは副次的な理由にすぎない。
「……師匠。今度の休みにプレゼントを買って帰省した方がいいっすよ。奥方の『帰ってこなくていい』を真に受けちゃだめですって」
「私もそう思います。女性のそういう類は本当に望んでいることの裏返しというか、相手が改心するかどうかを試しているものかと」
「おまえらこんなときだけ結託しおってからに……ぐぬぬぬ」
眼前の少年兵にゲンコツしてやろうかと拳に血管を浮かせていた曜一郎はしかし、怒りを引っ込めざるをえなかった。
ドアをノックする音が聴こえてきたためだ。控室の空気がぴんと張りつめたものになる。
「時間――のようだな」
曜一郎は振り返ってドアを見、そして譲二に向き直る。その頭に手を置いて、やや乱暴に撫でた。
「我が弟子よ、がんばってこい。……おまえ、髪硬いな……」
されるがままの譲二は関節可動の人形のように首を揺らしながらも「押忍」と返事をする(いや、押忍は空手だからな? まあ気持ちはわかるが)。
ドアが少し開けられ、係の人が顔を覗かせる。「時間です。出場選手とセコンドは花道の手前で待機してください」
「朽方師匠、ありがとうございました。では、行ってきます」
一礼する弟子に曜一郎は頷いた。わずかに、子供が外の世界へと飛び出していくのを見送るような心境になる。
譲二は帽子を被って歩いていき、壁にもたれて腕を組んでいる上官ともすれ違う。が、特に何も交わされなかった。
係員に誘導されて更衣室を出ていく譲二を見送り、その背中が完全に見えなくなってから曜一郎は息を吐いた。眉尻を下げて、英里奈を見やる。
「瀬々よ。何でもいいから、言葉をかければよかったろうに」
「朽方さんがあらかた言ってくれたものと思っています」
そういう問題ではないと思うのだが、この女は一度決めたらこう、という頑固なところがある。曜一郎は、それ以上は言わずに、口を閉ざした。
「ときに、朽方さん。松浦くんは……合気道の才能はあるんですか」
武道館の裏に広がる雑木林での個人指導を思い出し、曜一郎はつい相好を崩してしまう。控えめに言っても、あれに合気道は向いてない。
「才能はそれほどでもないな」
曜一郎の直截な見立てを聞いて、英里奈はしばし瞑目する。その口から紡がれたのは、人情や贔屓が入り込む余地のない、冷徹な未来予測だった。
「……そうですか。でしたら、異能もありませんし、瞬殺されて早々に終わりますね」
「気が早いな。確かに才覚はなかったが、弱いとは言ってないぞ」
英里奈が驚きの顔を見せるが、曜一郎はニヤリと笑うだけで受け流した。外野の勝敗予想はしすぎても野暮というものだ。
彼女はすぐに渋面を作る。
「……それは、また、逆に厄介ですね。なまじ抵抗や拘泥ができるなら、あのチート兵コンビは尚更、容赦してこない」
あれらの気質に関しては否めなかった。譲二は特段、打たれ弱くもないのでむしろ、凄惨な試合展開になるかもしれないなと曜一郎は憂慮する。
しかし、何だ? この分隊長は、譲二の身を案じているというよりは、大怪我しかねないことについて懸念を示しているような……。
少なくとも、一縷の期待や十中八九の敗北への心痛といった類の感情は一切持ち合わせていないことがわかる。
「割り切ればよかろう。部下の一兵卒が演習で負傷するというだけのことだと。命に別状はなく、せいぜい後始末が増える程度だ」
「そうは言いますけれど……。彼は曰くつきで、素行に問題があり、上層部の監視対象になっています。強化適性なしにもかかわらずこのトーナメントにエントリーしたことを含めて、既に面倒な量の後処理が来ているんですよ」
憤懣やるかたないといった感じでほっぺを膨らませる女上官。よく見れば、目の下に薄っすらとクマができている。
「であれば、その分が報われるように応援といこうか。なぁに、達人は教導にも秀でているものだ。“男子、三日会わざれば刮目して見よ”。案外、部下の成長に目を見張ることになるかもしれないぞ」
曜一郎は、このままだと管理棟へと引き返しそうな英里奈を少々強引に、観戦に誘う。
リング上では選手の人間性というか本性が幾らか現れるものだ。松浦譲二の奥底にある本音をかいま見て、この堅物の女が何か感じるところがあればよし。
感じとれなくとも、歪ながらも大人になろうとしている少年少女の足掻きとひたむきさを見届けるべきだ。それが我々に課された責務と贖罪の一つなのだから。
かっこつけて控室を後にした曜一郎だが、彼は知らない。その尻ポケットに収まっていた、「バカでもできる付け焼き刃のコーチング」というタイトルの本を英里奈にしかと目撃されていたのを。
英里奈はむせそうになったのをこらえて、せめてもの慈悲にと、何も見なかったフリをする。松浦譲二に万に一つも勝ち目はない、と彼女は確信した。




